1923年(大正12年)3月、四ッ谷第三尋常小学校を卒業。たか子は洋画の勉強を望んで、4月、文化学院中学部に入学する。
文化学院は、1921年(大正10年)、西村伊作により神田駿河台に開校。創立には、歌人の与謝野寛・晶子夫妻、画家の石井柏亭も携わる。学校令に縛られない自由な教育を目指し、あえて各種学校とし、また、4年制の中学部(旧制中学校に相当)では日本初の男女共学を実施した。たか子が入学した23年には木造4階建ての校舎を増築していた。
たか子は文化学院中学部で講師をしていた画家の中川紀元(きげん)について油絵を習うことになる。中川紀元(1892~1972)は長野県出身、東京美術学校(現東京藝術大学)彫刻科中退後、洋画を勉強し、藤島武二、石井柏亭、正宗得三郎などに師事。1915年、第2回二科展に初入選。1919年にはフランスへ渡り、マティスに師事。帰国後滞欧作7点を出品し二科賞を受賞。古賀春江らと共に活躍中の新進洋画家であった。
たか子在学中の文化学院の同窓生は34名。男女共学であったが、男子はわずか4名だった。同窓の女子に、すでに子供の頃から女優として有名だった夏川静江と、後年松竹蒲田の女優になる伊達里子がいた。夏川静江(1909年生まれ)は入江より2歳年長だが、東京女子音楽学校を中退し、同年4月文化学院中学部に転校してきた。伊達里子(1910年生まれ)は東京市赤坂の氷川小学校から23年文化学院中学部へ入学した。伊達は文化学院時代から映画女優志望だったという。
同23年(大正12年)8月、長兄・政長がシカゴ大学留学を終えアメリカから帰国。父の死後、政長すでに子爵を継承していたが、定職にもつかず発明家を志し、特許をとる夢を追っていた。次兄・光長はすでに日本美術学校を中退し、独学で洋画の勉強を続け、三兄・恭長は、東坊城家を一人で支えている母・君子の相談に乗り、母と築地で料亭を開業しようとした。
同年(大正12年)9月1日、関東大震災が襲う。たか子12歳、中学1年の時だった。千駄ヶ谷の東坊城家は半壊。一家は東京市外の高円寺の文化住宅に転居する。たか子の通う文化学院も増築校舎落成直後に大震災に遭い損壊。残された半地下室の煉瓦とコンクリートの基礎の上に再び木造2階建て校舎を建築し、授業を再開した。
震災によって、母と恭長で料亭を開業する計画はついえる。
恭長は慶應義塾大学予科を中退し、作家として身を立てる夢をあきらめ、自活の道を探っていた。その頃、同じ華族で知人の小笠原明峰(めいほう)が小笠原プロダクションを設立し、本格的に映画製作に乗り出していた。もともと大の映画ファンであった恭長も小笠原プロに出入りしているうちに、製作の手伝いや映画出演もするようになった。たか子も兄に誘われて撮影現場などに見学に行ったようだ。恭長は、それがきっかけで、映画会社の日活から俳優として誘われ、契約を結ぶ。
翌1924年(大正13年)10月、恭長は単身京都へ旅立つ。日活京都大将軍撮影所に入所するためだった。東坊城恭長(本名のまま)の日活デビュー作は『青春の歌』(村田実監督、鈴木伝明主演)で、当時、子爵の令息が映画俳優になったと話題を呼んだという。
同年(大正13年)12月、『青春の歌』公開。
1925年(大正14年)たか子14歳、4月より中学3年に。恭長は日活の二枚目スターとして売り出し、この年11本の作品に出演。話題作『大地に微笑む』にも重要な脇役で出演した。
1926年(大正15年)春、京都市北野神社の前に住居を構えた恭長が、母・君子と弟・元長を引き取る。この年、恭長は6本の作品に出演したが、俳優から脚本家・映画監督への道を目指す。一方、15歳のたか子は宮内省の官舎に住む長姉・敏子のもとへ移り、そこから文化学院へ通うことになる。
たか子16歳(満15歳)の頃(「日本映画スター全集4」より)
1927年(昭和2年)3月、たか子16歳。4年間通学した文化学院中学部を卒業するとすぐ兄・恭長に連れられて、京都へ。母と兄と弟との幸福な四人暮らしを始める。
同じ3月、日活の大作『椿姫』に主演する岡田嘉子と竹内良一の失踪事件が起き、夏川静江(同年1月に日活入社)と恭長がそれぞれの役を代演。『椿姫』は5月に公開されたが、評判はかんばしくなかった。それ以前すでに恭長は日活俳優部から脚本部へ転じ、『靴』(内田吐夢監督)のオリジナル脚本を書き上げていたが、『椿姫』を最後に俳優を辞め、監督に転向する。
