通称・蔦重(つたじゅう)、屋号は耕書堂(こうしょどう)または薜羅館(へきらかん)、流行の狂歌も詠み、狂名は蔦唐丸(つたのからまる)。狂歌の師は宿屋飯盛(やどやのめしもり)こと石川雅望だと言われている。のちに大田南畝に私淑する。自作の戯作も5点ほどあり、自社の蔦屋から出版している。
蔦屋重三郎(蔦重)を知る手がかりで今に残る基本的資料は、次の四系統である。
一、墓碑銘
石川雅望(宿屋飯盛)撰文の「喜多川柯理墓碣銘」と大田南畝による重三郎の「実母顕彰の碑文」である。重三郎とその一族の墓は、浅草の正法寺にあったが、関東大震災と戦災の被害によって、今は跡形もない。明治時代の文献に記された翻刻文が残っているにすぎない。雅望、南畝の碑文は漢文である。
二、蔦屋発行本の奥付と広告、蔦重自身によるまえがき、浮世絵に刻印された蔦屋の商標
三、文献に残る、作家・絵師たちによる蔦重に関するコメント
大田南畝、山東京山、雪麿、曲亭馬琴など
四、黄表紙などで蔦重を描いた挿絵
蔦屋重三郎は、寛延3年1月7日(1750年2月13日)江戸新吉原に生まれた。父は尾張の人・丸山重助、母は江戸の人・津与(広瀬氏)で、柯理(からまる)と名づけられた。
父がどういう人で何をしていたのか、母がどういう人だったかも全く不明である。重三郎が吉原で生まれたことだけは確かだが、父は遊郭で働いていた人だったのではないか、母はもしかすると元遊女ではなかったのかとも言われているが、これは憶測にすぎない。
幼い頃は母の愛情を浴びて幸せに育てられたようだが、その後、母が離縁されたらしく、重三郎は7歳の時に喜多川氏に養われることになる。喜多川氏というのは、新吉原仲之町の妓楼・引手茶屋の蔦屋本家のことだとされている。宝暦・明和期に幼少年時代を送るが、その伝記はまったく不明である。
後年(天明3年)、重三郎が出世して、日本橋通油町(とおりあぶらちょう)に本店を構えるようになって、別れていた父と母を呼び寄せ、一緒に暮らして親孝行したという。母津与は、寛政4年10月26日に病死したが、その翌年、重三郎は浅草の正法寺にあった墓を立派な墓に作り直し、大田南畝に頼んで、碑文を書いてもらっている。
重三郎は、養家蔦屋のバックアップと遊郭街吉原で育った利点を生かし、まず、吉原の大門そばに小さな本屋を出し、吉原お遊びガイドブック「吉原細見(よしわらさいけん)」の小売を始めた。当時吉原細見を出版していたのは老舗の版元鱗形屋孫兵衛(うろこがたやまごべえ)であったが、重三郎はその支援を受け、吉原細見の小売から編集制作、出版に手を広げる。
重三郎が新吉原大門口五十間道(五十軒道)に本屋を開いたのは、明和の末から安永2年初めまでだと推定されている。蔦屋治郎吉という人の家(蔦屋の案内所?)の入口を借りた小さな店だったようだ。
「吉原細見」*大門に向かって左側の店並に重三郎の「つたや」がある。また、吉原内中央のメインストリート(仲之町通り)の左側、前から7軒目に「つたや」がある。
安永2年(1773)秋発行の鱗形屋版の吉原細見本「這嬋観玉盤(このふみづき)」(勝川春章画、再摺本)の奥付に初めて蔦屋重三郎の名前が載る。蔦重24歳(数え)の時である。
此細見改 新吉原五十間道左りかは
おろし小売 取次仕候 蔦屋重三郎
安永二癸巳歳
毎月大改 板元 鱗形屋
「改」というのは、調査、編集のこと、「おろし小売 取次つかまつりそうろう」、つまり、板元から委託され、小売店、行商人、貸本屋に本を卸し売りするということである。
安永3年(1774)春発行、鱗形屋版の吉原細見本「嗚呼御江戸(ああおえど)」の奥付にも名前が載る。
