落語「芝浜」は夫婦の情愛を描いた話なので、亭主と女房の人物像をどう造形するかが重要である。また、演者の解釈力と表現力(芸)の見せどころでもある。
この夫婦、一体何歳くらいなのだろうか。子供はいないが、連れ添って数年は経っているというので、亭主は二十七、八歳、女房は二十三、四歳なのではなかろうか。志ん生や三木助が演じると、夫婦の年齢がぐっと上がるような印象を受けるが、夫婦とも三十歳は超えていないと思う。
もちろん、古典落語では、時代設定は江戸後期で、夫婦は芝の浜からそれほど遠くない裏長屋に住んでいる。徒歩1時間以内といったところだろう。
亭主の熊五郎あるいは勝五郎は、酒好きで怠け者だが、江戸っ子的な好人物。魚売りとしての腕も良く、友達もたくさんいる。やや短気で、喧嘩っ早いところもあるが、人柄も良く、得意先の評判も良い。酒さえ飲まなければ、立派に魚屋でやっていけるのだが、裏長屋の貧乏暮らしが続いて、そのウサを酒で晴らしているようだ。
女房の方は、いわゆる世話女房でしっかり者。「芝浜」ではこの女房をどう描くかが難しいと思うが、良妻の鑑(かがみ)、ないしは山内一豊の妻的な賢夫人にしたのではあまりにも道徳的で面白くない。
三木助の演じる女房は、亭主を尻に敷いて操っている姉さん女房という感じで、ぽんぽんとよく喋るし、ああ言えばこう言うといった気の強さがある。亭主より頭が良さそうで策略的なところもある。
志ん生の演じる女房は、口数も少なく、従順でおとなしい感じがする。それに心配性で、ごく普通の良識的な女房である。
「芝浜」の前半で、亭主が拾って来た財布の金を勘定し終わって、女房がどう対応するかが第一のポイント。
旧作の左楽の「芝浜」では、「お前さん、これは拾ったんだね」「そうよ」「落した人があるだろうね」「当り前よ。拾った者がありゃァ落した奴があるわけだ」「拾った物をむやみに使うわけにゃァいかないね、届けなくちゃァ」「冗談言うねえ、往来で拾ったんじゃァねえ、海の中で拾ったんだぜ、おいらに授かった金だ、届けるにゃァ及ばねえ」とあって、女房がだんだん不安になってくる。「それじゃァお前さん、このお金をどうするつもりなの」と訊くと、熊が、着物を買ったり友達と飲んだりしてどんどん金を遣ってしまうようなことを言うので、女房はこれはまずいと思い、「そうかい、このお金はわたしが預かるよ、お前さんはもう一寝入りおしよ」と言って、熊を無理やり寝かしつけるのだ。
志ん生の「芝浜」もこの部分のやり取りはほとんど同じで、「届けなくちゃ」というセリフはないが、拾った金を勝手に遣ってしまうのはまずいと感じる女房の心理をきちんと描いている。志ん朝の「芝浜」も、志ん生に倣っているので、同じだ。
それに対し、新作の三木助の「芝浜」では、この部分をまったく変えてしまう。「お前さん、たいした金だねえ」「昔から早起きゃァ三文の徳てえが、どうでえ、八十二両の徳だァ。(中略)俺ァもう明日から商えなんぞいかねえぞ。毎日酒飲んだって、これだけあるんだ、びくともしねえや」「そりゃァそうだね」となって、勝五郎が友達を呼んで宴会をやろうと言うと、女房がまだ朝早いから昼過ぎにしなよという話になって、暇つぶしに熊五郎が昨日飲み残した酒を飲み始めるのだ。女房は酒をついだり、ハゼの佃煮を出したりして、拾った金をどうしようかなどと不安に思っている素振りはまったく見せない。
さて、後半になって、三年後の大晦日、すっかり働き者になった亭主の言葉を聞いて、女房が安心し、金を拾ったことが夢ではなかったことを打ち明ける場面がまさに「芝浜」のヤマである。
左楽の「芝浜」では、女房が革財布ではなく竹筒を出して中に入った金を見せるのだが、志ん生は革財布、三木助も革財布である。三遊亭円楽の「芝浜」だけは、竹筒にしている。
左楽の「芝浜」では、女房がなかなか切り出しにくい様子で、お前さんに内緒でへそくりをしたのでお金を勘定してくれと言う。竹筒を出して、お金を見せ、お前さんが芝浜で拾った金だと打ち明け、こう言う。
