歌舞伎で演じられる役には、老若男女、善悪、さまざまな役柄がありますが、写楽が描いた役者大首絵の中では男の悪役に個性的なものが多いと思います。
悪役で最も重要な役は、実悪(じつあく)と呼ばれる敵役(かたきやく)で、とくに仇討物の敵役は大役です。たとえば、「仮名手本忠臣蔵」の高師直(こうのもろなお)、曽我物の工藤祐経(すけつね)がそうです。
寛永6年5月の都座と桐座では同時に仇討物がかかりました。「花菖蒲文禄曽我」(はなしょうぶぶんろくそが)と「敵討乗合話」(かたきうちのりわいばなし)です。前者は男の兄弟二人が父と長兄の敵(かたき)を討つ話で、後者は女の姉妹二人が父の敵を討つ話でした。どちらも実際に起こった仇討事件を芝居化したもので、前者は曽我兄弟の仇討物語になぞって、脚色したようです。曽我兄弟が仇討を遂げたのは、5月28日(1193年)のことだったので、それため5月は曽我兄弟をしのぶ月間として、江戸歌舞伎でも曽我物を上演することが多かったそうです。
さて、問題の敵役ですが、「文禄曽我」の敵役は藤川水右衛門、「敵討乗合話」の敵役は志賀大七。この二人を描いた写楽の絵を取り上げてみましょう。
二代目半五郎の藤川水右衛門
藤川水右衛門は、坂田半五郎(三代目)という役者が演じました。当時39歳、年俸350両。中堅の悪役メインの人気役者で、脂(あぶら)がのり始めた頃のようです。師匠の先代坂田半五郎(二代目)は「江戸実悪随一」とまで言われた名悪役で、藤川水右衛門というこの役も得意にしていたそうです。それを三代目半五郎がこの時演じたのですが、先代に負けじとがんばったはずです。この役者は、翌年(寛政7年)、惜しくも40歳で亡くなってしまいました。
写楽の絵を見る限りでは、まだ少し若くて、悪役の貫禄が出てない感じも受けます。眉を上げ、より目で、への字形に曲げた口、突き出した首。そこに憎々しさが表されています。こめかみの左右にほつれ毛が一本ずつあり、下膨れの顎にうっすらと無精ひげが見えます。浪人なのでしょう。この絵は、黒のモノトーンで、よく見ると袖から少しだけ覗いている肌着(裏地かも)がうぐいす色で、色はこれだけ。黒襟と着物の柄も良く、左手のかいなにある黒い線は入れ墨なのでしょうか。
ところで、歌川豊国が半五郎の全身像を描いた大判の役者絵があります。豊国の「役者舞台姿絵」シリーズの1点で、写楽の絵が出された同じ5月に同じ役の藤川水右衛門を描いたものだとされています。しかし、髪形も着物も写楽の絵とは全然違います。豊国は、舞台を見ずに、興行の前にこの絵を描いたのかもしれません。さもなけれが、違った場面なのでしょうか。タイトルの下に書いてある「正月屋」は坂田半五郎の屋号なので、半五郎を描いたことは間違いありません。
豊国 二代目半五郎の藤川水右衛門
この絵の版元は和泉屋市兵衛(通称「泉市」)。芝神明前(現・芝大門)を本拠に、蔦屋重三郎の後に続いて、のし上がってきた地本問屋です。地元出身の若き豊国(二十代前半)をスカウトし、写楽がデビューする4ヶ月前(寛永6年1月)から豊国に「役者舞台姿絵」シリーズ(翌々年の寛永8年まで続き、約40点が現存)を描かせて、売り出しています。豊国が一躍有名になるのは、この連作の役者絵を発表してからなのですが、和泉屋に一歩リードされた形の蔦屋が写楽の黒雲母摺大首絵を引っさげて、役者絵市場に参入したのが、この5月だったわけです。和泉屋VS蔦屋、豊国VS写楽、全身像の立ち姿VS半身像の似顔。熾烈な戦いが5月に繰り広げられます。軍配はどうやら、前者に上がったようです。若い頃の豊国の役者絵は、実にセンスがよく、役者の立ち姿も見事に決まっています。
