浮世絵と浮世絵師に関し、寛政期に編まれた一種の事典が「浮世絵類考」です。編纂者は、安永・天明期から寛政期にかけて文化人のリーダー格であった文人・大田南畝(なんぽ 1749~1823 四方赤良、蜀山人ほか多くの別号がある)でした。
南畝は、寛政7年から寛政12年(1800年)までに、代表的な絵師30数名を選択し、紹介文を付けて、本文を完成しました。これが「浮世絵考証」と呼ばれるものです。
寛政12年(1800年)5月末、笹屋邦教(新七)作成の系譜「古今大和絵浮世絵始系」(版元鱗形屋から刊行)を南畝が書写して、付録として補綴します。笹屋邦教は「江戸・本銀町(ほんしろがねちょう)、縫箔(ぬいはく)屋主人」とありますが、経歴不詳。縫箔とは着物の模様に刺繍や金箔・銀箔の貼り込みをする職業です。
享和2年(1802年)、戯作者で当時ベストセラー作家であった山東京伝(浮世絵師でもあり、画号は北尾政演)が「浮世絵類考追考」を書きます。これは、京伝が手書きして綴った私家版と言えるもので、「浮世絵類考」を参照しながら、さらに初期の浮世絵師を付け加えて文章を書き、菱川氏および英氏の系図も作成しました。同年10月に、京伝は「浮世絵類考追考」を脱稿します。この「追考」は、出版されずに京伝の家に保管されていて、文化13年(1816年)京伝が亡くなった後に、大田南畝のもとへと届けられたようです。
文政元年(1818年)、南畝が、「類考」の本文と笹屋邦教の「付録」に、京伝の手書きの「追考」を加え、奥書を書いて、三部作として完成しました。
これが、「浮世絵類考」の原本です。この本は出版されず、写本のみによって流布します。(原本そのものは、現在未発見)
写楽についての記載は、本文中にのみあり(笹屋の付録にも京伝の「追考」にも写楽の名前はありません)、南畝が書いたとされる次の一文です(写本によって表記が多少異なります)
「是また歌舞伎役者の似顔を写せしが、あまりに真を画んとてあらぬさまにかきなせしかば、長く世に行はれず、一両年にして止む」
文頭の「是また」というのは、写楽の前に国政の項があり、「歌舞伎役者の似顔をうつす事をよくす」という記述に続くため、加えられた語句です。国政(歌川国政)は写楽の後輩ですが、絵師の配列は、必ずしも年代順になっていません。国政の師匠の豊国があとに出てきたりします。
「あまりに真を画んとてあらぬさまにかきなせしかば」という部分の解釈が問題です。まず、「真」と漢字の読みは、「しん」なのか「まこと」なのか、どちらにせよ、その意味は、「ありのまま」「偽りのないほんとうの姿」ということだと思います。「あらぬさま」の意味は、「違ったように」から一歩進めて、「とんでもない様子に」といった感じでしょう。つまり、現代語に直せば、「あまりにもありのままの顔を描こうとして、とんでもない様子に描いてしまったので」ということだと思います。
「ありのままの顔」を描こうとしたのは写楽の作画上の意図で、「とんでもない様子」というのは、役者や贔屓筋やファンにとっての絵を見た時の印象なのでしょう。
さて、原本の「浮世絵類考」は、いろいろな人が南畝から借りて、筆写し始めます。大名の殿様から命令された家来や南畝が親しくしている文化人たちで、一字一句正確に写して、余計な書き込みを入れなかった人もいたでしょうが、多くの人は、筆写しながら、字を変えたり、間違えたり、さらには、自分のコメントをその時(あるいは後で)、余白に加えたりしました。その写本をまた別の人が借りて、筆写して、また同じことをしていくわけで、時期を経ながらあちこちにたくさんの写本が生まれていきました。
現在、「浮世絵類考」は、国内外に120種以上の写本、異本が存在しているそうです。また、本の題名も「浮世絵画師名」「浮世絵師考」「浮世絵師姓名考」など、勝手に変えてしまったものもあるといいます。
「浮世絵類考」写本の一つ(国立国会図書館所蔵)
*南畝の本文に三馬の補記があるものです。
南畝が生きている間に、原本を南畝自身から借りて筆写した人に、加藤曳尾庵(えいびあん)という元水戸藩士で開業医になった人物がいます。南畝とは知り合いです。文化12年(1815年)、曳尾庵は写本に加筆し、写楽について「筆力雅趣ありて賞すべし」とコメントを加えます。このいわゆる「曳尾庵本」は、京伝の追考のない(三馬の補記もない)写本で、南畝の原撰本に準拠しています。
その後、文政4年ごろまでに、滑稽本「浮世風呂」「浮世床」を書いて人気作家になった式亭三馬(1776~1822)が三部作の原本に書き込みを入れます。これが三馬の「按記」(三馬按ズルニ……で書いた補記)と呼ばれるものです。「按(あん)ズル」とは、この場合「考える」「調べる」といった意味で、硬い言葉で言えば「考証する」ということなのでしょう。
写楽については、「三馬按、写楽号東周斎、江戸八丁堀ニ住ス。僅ニ半年余行ハルゝノミ」と書き加えます。号は東洲斎が正しく、「東周斎」の周は誤字です。
三馬は、写楽が江戸の八丁堀に住んでいること(文政4年時点です)、そして、写楽の絵が刊行されたのは、「一両年」(本文)ではなく「わずか半年あまりにすぎなかった」ということを明示します。
文政5年(1822年)1月、三馬、46歳で死去。