細見おろし小売 新吉原五十軒道左側 蔦屋重三郎
この頃、重三郎は、版元鱗形屋の下請けの編集者(従業員がいれば編集プロダクション)になって吉原細見本の制作に携わっていたと思われる。そして、おそらく1年かそこらで、版元へと転進をはかる。
安永3年7月発行 遊女評判記「一目千本 花すまひ」が版元蔦屋の処女出版である。序文は紅塵陌人(誰だか不明)が書き、口絵は一流絵師の北尾重政が描いている。
刊記に、
安永三甲午歳七月吉日 画工北尾重政
板元書肆 新吉原五十軒 蔦屋重三郎
出版資金は蔦屋と各遊郭が出し、鱗形屋孫兵衛の全面的協力があったことは間違いなかろう。この本は、吉原細見ではなく、遊女評判記である。廓関係の出版物には二種類あって、吉原細見は公式ガイドブック、評判記は副読本である。ほかに遊女の錦絵もあり、こちらはブロマイドといったもの。
北尾重政(1739~1820)は、この頃、勝川春章と並ぶ第一線の人気絵師であった。重政との結びつきはその後の蔦屋の発展に大きく寄与した。重政門下の俊英三人、北尾政演(まさのぶ のちの山東京伝)、北尾政美(まさよし)、窪春満(くぼしゅんまん)、また門下同然の喜多川歌麿(当時は北川豊章)と知り合うことで、重三郎は彼らの大きな協力も得ることになる。北尾重政は、重三郎より11歳年長であったが、以後ずっと蔦屋発行のさまざまな本に挿絵を描き続け、重三郎が亡くなるまで親交を絶やすことがなかった。
安永3年半ばから8年半ばまでの5年間は、蔦屋重三郎にとって、創業後の模索期であり、その後の発展の雌伏期でもあった。
まず、出版資金がないこと、古くからある大手版元の中へ参入することの困難、ヒット本の選定がまだ不確かであったことなどが上げられるだろう。
一方、鱗形屋孫兵衛の協力を得て、出版社の基礎である制作スタッフ(板木屋、摺り師など)の獲得と充実、作家や絵師たちとの交流と人脈作り、売れ行きが確実な本(たとえば「吉原細見」)の刊行といったことを着々と進めていった。刊行本のジャンルも少しずつ広げていったことは、その出版目録から窺われる。
安永4年 噺本「現金安売ばなし」(蔦唐丸序、鳥居清経画)。
秋、吉原細見版元となり、「籬(まがき)の花」刊行。遊女評判記「急戯花の名寄」(耕書堂序)
安永5年 吉原細見「名華選」、吉原細見「家満人言葉」
読本「青楼奇事 烟花清談」
同年正月、版元山崎金兵衛(本石町拾軒店)と共同発行(合版)で、四季の遊女たちの姿絵および遊女自作の俳諧集「青楼美人合姿鏡(せいろうびじんあわせすがたかがみ)」(勝川春章、北尾重政・画)3巻が刊行される。蔦屋重三郎が序文を書き、この艶やかな多色摺り豪華絵本は大ヒット作となった。
「蔦屋重三郎と天明・寛政の浮世絵師たち」(昭和60年2月 浮世絵 太田記念美術館)に白黒だが全ページ掲載されている。吉原の遊女約150人の春夏秋冬の日常の姿(男客は皆無)を勝川春章と北尾重政の美人画の名手が描き、巻末に彼女たちの俳諧が載った大作である。
「青楼美人合姿鏡」3巻
春、扇屋の遊女たち
また、同年、大手版元西村与八と合版で錦絵「雛形若菜初模様」(湖竜斎画)を刊行するも、わずか数点出して決裂。(以後、このシリーズは版元西村与八の単独出版で天明初年まで続刊された。また西村与八との角逐は重三郎が亡くなるまで続く)
安永6年 吉原細見「四季の太夫」、吉原細見「三津の根色」
洒落本「娼妃地理記」道蛇楼麻阿(どうだろうまあ)作 *朋誠堂喜三二のこと。
評判記「江戸しまん評判記」
絵本「明月余情」(朋誠堂喜三二序、恋川春町画)
