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『解夏』は「げげ」と読み、仏教の言葉だという。映画の中で老僧役の松村達雄がその意味を説明しているので私も初めて知ったのだが、坊さんが梅雨時に寓居にこもって修行を始めることを「結夏」(けつげ)といい、修行を終えることを「解夏」と言い、修行期間中を「夏安居」(げあんご)と言うそうだ。
で、この映画は、東京で小学校の教師をしていた青年(大沢たかお)がベーチェット病(この病気も私は初めて知った)にかかり、母(冨司純子)の暮らす郷里の長崎に帰って、ついに失明するまでのストーリーである。発病から失明までの苦行の期間を夏安居とし、失明する日を解夏にたとえて、タイトルにしている。この青年には婚約者の恋人(石田ゆり子)がいる。彼女は長崎までやって来て、青年の実家に同居し、彼を見守り彼を支えながら、その愛を確かめ合っていく。原作は、さだまさしの同名小説である。
私はこういったストーリーを真面目に作った映画は苦手である。あまり見たいとも思わないのだが、何も知らずにDVDを借りて見たら、そういう映画だった。恋愛関係にある男女の片方が重病にかかって、二人の愛が深まっていくといった内容の映画は、作品の出来ばえによっては感動を覚えることもあるが、途中で付いていけなくなり、うんざりする映画がほとんどなのだ。『解夏』という映画を観た感想を言えば、やはりこの映画もその一本であった。『世界の中心で、愛を叫ぶ』もそうだった。『ツレがうつになりまして』は、男女が夫婦で、夫の病気がうつ病だったが、似たようなパターンの話にしては、感心するほど実にうまく出来ている映画だった。
『解夏』の原作の成立事情は良く知らない。モデルとなった実在の青年がいたのかもしれない。さだまさしがその青年のことを知って、フィクションを加えて小説にしたようにも思われる。が、原作を読んでいないのでその点はなんと言えない。しかし、映画を観た限りでは、ドラマ仕立てにしたあちこちが気になって、そのウソっぽさが目立ち、観ていて、どうしてもシラけた気分になってしまった。作り手は、決して観客のお涙頂戴を狙う意図を持っていたわけでなく、真面目に描こうと懸命になって作ったのだと思う。が、その真面目な姿勢が、逆にフィクションの罠にはまる原因になってしまったのではなかろうか。ドラマに入れ込みすぎるあまり、自分たち(製作スタッフや俳優)の感動を伝えようとして、一人相撲を取ってしまったと思えてならない。ウソをまことしやかに描くことほど難しいことはない。映画を観ていて、ウソっぽさが目立つようでは人間の真実も隠れてしまうし、何の感動も伝わらない。とはいえ、これは、『解夏』という映画を観て、あくまでも私が感じたことであり、観客にはウソっぽさを感じず、感動した人も多かったのかもしれない。
『解夏』(監督磯村一路)を見ていて、私が首をかしげた箇所をいくつか挙げておく。
神宮外苑の絵画館に飾ってあった長崎の風景画が重要なモチーフになっているのは良いとして、主人公の青年が婚約者を長崎から追い返してしまったあと、東京へ連れ戻しに行って絵画館の前で婚約者に出会うシーン。ここなどはまるでメロドラマのご都合主義である。
小学校の教え子たちから長崎に手紙が来て、婚約者が青年に代わって、一つ一つ読み上げるシーン。青年が教師としてどれほど生徒に慕われていたかを示すところであるが、描き方がいかにもわざとらしい。
婚約者がなぜモンゴルへ行っていたのかもよく分からないが、父親から青年の発病を知らせる手紙をもらったらしく、急に帰国して青年のアパートを訪ねるシーン。この二人が婚約関係にあるとは思えないほど、よそよそしい。これは演出の問題であろう。
この映画ではほかにも、二人の距離感が気になり、男女の愛を描いた作品になっていないと感じた。長崎にやって来た婚約者が青年の実家に同居して(姉の空いた部屋に住む)、研究論文を書くことになるのだが、同じ屋根の下で暮らす二人の関係がまったく盛り上がらない。船に乗って海へ出たり、丘へドライブにいくことはあっても、キスシーンすらなく、ましてベッドシーンもない。奇麗事だけで性愛の匂いすら感じられない。青年はインポでもあるまいし、二人でラブホテルでも行きなさいと言いたくなった。もし青年が失明するのなら、いちばん目に焼け付けたいのは、長崎の景色より、愛する婚約者の顔であり、その裸の姿ではあるまいか。
長崎の風景や色とりどりの花を美しく撮影するのも良い。また、登場人物たちの話す長崎弁を懐かしく聞かせるのも良い。が、それは映画の単なる背景であり、枝葉の部分なのだ。この映画は長崎の観光映画ではないのだ。また、ストーリーや登場人物の設定も二次的なことと言えよう。本質的なテーマは、婚約関係にある男女の愛のきずなであろう。このドラマの中心に焦点を合わせず、あちこちに描写が拡散して、肝心の二人の関係を濃密に描いていないことがこの映画の最大の欠陥だった。見ていて私は、青年役の大沢たかおにも、恋人役の石田ゆり子にも、共感が持てなかった。この映画で大沢たかおが主演男優賞をとるほど素晴らしい演技をしているとも思わなかった。石田ゆり子にも魅力を感じなかった。二人の愛は不完全燃焼のまま、気が付いたら青年が失明し、あっけなくこの映画は終っていた。
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