この絵も、赤鞘の長刀二本と体のひねり具合のバランスが非常に良く、背景も薄い色の無地ですっきりしています。左下にヘビがいますが、水右衛門はヘビを操るらしく、「蛇侍」という異名があるそうです。
次に、また写楽の描いた敵役を挙げます。
志賀大七は、市川高麗蔵(こまぞう 三代目)が演じました。エリートの人気役者で、立役の大物・松本幸四郎(四代目)の息子です。当時31歳、年俸550両。彼はこの7年後に五代目幸四郎を襲名し、30年以上の長きにわたって活躍します。外国人のように鼻が高いので、仇名が「鼻高幸四郎」。江戸後期の名優です。実悪専門で、当り役は、「菅原伝授手習鑑」の松王丸、「忠臣蔵」の高師直、「義経千本桜」の権太、「先代萩」の仁木弾正など。彼が作り出した型は、後世まで伝承されているそうです。
高麗蔵の志賀大七
さて、写楽の絵ですが、高麗蔵の顔をやや誇張し、長顔で、鼻も長くて高く、顎も長めに描いています。この役者は、背も大変高かったのではないかと思います。この絵も黒のモノトーンに近い。着物は無地の黒。わずかに使った色は、目張りの赤、裏地の濃緑色(ちらっと赤い切れ端が見える)、刀の柄の黄土色。懐から出した右手が刀の柄の先を握っていますが、手が小さく、やや不自然な気がします。
前に掲げた藤川水右衛門の姿のように体の動きはなく、のそっと突っ立ているだけですが、なかなか雰囲気があると思います。
三代目高麗蔵(鼻高幸四郎)の役者絵はたくさんあります。写楽だけでなく、いろいろな絵師が描いていますが、同時代の天才絵師・勝川春英(しゅんえい)が描いた高麗蔵の大首絵を掲げておきます。春英は、役者絵の大家勝川春章(しゅんしょう)門下の逸材で、17歳でデビューし、写楽が登場する10年以上前から役者絵を描き始め、人気のあった絵師です。下に掲げる絵は、寛永2年7月に描かれた絵だと言われています。役名は「忠臣蔵」の斧定九郎です。
写楽の絵と見比べてみるのも良いでしょう。
勝川春英 高麗蔵の斧定九郎
悪役で最も重要な役は、実悪(じつあく)と呼ばれる敵役(かたきやく)で、とくに仇討物の敵役は大役です。たとえば、「仮名手本忠臣蔵」の高師直(こうのもろなお)、曽我物の工藤祐経(すけつね)がそうです。
寛永6年5月の都座と桐座では同時に仇討物がかかりました。「花菖蒲文禄曽我」(はなしょうぶぶんろくそが)と「敵討乗合話」(かたきうちのりわいばなし)です。前者は男の兄弟二人が父と長兄の敵(かたき)を討つ話で、後者は女の姉妹二人が父の敵を討つ話でした。どちらも実際に起こった仇討事件を芝居化したもので、前者は曽我兄弟の仇討物語になぞって、脚色したようです。曽我兄弟が仇討を遂げたのは、5月28日(1193年)のことだったので、それため5月は曽我兄弟をしのぶ月間として、江戸歌舞伎でも曽我物を上演することが多かったそうです。
さて、問題の敵役ですが、「文禄曽我」の敵役は藤川水右衛門、「敵討乗合話」の敵役は志賀大七。この二人を描いた写楽の絵を取り上げてみましょう。
二代目半五郎の藤川水右衛門
藤川水右衛門は、坂田半五郎(三代目)という役者が演じました。当時39歳、年俸350両。中堅の悪役メインの人気役者で、脂(あぶら)がのり始めた頃のようです。師匠の先代坂田半五郎(二代目)は「江戸実悪随一」とまで言われた名悪役で、藤川水右衛門というこの役も得意にしていたそうです。それを三代目半五郎がこの時演じたのですが、先代に負けじとがんばったはずです。この役者は、翌年(寛政7年)、惜しくも40歳で亡くなってしまいました。