活花本「手ごと清水」
富本正本「夫婦酒替奴中仲」(北尾政演画)
冬、五十間道東側堤寄りの家田屋半兵衛方跡へ移る。
安永7年 吉原細見1点のみ。
安永8年 吉原細見1点、噺本2点のみ。
安永6年の版元鱗形屋孫兵衛の経営悪化が蔦屋にも大きく影響し、この2年は、蔦屋最大のピンチだった。
鱗形屋は創業100年の歴史を誇る江戸の版元(地本問屋)で、大伝馬町3丁目にあった。主人は山野孫兵衛で、何代目かは分からないが、重三郎が取引していた孫兵衛は、お人よしで経営能力が欠けていたようである。
吉原細見は、それまではほぼ鱗形屋の独占出版で、確実に収益が上がる本であった。重三郎に販売権と編集制作を委ね、さらに出版権まで与えたのは、孫兵衛が重三郎を見込んでのことであり、また彼の好意であったと思われる。
安永4年春、鱗形屋は、黄表紙の第一弾、恋川春町の「金々先生栄華夢」を刊行し、大ベストセラーになって、黄表紙の新作を次々と売り出しヒットさせ、江戸の出版界をリードするようになった。吉原細見の出版権を蔦屋に与えたのは、鱗形屋が黄表紙の出版に追われたことも理由の一つだったかもしれない。が、好事魔多し、同年夏に既存本の無断重版で奉行所から咎めを受ける。この時は、大事には至らなかったようだが、2年後の安永6年夏にも同じ不祥事を起こし、今度は厳罰が下る。翌安永7年1月、鱗形屋の関係者が処罰され、主人の孫兵衛も罰金を科せられた。これで、鱗形屋の屋台骨は一気に傾き、吉原細見の版権も黄表紙の売れっ子作家も手放さざるを得なくなってしまう。結局鱗形屋は、吉原細見の版権をそのまま蔦屋に委譲することになった。そして、鱗形屋の専属売れっ子作家であった朋誠堂喜三二が蔦屋に移って黄表紙を出し、さらに恋川春町も2年ほど休筆した後、蔦屋に移ってくることになる。
蔦屋重三郎が機を捕え、勇躍して出版業界に打って出るのは安永9年正月からである。
蔦屋重三郎(蔦重)を知る手がかりで今に残る基本的資料は、次の四系統である。
一、墓碑銘
石川雅望(宿屋飯盛)撰文の「喜多川柯理墓碣銘」と大田南畝による重三郎の「実母顕彰の碑文」である。重三郎とその一族の墓は、浅草の正法寺にあったが、関東大震災と戦災の被害によって、今は跡形もない。明治時代の文献に記された翻刻文が残っているにすぎない。雅望、南畝の碑文は漢文である。
二、蔦屋発行本の奥付と広告、蔦重自身によるまえがき、浮世絵に刻印された蔦屋の商標
三、文献に残る、作家・絵師たちによる蔦重に関するコメント
大田南畝、山東京山、雪麿、曲亭馬琴など
四、黄表紙などで蔦重を描いた挿絵
蔦屋重三郎は、寛延3年1月7日(1750年2月13日)江戸新吉原に生まれた。父は尾張の人・丸山重助、母は江戸の人・津与(広瀬氏)で、柯理(からまる)と名づけられた。
父がどういう人で何をしていたのか、母がどういう人だったかも全く不明である。重三郎が吉原で生まれたことだけは確かだが、父は遊郭で働いていた人だったのではないか、母はもしかすると元遊女ではなかったのかとも言われているが、これは憶測にすぎない。
幼い頃は母の愛情を浴びて幸せに育てられたようだが、その後、母が離縁されたらしく、重三郎は7歳の時に喜多川氏に養われることになる。喜多川氏というのは、新吉原仲之町の妓楼・引手茶屋の蔦屋本家のことだとされている。宝暦・明和期に幼少年時代を送るが、その伝記はまったく不明である。
後年(天明3年)、重三郎が出世して、日本橋通油町(とおりあぶらちょう)に本店を構えるようになって、別れていた父と母を呼び寄せ、一緒に暮らして親孝行したという。母津与は、寛政4年10月26日に病死したが、その翌年、重三郎は浅草の正法寺にあった墓を立派な墓に作り直し、大田南畝に頼んで、碑文を書いてもらっている。