同じ頃、恭長は、客演していた京都の新劇団エラン・ヴィタールの主宰者野淵昶(あきら)にたか子を紹介。たか子は同劇団の美術衣裳の手伝いをするようになる。
1927年(昭和2年)5月、公演予定の「伯父ワーニャ」のソーニャ役の女優が急病になり、その代役にたか子を抜擢。わずか3日の稽古で、京都YMCAの初舞台に立つ。この時から芸名・入江たか子を名乗る。この名は、兄・恭長の命名で、武者小路実篤の戯曲「若き人々」の登場人物の名を繋ぎ合わせたものだった。
つづいて、6月に「商船テナシチイ号」出演。
同1927年(昭和2年)9月、劇団創立十周年記念公演「生ける屍」に出演。
「生ける屍」の終演後、兄・恭長から新進映画監督・内田吐夢(当時29歳)を紹介される。吐夢はたか子の舞台を3度観ていて、自分の監督する映画に彼女の出演を勧める。それは『けちんぼ長者』という映画だった。母が、日活京都撮影所長の池永浩久と旧知の間柄だったので、たちまち話がまとまり、たか子は日活に入ることになる。
同1927年(昭和2年)10月、『けちんぼ長者』がクランク・イン、たか子は16歳で日活京都大将軍撮影所で映画女優としてスタートを切る。『けちんぼ長者』は内田吐夢監督の異色ミステリーで、たか子の役は、貧困児童を救済してまわる洋装の音楽家で、実は金持ちをゆする謎の義賊団の女団長だった。山本嘉一、島耕二、築地浪子、菅井一郎が共演した。
『けちんぼ長者』の宣伝用ポートレート
当時、華族の姫君が初めて映画に出演するということで、新聞・雑誌で大騒ぎになった。
『けちんぼ長者』は同年11月封切り予定だったが、検閲保留になり、公開延期(封切りは結局翌昭和3年10月になった)。その埋め合わせに急遽五巻物の中篇を作ることになる。伊奈精一監督の『松竹梅』である。共演は、見明凡太郎、戸田春子。
『松竹梅』
1928年(昭和3年)1月、日活現代劇部の専属女優として正式に契約。その間『激情』に出演。この作品は兄・恭長が監督。(『椿姫』の後、兄は6月に監督に昇進していた)主演は、売り出し中のスター中野英治。
同1928年(昭和3年)2月1日、『松竹梅』が浅草の富士館、神田の日活館など日活系映画館で公開される。これが映画女優入江たか子のスクリーン初登場の作品になった。2月7日、たか子は満17歳になった。
文化学院は、1921年(大正10年)、西村伊作により神田駿河台に開校。創立には、歌人の与謝野寛・晶子夫妻、画家の石井柏亭も携わる。学校令に縛られない自由な教育を目指し、あえて各種学校とし、また、4年制の中学部(旧制中学校に相当)では日本初の男女共学を実施した。たか子が入学した23年には木造4階建ての校舎を増築していた。
たか子は文化学院中学部で講師をしていた画家の中川紀元(きげん)について油絵を習うことになる。中川紀元(1892~1972)は長野県出身、東京美術学校(現東京藝術大学)彫刻科中退後、洋画を勉強し、藤島武二、石井柏亭、正宗得三郎などに師事。1915年、第2回二科展に初入選。1919年にはフランスへ渡り、マティスに師事。帰国後滞欧作7点を出品し二科賞を受賞。古賀春江らと共に活躍中の新進洋画家であった。
たか子在学中の文化学院の同窓生は34名。男女共学であったが、男子はわずか4名だった。同窓の女子に、すでに子供の頃から女優として有名だった夏川静江と、後年松竹蒲田の女優になる伊達里子がいた。夏川静江(1909年生まれ)は入江より2歳年長だが、東京女子音楽学校を中退し、同年4月文化学院中学部に転校してきた。伊達里子(1910年生まれ)は東京市赤坂の氷川小学校から23年文化学院中学部へ入学した。伊達は文化学院時代から映画女優志望だったという。
同23年(大正12年)8月、長兄・政長がシカゴ大学留学を終えアメリカから帰国。父の死後、政長すでに子爵を継承していたが、定職にもつかず発明家を志し、特許をとる夢を追っていた。次兄・光長はすでに日本美術学校を中退し、独学で洋画の勉強を続け、三兄・恭長は、東坊城家を一人で支えている母・君子の相談に乗り、母と築地で料亭を開業しようとした。
同年(大正12年)9月1日、関東大震災が襲う。たか子12歳、中学1年の時だった。千駄ヶ谷の東坊城家は半壊。一家は東京市外の高円寺の文化住宅に転居する。たか子の通う文化学院も増築校舎落成直後に大震災に遭い損壊。残された半地下室の煉瓦とコンクリートの基礎の上に再び木造2階建て校舎を建築し、授業を再開した。
震災によって、母と恭長で料亭を開業する計画はついえる。