「お前さんがこのお金を三年前に拾って来てくれた時、わたしは嬉しかったよ。飛び立つほど嬉しかったがね、お前さんの了見を聞いてみると、てんで真面目に稼ぐ考えはなく、ただ飲んだり食ったり、着物を着たり、見栄に使ってしまいなさる様子だから、こりゃ大変、お金はパッパと使ってしまい、後で拾ったということが知れたなら、お前さんもわたしもどんなお咎めを受けるかしれない、だからね、わたしはお前さんが酔って寝てしまったのを幸いに、大家さんに話をすると(以下略)」
志ん生の「芝浜」でも、女房が革財布を出して打ち明けた後の内容はほぼ同じである。ただし、お咎めのところは具体的にして、
「魚熊さんはこのごろいいなりをして、うまいもんを食べて遊んでるってことを近所の人がほうぼうでしゃべれば、自然とお役人の耳にも入る。お前が番屋に呼び出されて、どうしてそんなことをしているんだとだんだん聞き出されりゃ、暗いところにでも行かなきゃならない。といって、いくら止めたって、このお金をお前さんが使わないじゃいられないだろう。どうしたらいいだろう。しょうがないから、お前さんを寝かしつけて、大家さんに相談して(以下略)」
さて、三木助の「芝浜」は、女房が「途中で怒らないであたしの話を終わりまで聞いておくれよ、いいかい」と念を押してから、「お前さん、実は見てもらいたいものがあるんだけど」と革財布を取り出す。が、ここからがちょっと長すぎて、正直どうかなと思う。女房の打ち明け話もやや大袈裟で、途中で泣きながら情に訴えて話すので、どうも好感が持てない。女房が、もしかして盗んだ金じゃないかと疑ったと言うのも、良くないと思う。
断っておくが、私は三木助の「芝浜」の語り口が一番好きなのだが、後半の女房のセリフと亭主のリアクションがどうしても不満で、前半ほど感動しない。女房が前もって酒の仕度をしてあるのもどうかなと思っている。(つづく)
この夫婦、一体何歳くらいなのだろうか。子供はいないが、連れ添って数年は経っているというので、亭主は二十七、八歳、女房は二十三、四歳なのではなかろうか。志ん生や三木助が演じると、夫婦の年齢がぐっと上がるような印象を受けるが、夫婦とも三十歳は超えていないと思う。
もちろん、古典落語では、時代設定は江戸後期で、夫婦は芝の浜からそれほど遠くない裏長屋に住んでいる。徒歩1時間以内といったところだろう。
亭主の熊五郎あるいは勝五郎は、酒好きで怠け者だが、江戸っ子的な好人物。魚売りとしての腕も良く、友達もたくさんいる。やや短気で、喧嘩っ早いところもあるが、人柄も良く、得意先の評判も良い。酒さえ飲まなければ、立派に魚屋でやっていけるのだが、裏長屋の貧乏暮らしが続いて、そのウサを酒で晴らしているようだ。
女房の方は、いわゆる世話女房でしっかり者。「芝浜」ではこの女房をどう描くかが難しいと思うが、良妻の鑑(かがみ)、ないしは山内一豊の妻的な賢夫人にしたのではあまりにも道徳的で面白くない。
三木助の演じる女房は、亭主を尻に敷いて操っている姉さん女房という感じで、ぽんぽんとよく喋るし、ああ言えばこう言うといった気の強さがある。亭主より頭が良さそうで策略的なところもある。
志ん生の演じる女房は、口数も少なく、従順でおとなしい感じがする。それに心配性で、ごく普通の良識的な女房である。
「芝浜」の前半で、亭主が拾って来た財布の金を勘定し終わって、女房がどう対応するかが第一のポイント。
旧作の左楽の「芝浜」では、「お前さん、これは拾ったんだね」「そうよ」「落した人があるだろうね」「当り前よ。拾った者がありゃァ落した奴があるわけだ」「拾った物をむやみに使うわけにゃァいかないね、届けなくちゃァ」「冗談言うねえ、往来で拾ったんじゃァねえ、海の中で拾ったんだぜ、おいらに授かった金だ、届けるにゃァ及ばねえ」とあって、女房がだんだん不安になってくる。「それじゃァお前さん、このお金をどうするつもりなの」と訊くと、熊が、着物を買ったり友達と飲んだりしてどんどん金を遣ってしまうようなことを言うので、女房はこれはまずいと思い、「そうかい、このお金はわたしが預かるよ、お前さんはもう一寝入りおしよ」と言って、熊を無理やり寝かしつけるのだ。