写楽の絵を見る限りでは、まだ少し若くて、悪役の貫禄が出てない感じも受けます。眉を上げ、より目で、への字形に曲げた口、突き出した首。そこに憎々しさが表されています。こめかみの左右にほつれ毛が一本ずつあり、下膨れの顎にうっすらと無精ひげが見えます。浪人なのでしょう。この絵は、黒のモノトーンで、よく見ると袖から少しだけ覗いている肌着(裏地かも)がうぐいす色で、色はこれだけ。黒襟と着物の柄も良く、左手のかいなにある黒い線は入れ墨なのでしょうか。
ところで、歌川豊国が半五郎の全身像を描いた大判の役者絵があります。豊国の「役者舞台姿絵」シリーズの1点で、写楽の絵が出された同じ5月に同じ役の藤川水右衛門を描いたものだとされています。しかし、髪形も着物も写楽の絵とは全然違います。豊国は、舞台を見ずに、興行の前にこの絵を描いたのかもしれません。さもなけれが、違った場面なのでしょうか。タイトルの下に書いてある「正月屋」は坂田半五郎の屋号なので、半五郎を描いたことは間違いありません。
豊国 二代目半五郎の藤川水右衛門
この絵の版元は和泉屋市兵衛(通称「泉市」)。芝神明前(現・芝大門)を本拠に、蔦屋重三郎の後に続いて、のし上がってきた地本問屋です。地元出身の若き豊国(二十代前半)をスカウトし、写楽がデビューする4ヶ月前(寛永6年1月)から豊国に「役者舞台姿絵」シリーズ(翌々年の寛永8年まで続き、約40点が現存)を描かせて、売り出しています。豊国が一躍有名になるのは、この連作の役者絵を発表してからなのですが、和泉屋に一歩リードされた形の蔦屋が写楽の黒雲母摺大首絵を引っさげて、役者絵市場に参入したのが、この5月だったわけです。和泉屋VS蔦屋、豊国VS写楽、全身像の立ち姿VS半身像の似顔。熾烈な戦いが5月に繰り広げられます。軍配はどうやら、前者に上がったようです。若い頃の豊国の役者絵は、実にセンスがよく、役者の立ち姿も見事に決まっています。
この絵も、赤鞘の長刀二本と体のひねり具合のバランスが非常に良く、背景も薄い色の無地ですっきりしています。左下にヘビがいますが、水右衛門はヘビを操るらしく、「蛇侍」という異名があるそうです。
次に、また写楽の描いた敵役を挙げます。
志賀大七は、市川高麗蔵(こまぞう 三代目)が演じました。エリートの人気役者で、立役の大物・松本幸四郎(四代目)の息子です。当時31歳、年俸550両。彼はこの7年後に五代目幸四郎を襲名し、30年以上の長きにわたって活躍します。外国人のように鼻が高いので、仇名が「鼻高幸四郎」。江戸後期の名優です。実悪専門で、当り役は、「菅原伝授手習鑑」の松王丸、「忠臣蔵」の高師直、「義経千本桜」の権太、「先代萩」の仁木弾正など。彼が作り出した型は、後世まで伝承されているそうです。
高麗蔵の志賀大七
さて、写楽の絵ですが、高麗蔵の顔をやや誇張し、長顔で、鼻も長くて高く、顎も長めに描いています。この役者は、背も大変高かったのではないかと思います。この絵も黒のモノトーンに近い。着物は無地の黒。わずかに使った色は、目張りの赤、裏地の濃緑色(ちらっと赤い切れ端が見える)、刀の柄の黄土色。懐から出した右手が刀の柄の先を握っていますが、手が小さく、やや不自然な気がします。
前に掲げた藤川水右衛門の姿のように体の動きはなく、のそっと突っ立ているだけですが、なかなか雰囲気があると思います。
三代目高麗蔵(鼻高幸四郎)の役者絵はたくさんあります。写楽だけでなく、いろいろな絵師が描いていますが、同時代の天才絵師・勝川春英(しゅんえい)が描いた高麗蔵の大首絵を掲げておきます。春英は、役者絵の大家勝川春章(しゅんしょう)門下の逸材で、17歳でデビューし、写楽が登場する10年以上前から役者絵を描き始め、人気のあった絵師です。下に掲げる絵は、寛永2年7月に描かれた絵だと言われています。役名は「忠臣蔵」の斧定九郎です。
写楽の絵と見比べてみるのも良いでしょう。
勝川春英 高麗蔵の斧定九郎