チャーリー・パーカーは34年の短いが波瀾万丈の生涯で、四人の妻を持ったが、最初の妻になるのがこのレベッカである。二番目がジェラルディーン、三番目がドリス、四番目(内縁の妻)がチャン。ドリスとチャンは白人だった。
レベッカ・ラフィンという女性については、パーカーの死後30年ほど、謎に包まれていた。レベッカのことは、ライズナー著「チャーリー・パーカーの伝説」(1962年)に収録された母アディの談話に基づいて、うかがい知るだけだった。
それが、1980年代に、ある黒人のジャズ評論家(スタンリー・クロウチといい、近年パーカー本を出版した)が彼女を捜し出してインタビューを試み、その談話の一部が ”Celebrating Bird / The Triumph of Charlie Parker”「セレブレイティング・バード~チャーリー・パーカーの栄光」(ゲイリー・ギディンズ著、1987年発行、1989年日本語版)という本の中で紹介された。これによって、チャーリーとレベッカの関係や結婚生活のこと、若き日のチャーリーのことなどが一層明らかになった。私はまだこの本を入手していないので、詳しい内容は分からない。
先日購入したカール・ウォイデック著「モダン・ジャズを創った男」(2000年日本語版発行、原書は”Charlie Parker His Music and Life” 1996年初版)は、パーカーの伝記の部分で「セレブレイティング・バード」に紹介されたレベッカの話をかなり引用しているので、今のところこの本を参考にしている。
母アディの談話から分かることは次のようなことである。
レベッカはチャーリーより4歳年上だった。学校時代の恋人だった。チャーリーは16歳の時、レベッカと結婚した。正式に結婚する前に、レベッカの母と6人の子どもたちがアディとチャーリーの住む家の二階に引っ越してきた。結婚生活は2年続いた。レベッカはチャーリーの行動に口出しして、自由を縛るようになった。チャーリーはそれが嫌で、しまいに喧嘩になり、レベッカを殴るようになった。母アディはチャーリーを叱り、とうとう家から追い出し、それでチャーリーは単身シカゴへ行った。二人は5年間別居して、その後、正式に離婚した。二人の間にできた息子レオンは10歳までアディが育てた。その後レベッカが引き取った。レベッカは、それから何度か結婚と離婚を繰り返し、今は(1956年頃)カリフォルニアに住んでいる。
母アディの談話は、話題があちこちに飛んで、何か思い出すとまた戻ってくるという感じなのだが、主観性も強く、話をまともに信じてはならない部分も含まれている気がする。記憶違いもあると思われる。年齢や年代などは、とくに注意が必要だろう。
<再婚したレベッカが息子レオンと夫を連れて、チャーリー・パーカーに会った時の写真。パーカーの右隣にいるのはマネージャーのテディ・ブルーム>
レベッカ本人の話から、次のようなことが明らかになった。ただし、母アディの話と矛盾する点がいくつかある。
レベッカは1920年2月23日生まれ。チャーリーと同年で、年上ではなかった。レベッカもチャーリーと同じリンカーン・ハイスクールの生徒だった。レベッカの母と家族がアディとチャーリーの家に引っ越したのは、レベッカが14歳の時だった。が、1935年春にレベッカの母と子どもたち(彼女も含め)は出て行った。レベッカの母は、二人の結婚には反対だった。二人は隠れてデートを続けた。レベッカは、1935年6月7日にリンカーン・ハイスクールを卒業した。卒業式の日にチャーリーは学校のオーケストラで演奏していた。1936年7月25日に二人は正式に結婚した。婚姻届を役所に提出し、レベッカは「年齢18歳以上」と申告した(これはパーカー研究者の調査による)。息子のレオンが1938年1月10日に誕生。同年レベッカはまた妊娠するが、夏に流産した。
レベッカ・ラフィンという女性については、パーカーの死後30年ほど、謎に包まれていた。レベッカのことは、ライズナー著「チャーリー・パーカーの伝説」(1962年)に収録された母アディの談話に基づいて、うかがい知るだけだった。
それが、1980年代に、ある黒人のジャズ評論家(スタンリー・クロウチといい、近年パーカー本を出版した)が彼女を捜し出してインタビューを試み、その談話の一部が ”Celebrating Bird / The Triumph of Charlie Parker”「セレブレイティング・バード~チャーリー・パーカーの栄光」(ゲイリー・ギディンズ著、1987年発行、1989年日本語版)という本の中で紹介された。これによって、チャーリーとレベッカの関係や結婚生活のこと、若き日のチャーリーのことなどが一層明らかになった。私はまだこの本を入手していないので、詳しい内容は分からない。
先日購入したカール・ウォイデック著「モダン・ジャズを創った男」(2000年日本語版発行、原書は”Charlie Parker His Music and Life” 1996年初版)は、パーカーの伝記の部分で「セレブレイティング・バード」に紹介されたレベッカの話をかなり引用しているので、今のところこの本を参考にしている。
母アディの談話から分かることは次のようなことである。
レベッカはチャーリーより4歳年上だった。学校時代の恋人だった。チャーリーは16歳の時、レベッカと結婚した。正式に結婚する前に、レベッカの母と6人の子どもたちがアディとチャーリーの住む家の二階に引っ越してきた。結婚生活は2年続いた。レベッカはチャーリーの行動に口出しして、自由を縛るようになった。チャーリーはそれが嫌で、しまいに喧嘩になり、レベッカを殴るようになった。母アディはチャーリーを叱り、とうとう家から追い出し、それでチャーリーは単身シカゴへ行った。二人は5年間別居して、その後、正式に離婚した。二人の間にできた息子レオンは10歳までアディが育てた。その後レベッカが引き取った。レベッカは、それから何度か結婚と離婚を繰り返し、今は(1956年頃)カリフォルニアに住んでいる。
母アディの談話は、話題があちこちに飛んで、何か思い出すとまた戻ってくるという感じなのだが、主観性も強く、話をまともに信じてはならない部分も含まれている気がする。記憶違いもあると思われる。年齢や年代などは、とくに注意が必要だろう。
<再婚したレベッカが息子レオンと夫を連れて、チャーリー・パーカーに会った時の写真。パーカーの右隣にいるのはマネージャーのテディ・ブルーム>
レベッカ本人の話から、次のようなことが明らかになった。ただし、母アディの話と矛盾する点がいくつかある。
レベッカは1920年2月23日生まれ。チャーリーと同年で、年上ではなかった。レベッカもチャーリーと同じリンカーン・ハイスクールの生徒だった。レベッカの母と家族がアディとチャーリーの家に引っ越したのは、レベッカが14歳の時だった。が、1935年春にレベッカの母と子どもたち(彼女も含め)は出て行った。レベッカの母は、二人の結婚には反対だった。二人は隠れてデートを続けた。レベッカは、1935年6月7日にリンカーン・ハイスクールを卒業した。卒業式の日にチャーリーは学校のオーケストラで演奏していた。1936年7月25日に二人は正式に結婚した。婚姻届を役所に提出し、レベッカは「年齢18歳以上」と申告した(これはパーカー研究者の調査による)。息子のレオンが1938年1月10日に誕生。同年レベッカはまた妊娠するが、夏に流産した。
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