背寒日誌

2024年10月末より再開。日々感じたこと、観たこと、聴いたもの、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

蔦屋周辺の人物たち~朋誠堂喜三二

2014年05月29日 22時58分18秒 | 蔦屋重三郎とその周辺
 享保20年(1735)閏3月21日、江戸に生まれる。父は武士の西村氏で、その三男であった。幼名・昭茂。14歳で母方の縁戚にあたる平沢家の養子に入る。本名・平沢常富、通称・平格(平角)。平沢家は二十五万五千八百石の大藩・秋田久保田藩の家臣で、代々剣術の師範格でもあったらしい。愛洲陰流という剣術の開祖の血筋を引く家柄で、それもあってか、平沢平格は江戸住のエリート藩士として昇進していったようだ。
 しかし、硬派の剣術使いとは真反対に軟弱な気風に染まり、子どもの頃から芝居を好み、乱舞や鼓なども習っていた影響からか、成年になると、吉原通いを始めた。酒はたしなまなかったが、芸達者で評判を高め、自ら「宝暦の色男」と称していたというから推して知るべしである。文武両道というより、硬軟両股といった行き方であった。宝暦期だから、20代半ばの頃であろう。
 彼は子供の頃俳諧を馬場存義に学び、後年は夜雨庵亀成の門に入り、俳名を雨後庵月成(つきなり)と言った。蔦屋重三郎は、彼のことを「月成さん」と呼んで敬愛しているが、二人はかなり早い時期(安永以前)から知り合いだったように思われる。月成は明和6年、35歳の時すでに「吉原細見」に序文を書いているほどで、吉原ではお武家様の通人(つうじん)として知らぬ者のない名士であった。そして、蔦重が「吉原細見」を発行するようになって、安永6年から毎春序文を寄せてくれたのも、月成さんこと朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)であった。
 武士としての平沢平格は、久保田藩の渉外役を務めていたようで、他藩との連絡折衝や他藩についての情報収集をしていたと思われる。吉原を社交サロンないしは接待の場として、自藩や他藩のお偉方の案内役のようなこともしていたのだろう。社用族ならぬ藩用族である。駿河小島藩の倉橋格(戯作者恋川春町)も、小藩だが同じような役目で、二人は莫逆の交わりを結び、のちに二人とも吉原通いを生かし、黄表紙のベストセラー作家となり、安永天明期において、武家出身の戯作者の両巨頭と呼ばれるようになる。
 恋川春町は文才画才兼ね備え、黄表紙も自作自画であったが、朋誠堂喜三二は、文だけ書き、絵は親友の春町に描いてもらうことが多かった。朋誠堂喜三二は戯作者としての筆名であるが、この名は「干せど気散じ」(干上がっても気楽)のもじりで、武士は食ねど高楊枝の意味ではないかと言われている。彼は狂歌も数多く詠み、狂名を手柄岡持(てがらのおかもち)といい、狂詩を書くときには韓長齢(かんのちょうれい)と号した。また、洒落本を書くときの名は、道蛇楼麻阿(どうだろうまあ)で、ほかに、浅黄裏成、亀山人、朝東亭などがあり、真面目な号は愛洲(先祖である剣術の開祖の名からとった)、隠居後は平荷であったという。