恭長は慶應義塾大学予科を中退し、作家として身を立てる夢をあきらめ、自活の道を探っていた。その頃、同じ華族で知人の小笠原明峰(めいほう)が小笠原プロダクションを設立し、本格的に映画製作に乗り出していた。もともと大の映画ファンであった恭長も小笠原プロに出入りしているうちに、製作の手伝いや映画出演もするようになった。たか子も兄に誘われて撮影現場などに見学に行ったようだ。恭長は、それがきっかけで、映画会社の日活から俳優として誘われ、契約を結ぶ。
翌1924年(大正13年)10月、恭長は単身京都へ旅立つ。日活京都大将軍撮影所に入所するためだった。東坊城恭長(本名のまま)の日活デビュー作は『青春の歌』(村田実監督、鈴木伝明主演)で、当時、子爵の令息が映画俳優になったと話題を呼んだという。
同年(大正13年)12月、『青春の歌』公開。
1925年(大正14年)たか子14歳、4月より中学3年に。恭長は日活の二枚目スターとして売り出し、この年11本の作品に出演。話題作『大地に微笑む』にも重要な脇役で出演した。
1926年(大正15年)春、京都市北野神社の前に住居を構えた恭長が、母・君子と弟・元長を引き取る。この年、恭長は6本の作品に出演したが、俳優から脚本家・映画監督への道を目指す。一方、15歳のたか子は宮内省の官舎に住む長姉・敏子のもとへ移り、そこから文化学院へ通うことになる。
たか子16歳(満15歳)の頃(「日本映画スター全集4」より)
1927年(昭和2年)3月、たか子16歳。4年間通学した文化学院中学部を卒業するとすぐ兄・恭長に連れられて、京都へ。母と兄と弟との幸福な四人暮らしを始める。
同じ3月、日活の大作『椿姫』に主演する岡田嘉子と竹内良一の失踪事件が起き、夏川静江(同年1月に日活入社)と恭長がそれぞれの役を代演。『椿姫』は5月に公開されたが、評判はかんばしくなかった。それ以前すでに恭長は日活俳優部から脚本部へ転じ、『靴』(内田吐夢監督)のオリジナル脚本を書き上げていたが、『椿姫』を最後に俳優を辞め、監督に転向する。
同じ頃、恭長は、客演していた京都の新劇団エラン・ヴィタールの主宰者野淵昶(あきら)にたか子を紹介。たか子は同劇団の美術衣裳の手伝いをするようになる。
1927年(昭和2年)5月、公演予定の「伯父ワーニャ」のソーニャ役の女優が急病になり、その代役にたか子を抜擢。わずか3日の稽古で、京都YMCAの初舞台に立つ。この時から芸名・入江たか子を名乗る。この名は、兄・恭長の命名で、武者小路実篤の戯曲「若き人々」の登場人物の名を繋ぎ合わせたものだった。
つづいて、6月に「商船テナシチイ号」出演。
同1927年(昭和2年)9月、劇団創立十周年記念公演「生ける屍」に出演。
「生ける屍」の終演後、兄・恭長から新進映画監督・内田吐夢(当時29歳)を紹介される。吐夢はたか子の舞台を3度観ていて、自分の監督する映画に彼女の出演を勧める。それは『けちんぼ長者』という映画だった。母が、日活京都撮影所長の池永浩久と旧知の間柄だったので、たちまち話がまとまり、たか子は日活に入ることになる。
同1927年(昭和2年)10月、『けちんぼ長者』がクランク・イン、たか子は16歳で日活京都大将軍撮影所で映画女優としてスタートを切る。『けちんぼ長者』は内田吐夢監督の異色ミステリーで、たか子の役は、貧困児童を救済してまわる洋装の音楽家で、実は金持ちをゆする謎の義賊団の女団長だった。山本嘉一、島耕二、築地浪子、菅井一郎が共演した。
『けちんぼ長者』の宣伝用ポートレート
当時、華族の姫君が初めて映画に出演するということで、新聞・雑誌で大騒ぎになった。
『けちんぼ長者』は同年11月封切り予定だったが、検閲保留になり、公開延期(封切りは結局翌昭和3年10月になった)。その埋め合わせに急遽五巻物の中篇を作ることになる。伊奈精一監督の『松竹梅』である。共演は、見明凡太郎、戸田春子。
『松竹梅』
1928年(昭和3年)1月、日活現代劇部の専属女優として正式に契約。その間『激情』に出演。この作品は兄・恭長が監督。(『椿姫』の後、兄は6月に監督に昇進していた)主演は、売り出し中のスター中野英治。
同1928年(昭和3年)2月1日、『松竹梅』が浅草の富士館、神田の日活館など日活系映画館で公開される。これが映画女優入江たか子のスクリーン初登場の作品になった。2月7日、たか子は満17歳になった。
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