重三郎は、養家蔦屋のバックアップと遊郭街吉原で育った利点を生かし、まず、吉原の大門そばに小さな本屋を出し、吉原お遊びガイドブック「吉原細見(よしわらさいけん)」の小売を始めた。当時吉原細見を出版していたのは老舗の版元鱗形屋孫兵衛(うろこがたやまごべえ)であったが、重三郎はその支援を受け、吉原細見の小売から編集制作、出版に手を広げる。
重三郎が新吉原大門口五十間道(五十軒道)に本屋を開いたのは、明和の末から安永2年初めまでだと推定されている。蔦屋治郎吉という人の家(蔦屋の案内所?)の入口を借りた小さな店だったようだ。
「吉原細見」*大門に向かって左側の店並に重三郎の「つたや」がある。また、吉原内中央のメインストリート(仲之町通り)の左側、前から7軒目に「つたや」がある。
安永2年(1773)秋発行の鱗形屋版の吉原細見本「這嬋観玉盤(このふみづき)」(勝川春章画、再摺本)の奥付に初めて蔦屋重三郎の名前が載る。蔦重24歳(数え)の時である。
此細見改 新吉原五十間道左りかは
おろし小売 取次仕候 蔦屋重三郎
安永二癸巳歳
毎月大改 板元 鱗形屋
「改」というのは、調査、編集のこと、「おろし小売 取次つかまつりそうろう」、つまり、板元から委託され、小売店、行商人、貸本屋に本を卸し売りするということである。
安永3年(1774)春発行、鱗形屋版の吉原細見本「嗚呼御江戸(ああおえど)」の奥付にも名前が載る。
細見おろし小売 新吉原五十軒道左側 蔦屋重三郎
この頃、重三郎は、版元鱗形屋の下請けの編集者(従業員がいれば編集プロダクション)になって吉原細見本の制作に携わっていたと思われる。そして、おそらく1年かそこらで、版元へと転進をはかる。
安永3年7月発行 遊女評判記「一目千本 花すまひ」が版元蔦屋の処女出版である。序文は紅塵陌人(誰だか不明)が書き、口絵は一流絵師の北尾重政が描いている。
刊記に、
安永三甲午歳七月吉日 画工北尾重政
板元書肆 新吉原五十軒 蔦屋重三郎
出版資金は蔦屋と各遊郭が出し、鱗形屋孫兵衛の全面的協力があったことは間違いなかろう。この本は、吉原細見ではなく、遊女評判記である。廓関係の出版物には二種類あって、吉原細見は公式ガイドブック、評判記は副読本である。ほかに遊女の錦絵もあり、こちらはブロマイドといったもの。
北尾重政(1739~1820)は、この頃、勝川春章と並ぶ第一線の人気絵師であった。重政との結びつきはその後の蔦屋の発展に大きく寄与した。重政門下の俊英三人、北尾政演(まさのぶ のちの山東京伝)、北尾政美(まさよし)、窪春満(くぼしゅんまん)、また門下同然の喜多川歌麿(当時は北川豊章)と知り合うことで、重三郎は彼らの大きな協力も得ることになる。北尾重政は、重三郎より11歳年長であったが、以後ずっと蔦屋発行のさまざまな本に挿絵を描き続け、重三郎が亡くなるまで親交を絶やすことがなかった。
安永3年半ばから8年半ばまでの5年間は、蔦屋重三郎にとって、創業後の模索期であり、その後の発展の雌伏期でもあった。
まず、出版資金がないこと、古くからある大手版元の中へ参入することの困難、ヒット本の選定がまだ不確かであったことなどが上げられるだろう。
一方、鱗形屋孫兵衛の協力を得て、出版社の基礎である制作スタッフ(板木屋、摺り師など)の獲得と充実、作家や絵師たちとの交流と人脈作り、売れ行きが確実な本(たとえば「吉原細見」)の刊行といったことを着々と進めていった。刊行本のジャンルも少しずつ広げていったことは、その出版目録から窺われる。