「手柄岡持」 北尾政演(山東京伝)画、狂歌本『吾妻曲(あずまぶり)狂歌文庫』より

 いろいろな名を持つこの平沢平格は、天明期には秋田藩留守居役筆頭にまで昇りつめ、120石取りであった。留守居役というのは、江戸藩邸を取り仕切り、幕府や諸藩との交渉を行う実務上の最高責任者である。公務のかたわら、30数作の黄表紙の書き上げ、次々とヒット作を飛ばしていったのだから、すごいものである。
 戯作の最初は安永2年(1773)、金錦佐恵流(きんきんさえる)の名で著した洒落本『当世風俗通』(恋川春町画)である。そして、恋川春町はこの本に刺激され影響を受けて、安永4年に黄表紙ブームの開幕を飾る大ヒット作『金々先生栄華夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』(鱗形屋版)を自作自画したと言われている。「金々(きんきん)」というのは当時の流行語で、金ピカで豪華なこと、贅沢な遊びを指し、金々先生は当世風の伊達男を意味し、朋誠堂喜三二の仇名でもあった。
 朋誠堂喜三二は、安政6年、43歳から黄表紙を書きまくるが、奇想天外な大人の童話、歌舞伎の筋書きをもじったパロディ、当時の政治に触れた問題作などに、都会人らしい洒落、滑稽、ナンセンスを盛り込み、巧緻な構成は他の追随を許さず、彼の代表作は十指にあまるとされている。
 昔話の「かちかち山」と歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」をないまぜにした『親敵討腹鞁(おやのかたきうて はらづつみ)』(1777)をはじめ、『桃太郎後日話(ももたろう ごにちばなし)』(1777)、『鼻峯高慢男(はなみね こうまんおとこ)』(1777)、『案内手本通人蔵(あなでほん つうじんぐら)』(以上すべて春町画、鱗形屋版)、『見徳一炊夢(みるがとく いっすいのゆめ)』(重政画 1781)、『一流万金談』(政演画 1781)、『景清百人一首』(重政画 1782)、『長生見度記(ながいき みたいき)』(春町画 1783)(以上すべて蔦屋版)が主な代表作である。
 ウィットに富んだ面白い題名が多い。『桃太郎後日話』『見徳一炊夢』の2作だけ、私は絵を見ながら読んでみたが、後者は傑作である。
 安永9年以降、朋誠堂喜三二の黄表紙は、ほとんどすべて蔦屋重三郎が発行しているほどで、喜三二は蔦重にとって最高かつ最大の協力者であった。
 ほかに喜三二は、滑稽本『古朽木(ふるくちき)』(西村伝兵衛版 1780)、咄本『百福物語』(春町らと合作、伏見屋版1788)も残している。
 喜三二の最終作となった黄表紙、天明8年(1788)正月発行の『文武二道万石通(ぶんぶにどうまんごくどおし)』(喜多川行麿画、蔦屋版)は、前年から始まった老中松平定信の改革を鎌倉時代に移してユーモアと隠喩を込めて描いた問題作であり、発売されるやいなや爆発的な大ヒットとなった。馬琴もこの本について、「古今未曾有の大流行にて……赤本の作ありてより以来、かばかり行はれしものは前代未聞の事なりといふ」(「物之本江戸作者部類」)と書いているほどである。しかし、幕政を茶化していると取られかねない内容でもあり、政治問題へと発展する恐れもあったため、喜三二は主家から命じられ、戯作の筆を断つことになってしまう。
 蔦屋重三郎も喜三二もこれほど重大な事態になるとは予想もしていなかったであろう。まさに晴天の霹靂であった。重三郎にとっては、喜三二の断筆は大きな打撃だった。
 『文武二道万石通』は、短期間に再版を何度も重ね、問題になりそうな箇所は初版に修正を加えたことが現在では分かっている。この本は、発禁にもならず、重三郎も処罰を受けなかったが、寛政期に入り、幕府の取り締まりは厳しさを増していく。これについては回を改め述べるつもりである。
 朋誠堂喜三二はその後公務に励みながら、手柄岡持の名で狂歌だけは詠み続けたという。彼の家庭や妻については不明であるが、長男の為八が平沢家を継いで、同じく留守居役を勤めたことが知られている。
 平沢平格、文化10年(1813)年5月20日、死去。享年79歳の大往生であった。戒名は法性院月成日明居士。墓は東京都江東区深川三好町の一乗院。歿後翌年の文化11年(1814)には狂文集『岡持家集 我おもしろ』が刊行されている。

*参考資料
 朝日日本歴史人物事典、ウィキペディア、「日本古典文学大系 黄表紙洒落本集」(岩波書店)所収の解説(水野稔)、同書付録・月報18掲載の「喜三二と春町」(濱田義一郎)、「江戸の戯作絵本(一)初期黄表紙集」(現代教養文庫)
 なお、『見徳一炊夢』『文武二道万石通』は「日本古典文学大系」に、『桃太郎後日話』『一流万金談』は「江戸の戯作絵本(一)」に収録されている。




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