文政6年(1823年)4月、大田南畝、75歳で死去。
南畝は、寛政7年から寛政12年(1800年)までに、代表的な絵師30数名を選択し、紹介文を付けて、本文を完成しました。これが「浮世絵考証」と呼ばれるものです。
寛政12年(1800年)5月末、笹屋邦教(新七)作成の系譜「古今大和絵浮世絵始系」(版元鱗形屋から刊行)を南畝が書写して、付録として補綴します。笹屋邦教は「江戸・本銀町(ほんしろがねちょう)、縫箔(ぬいはく)屋主人」とありますが、経歴不詳。縫箔とは着物の模様に刺繍や金箔・銀箔の貼り込みをする職業です。
享和2年(1802年)、戯作者で当時ベストセラー作家であった山東京伝(浮世絵師でもあり、画号は北尾政演)が「浮世絵類考追考」を書きます。これは、京伝が手書きして綴った私家版と言えるもので、「浮世絵類考」を参照しながら、さらに初期の浮世絵師を付け加えて文章を書き、菱川氏および英氏の系図も作成しました。同年10月に、京伝は「浮世絵類考追考」を脱稿します。この「追考」は、出版されずに京伝の家に保管されていて、文化13年(1816年)京伝が亡くなった後に、大田南畝のもとへと届けられたようです。
文政元年(1818年)、南畝が、「類考」の本文と笹屋邦教の「付録」に、京伝の手書きの「追考」を加え、奥書を書いて、三部作として完成しました。
これが、「浮世絵類考」の原本です。この本は出版されず、写本のみによって流布します。(原本そのものは、現在未発見)
写楽についての記載は、本文中にのみあり(笹屋の付録にも京伝の「追考」にも写楽の名前はありません)、南畝が書いたとされる次の一文です(写本によって表記が多少異なります)
「是また歌舞伎役者の似顔を写せしが、あまりに真を画んとてあらぬさまにかきなせしかば、長く世に行はれず、一両年にして止む」
文頭の「是また」というのは、写楽の前に国政の項があり、「歌舞伎役者の似顔をうつす事をよくす」という記述に続くため、加えられた語句です。国政(歌川国政)は写楽の後輩ですが、絵師の配列は、必ずしも年代順になっていません。国政の師匠の豊国があとに出てきたりします。
「あまりに真を画んとてあらぬさまにかきなせしかば」という部分の解釈が問題です。まず、「真」と漢字の読みは、「しん」なのか「まこと」なのか、どちらにせよ、その意味は、「ありのまま」「偽りのないほんとうの姿」ということだと思います。「あらぬさま」の意味は、「違ったように」から一歩進めて、「とんでもない様子に」といった感じでしょう。つまり、現代語に直せば、「あまりにもありのままの顔を描こうとして、とんでもない様子に描いてしまったので」ということだと思います。
「ありのままの顔」を描こうとしたのは写楽の作画上の意図で、「とんでもない様子」というのは、役者や贔屓筋やファンにとっての絵を見た時の印象なのでしょう。
さて、原本の「浮世絵類考」は、いろいろな人が南畝から借りて、筆写し始めます。大名の殿様から命令された家来や南畝が親しくしている文化人たちで、一字一句正確に写して、余計な書き込みを入れなかった人もいたでしょうが、多くの人は、筆写しながら、字を変えたり、間違えたり、さらには、自分のコメントをその時(あるいは後で)、余白に加えたりしました。その写本をまた別の人が借りて、筆写して、また同じことをしていくわけで、時期を経ながらあちこちにたくさんの写本が生まれていきました。
現在、「浮世絵類考」は、国内外に120種以上の写本、異本が存在しているそうです。また、本の題名も「浮世絵画師名」「浮世絵師考」「浮世絵師姓名考」など、勝手に変えてしまったものもあるといいます。
「浮世絵類考」写本の一つ(国立国会図書館所蔵)
*南畝の本文に三馬の補記があるものです。
南畝が生きている間に、原本を南畝自身から借りて筆写した人に、加藤曳尾庵(えいびあん)という元水戸藩士で開業医になった人物がいます。南畝とは知り合いです。文化12年(1815年)、曳尾庵は写本に加筆し、写楽について「筆力雅趣ありて賞すべし」とコメントを加えます。このいわゆる「曳尾庵本」は、京伝の追考のない(三馬の補記もない)写本で、南畝の原撰本に準拠しています。
その後、文政4年ごろまでに、滑稽本「浮世風呂」「浮世床」を書いて人気作家になった式亭三馬(1776~1822)が三部作の原本に書き込みを入れます。これが三馬の「按記」(三馬按ズルニ……で書いた補記)と呼ばれるものです。「按(あん)ズル」とは、この場合「考える」「調べる」といった意味で、硬い言葉で言えば「考証する」ということなのでしょう。
写楽については、「三馬按、写楽号東周斎、江戸八丁堀ニ住ス。僅ニ半年余行ハルゝノミ」と書き加えます。号は東洲斎が正しく、「東周斎」の周は誤字です。
三馬は、写楽が江戸の八丁堀に住んでいること(文政4年時点です)、そして、写楽の絵が刊行されたのは、「一両年」(本文)ではなく「わずか半年あまりにすぎなかった」ということを明示します。
文政5年(1822年)1月、三馬、46歳で死去。
文政6年(1823年)4月、大田南畝、75歳で死去。
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