安永4年 噺本「現金安売ばなし」(蔦唐丸序、鳥居清経画)。
秋、吉原細見版元となり、「籬(まがき)の花」刊行。遊女評判記「急戯花の名寄」(耕書堂序)
安永5年 吉原細見「名華選」、吉原細見「家満人言葉」
読本「青楼奇事 烟花清談」
同年正月、版元山崎金兵衛(本石町拾軒店)と共同発行(合版)で、四季の遊女たちの姿絵および遊女自作の俳諧集「青楼美人合姿鏡(せいろうびじんあわせすがたかがみ)」(勝川春章、北尾重政・画)3巻が刊行される。蔦屋重三郎が序文を書き、この艶やかな多色摺り豪華絵本は大ヒット作となった。
「蔦屋重三郎と天明・寛政の浮世絵師たち」(昭和60年2月 浮世絵 太田記念美術館)に白黒だが全ページ掲載されている。吉原の遊女約150人の春夏秋冬の日常の姿(男客は皆無)を勝川春章と北尾重政の美人画の名手が描き、巻末に彼女たちの俳諧が載った大作である。
「青楼美人合姿鏡」3巻
春、扇屋の遊女たち
また、同年、大手版元西村与八と合版で錦絵「雛形若菜初模様」(湖竜斎画)を刊行するも、わずか数点出して決裂。(以後、このシリーズは版元西村与八の単独出版で天明初年まで続刊された。また西村与八との角逐は重三郎が亡くなるまで続く)
安永6年 吉原細見「四季の太夫」、吉原細見「三津の根色」
洒落本「娼妃地理記」道蛇楼麻阿(どうだろうまあ)作 *朋誠堂喜三二のこと。
評判記「江戸しまん評判記」
絵本「明月余情」(朋誠堂喜三二序、恋川春町画)
活花本「手ごと清水」
富本正本「夫婦酒替奴中仲」(北尾政演画)
冬、五十間道東側堤寄りの家田屋半兵衛方跡へ移る。
安永7年 吉原細見1点のみ。
安永8年 吉原細見1点、噺本2点のみ。
安永6年の版元鱗形屋孫兵衛の経営悪化が蔦屋にも大きく影響し、この2年は、蔦屋最大のピンチだった。
鱗形屋は創業100年の歴史を誇る江戸の版元(地本問屋)で、大伝馬町3丁目にあった。主人は山野孫兵衛で、何代目かは分からないが、重三郎が取引していた孫兵衛は、お人よしで経営能力が欠けていたようである。
吉原細見は、それまではほぼ鱗形屋の独占出版で、確実に収益が上がる本であった。重三郎に販売権と編集制作を委ね、さらに出版権まで与えたのは、孫兵衛が重三郎を見込んでのことであり、また彼の好意であったと思われる。
安永4年春、鱗形屋は、黄表紙の第一弾、恋川春町の「金々先生栄華夢」を刊行し、大ベストセラーになって、黄表紙の新作を次々と売り出しヒットさせ、江戸の出版界をリードするようになった。吉原細見の出版権を蔦屋に与えたのは、鱗形屋が黄表紙の出版に追われたことも理由の一つだったかもしれない。が、好事魔多し、同年夏に既存本の無断重版で奉行所から咎めを受ける。この時は、大事には至らなかったようだが、2年後の安永6年夏にも同じ不祥事を起こし、今度は厳罰が下る。翌安永7年1月、鱗形屋の関係者が処罰され、主人の孫兵衛も罰金を科せられた。これで、鱗形屋の屋台骨は一気に傾き、吉原細見の版権も黄表紙の売れっ子作家も手放さざるを得なくなってしまう。結局鱗形屋は、吉原細見の版権をそのまま蔦屋に委譲することになった。そして、鱗形屋の専属売れっ子作家であった朋誠堂喜三二が蔦屋に移って黄表紙を出し、さらに恋川春町も2年ほど休筆した後、蔦屋に移ってくることになる。
蔦屋重三郎が機を捕え、勇躍して出版業界に打って出るのは安永9年正月からである。
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