志ん生の「芝浜」もこの部分のやり取りはほとんど同じで、「届けなくちゃ」というセリフはないが、拾った金を勝手に遣ってしまうのはまずいと感じる女房の心理をきちんと描いている。志ん朝の「芝浜」も、志ん生に倣っているので、同じだ。
それに対し、新作の三木助の「芝浜」では、この部分をまったく変えてしまう。「お前さん、たいした金だねえ」「昔から早起きゃァ三文の徳てえが、どうでえ、八十二両の徳だァ。(中略)俺ァもう明日から商えなんぞいかねえぞ。毎日酒飲んだって、これだけあるんだ、びくともしねえや」「そりゃァそうだね」となって、勝五郎が友達を呼んで宴会をやろうと言うと、女房がまだ朝早いから昼過ぎにしなよという話になって、暇つぶしに熊五郎が昨日飲み残した酒を飲み始めるのだ。女房は酒をついだり、ハゼの佃煮を出したりして、拾った金をどうしようかなどと不安に思っている素振りはまったく見せない。
さて、後半になって、三年後の大晦日、すっかり働き者になった亭主の言葉を聞いて、女房が安心し、金を拾ったことが夢ではなかったことを打ち明ける場面がまさに「芝浜」のヤマである。
左楽の「芝浜」では、女房が革財布ではなく竹筒を出して中に入った金を見せるのだが、志ん生は革財布、三木助も革財布である。三遊亭円楽の「芝浜」だけは、竹筒にしている。
左楽の「芝浜」では、女房がなかなか切り出しにくい様子で、お前さんに内緒でへそくりをしたのでお金を勘定してくれと言う。竹筒を出して、お金を見せ、お前さんが芝浜で拾った金だと打ち明け、こう言う。
「お前さんがこのお金を三年前に拾って来てくれた時、わたしは嬉しかったよ。飛び立つほど嬉しかったがね、お前さんの了見を聞いてみると、てんで真面目に稼ぐ考えはなく、ただ飲んだり食ったり、着物を着たり、見栄に使ってしまいなさる様子だから、こりゃ大変、お金はパッパと使ってしまい、後で拾ったということが知れたなら、お前さんもわたしもどんなお咎めを受けるかしれない、だからね、わたしはお前さんが酔って寝てしまったのを幸いに、大家さんに話をすると(以下略)」
志ん生の「芝浜」でも、女房が革財布を出して打ち明けた後の内容はほぼ同じである。ただし、お咎めのところは具体的にして、
「魚熊さんはこのごろいいなりをして、うまいもんを食べて遊んでるってことを近所の人がほうぼうでしゃべれば、自然とお役人の耳にも入る。お前が番屋に呼び出されて、どうしてそんなことをしているんだとだんだん聞き出されりゃ、暗いところにでも行かなきゃならない。といって、いくら止めたって、このお金をお前さんが使わないじゃいられないだろう。どうしたらいいだろう。しょうがないから、お前さんを寝かしつけて、大家さんに相談して(以下略)」
さて、三木助の「芝浜」は、女房が「途中で怒らないであたしの話を終わりまで聞いておくれよ、いいかい」と念を押してから、「お前さん、実は見てもらいたいものがあるんだけど」と革財布を取り出す。が、ここからがちょっと長すぎて、正直どうかなと思う。女房の打ち明け話もやや大袈裟で、途中で泣きながら情に訴えて話すので、どうも好感が持てない。女房が、もしかして盗んだ金じゃないかと疑ったと言うのも、良くないと思う。
断っておくが、私は三木助の「芝浜」の語り口が一番好きなのだが、後半の女房のセリフと亭主のリアクションがどうしても不満で、前半ほど感動しない。女房が前もって酒の仕度をしてあるのもどうかなと思っている。(つづく)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます