背寒日誌

2024年10月末より再開。日々感じたこと、観たこと、聴いたもの、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

写楽論(その8)~敵役二人

2014年04月26日 05時14分26秒 | 写楽論
 歌舞伎で演じられる役には、老若男女、善悪、さまざまな役柄がありますが、写楽が描いた役者大首絵の中では男の悪役に個性的なものが多いと思います。
 悪役で最も重要な役は、実悪(じつあく)と呼ばれる敵役(かたきやく)で、とくに仇討物の敵役は大役です。たとえば、「仮名手本忠臣蔵」の高師直(こうのもろなお)、曽我物の工藤祐経(すけつね)がそうです。
 寛永6年5月の都座と桐座では同時に仇討物がかかりました。「花菖蒲文禄曽我」(はなしょうぶぶんろくそが)と「敵討乗合話」(かたきうちのりわいばなし)です。前者は男の兄弟二人が父と長兄の敵(かたき)を討つ話で、後者は女の姉妹二人が父の敵を討つ話でした。どちらも実際に起こった仇討事件を芝居化したもので、前者は曽我兄弟の仇討物語になぞって、脚色したようです。曽我兄弟が仇討を遂げたのは、5月28日(1193年)のことだったので、それため5月は曽我兄弟をしのぶ月間として、江戸歌舞伎でも曽我物を上演することが多かったそうです。
 さて、問題の敵役ですが、「文禄曽我」の敵役は藤川水右衛門、「敵討乗合話」の敵役は志賀大七。この二人を描いた写楽の絵を取り上げてみましょう。


 二代目半五郎の藤川水右衛門

 藤川水右衛門は、坂田半五郎(三代目)という役者が演じました。当時39歳、年俸350両。中堅の悪役メインの人気役者で、脂(あぶら)がのり始めた頃のようです。師匠の先代坂田半五郎(二代目)は「江戸実悪随一」とまで言われた名悪役で、藤川水右衛門というこの役も得意にしていたそうです。それを三代目半五郎がこの時演じたのですが、先代に負けじとがんばったはずです。この役者は、翌年(寛政7年)、惜しくも40歳で亡くなってしまいました。
 写楽の絵を見る限りでは、まだ少し若くて、悪役の貫禄が出てない感じも受けます。眉を上げ、より目で、への字形に曲げた口、突き出した首。そこに憎々しさが表されています。こめかみの左右にほつれ毛が一本ずつあり、下膨れの顎にうっすらと無精ひげが見えます。浪人なのでしょう。この絵は、黒のモノトーンで、よく見ると袖から少しだけ覗いている肌着(裏地かも)がうぐいす色で、色はこれだけ。黒襟と着物の柄も良く、左手のかいなにある黒い線は入れ墨なのでしょうか。
 ところで、歌川豊国が半五郎の全身像を描いた大判の役者絵があります。豊国の「役者舞台姿絵」シリーズの1点で、写楽の絵が出された同じ5月に同じ役の藤川水右衛門を描いたものだとされています。しかし、髪形も着物も写楽の絵とは全然違います。豊国は、舞台を見ずに、興行の前にこの絵を描いたのかもしれません。さもなけれが、違った場面なのでしょうか。タイトルの下に書いてある「正月屋」は坂田半五郎の屋号なので、半五郎を描いたことは間違いありません。
 

 豊国 二代目半五郎の藤川水右衛門

 この絵の版元は和泉屋市兵衛(通称「泉市」)。芝神明前(現・芝大門)を本拠に、蔦屋重三郎の後に続いて、のし上がってきた地本問屋です。地元出身の若き豊国(二十代前半)をスカウトし、写楽がデビューする4ヶ月前(寛永6年1月)から豊国に「役者舞台姿絵」シリーズ(翌々年の寛永8年まで続き、約40点が現存)を描かせて、売り出しています。豊国が一躍有名になるのは、この連作の役者絵を発表してからなのですが、和泉屋に一歩リードされた形の蔦屋が写楽の黒雲母摺大首絵を引っさげて、役者絵市場に参入したのが、この5月だったわけです。和泉屋VS蔦屋、豊国VS写楽、全身像の立ち姿VS半身像の似顔。熾烈な戦いが5月に繰り広げられます。軍配はどうやら、前者に上がったようです。若い頃の豊国の役者絵は、実にセンスがよく、役者の立ち姿も見事に決まっています。
 この絵も、赤鞘の長刀二本と体のひねり具合のバランスが非常に良く、背景も薄い色の無地ですっきりしています。左下にヘビがいますが、水右衛門はヘビを操るらしく、「蛇侍」という異名があるそうです。

 次に、また写楽の描いた敵役を挙げます。
 志賀大七は、市川高麗蔵(こまぞう 三代目)が演じました。エリートの人気役者で、立役の大物・松本幸四郎(四代目)の息子です。当時31歳、年俸550両。彼はこの7年後に五代目幸四郎を襲名し、30年以上の長きにわたって活躍します。外国人のように鼻が高いので、仇名が「鼻高幸四郎」。江戸後期の名優です。実悪専門で、当り役は、「菅原伝授手習鑑」の松王丸、「忠臣蔵」の高師直、「義経千本桜」の権太、「先代萩」の仁木弾正など。彼が作り出した型は、後世まで伝承されているそうです。
 

 高麗蔵の志賀大七

 さて、写楽の絵ですが、高麗蔵の顔をやや誇張し、長顔で、鼻も長くて高く、顎も長めに描いています。この役者は、背も大変高かったのではないかと思います。この絵も黒のモノトーンに近い。着物は無地の黒。わずかに使った色は、目張りの赤、裏地の濃緑色(ちらっと赤い切れ端が見える)、刀の柄の黄土色。懐から出した右手が刀の柄の先を握っていますが、手が小さく、やや不自然な気がします。
 前に掲げた藤川水右衛門の姿のように体の動きはなく、のそっと突っ立ているだけですが、なかなか雰囲気があると思います。
 三代目高麗蔵(鼻高幸四郎)の役者絵はたくさんあります。写楽だけでなく、いろいろな絵師が描いていますが、同時代の天才絵師・勝川春英(しゅんえい)が描いた高麗蔵の大首絵を掲げておきます。春英は、役者絵の大家勝川春章(しゅんしょう)門下の逸材で、17歳でデビューし、写楽が登場する10年以上前から役者絵を描き始め、人気のあった絵師です。下に掲げる絵は、寛永2年7月に描かれた絵だと言われています。役名は「忠臣蔵」の斧定九郎です。
 写楽の絵と見比べてみるのも良いでしょう。


 勝川春英 高麗蔵の斧定九郎

写楽論(その7)~「写楽一期作品の検討」を読んで

2014年04月25日 01時50分11秒 | 写楽論
 浮世絵芸術データベースに「浮世絵芸術」(日本浮世絵協会・会誌)のバックナーバーがあり、その112号(平成6年7月30日発行)に「写楽一期作品の検討」という諏訪春雄氏(1934~ 日本の近世文学・芸能史研究家、学習院大学名誉教授)の論文があり、その中に、写楽が取材した三座の歌舞伎狂言の上演内容と役柄についての詳しい解説がありました。この論文は大変参考になりました。諏訪氏は、寛永6年5月当時に発行された絵本番付(芝居の内容を絵にして、あらすじを添えたパンフレット)と紋番付(役者の紋と役名を並べ、上演演目、配役などを書いた宣伝用チラシ)を調べ、解説を書いているのですが、河原崎座で上演された「恋女房染分手綱」のところを読むと、私が前に書いたことと食い違っていることがあります。今回はそれを、訂正しておきたいと思います。
 まず、この時上演された歌舞伎狂言「恋女房染分手綱」は、もとになった人形浄瑠璃(全十三段)を忠実には再現していなかったということです。浄瑠璃の半分くらいを省略し、お家騒動的なストーリーの部分は生かし、浄瑠璃では前半の見せ場ともいえる五段目の「鐘入り」を省いてしまっているのです。これを読んだ時には驚きました。鰕蔵(五代目団十郎)扮する竹村定之進が殿様に能の「道成寺」を演じてみせ、鐘の中で切腹して、娘の重の井の罪滅ぼしをする場面がない!! ということは、つまり、功成り名遂げた名優の鰕蔵を舞台で死なせることを憚ったのかもしれません。どうやら写楽の描いた「鰕蔵の竹村定之進」の一般的な解説、「切腹を覚悟した悲壮な表情」というのは間違っていて、もしかすると私の解釈の方が正しいようです。「恋女房染分手綱」という歌舞伎狂言は、宝暦元年(1751年)に江戸の中村座で初演され、人気を博した芝居ですから、寛永6年(1794年)のこの頃までには何度も上演されてきたと思います。過去の上演では、「鐘入り」の場面はあったはずです(確言はできないので、今度調べてみたいと思います)。そうだとすれば、見ているお客さんは、鰕蔵の竹村定之進が死ぬことは知っていたわけで、年老いた鰕蔵を舞台で死なせないという粋な計らいも納得済みだったことにちがいありません。
 河原崎座のこの興行で、長編「恋女房染分手綱」の半分近くを省いた理由は、この時、「義経千本桜」のさわりを二場だけ、上演したからだと思います。これは、切狂言(きりきょうげん)といって、メインの芝居の幕間に、所作事(舞踊)などを加えて、観客を楽しますものなのだそうです。「義経千本桜」の中の「狐忠信の道行」と「吉野山の川連法眼(かわつらほうげん)館(やかた)」がこの興行で上演されたとのことですが、後者に出演した二人の役者を描いた写楽の絵が、一枚だけ残っています(「二代目澤村淀五郎の川連法眼と坂東善次の鬼佐渡坊」)。
ついでに言うと、「恋女房染分手綱」のラストは、浄瑠璃十段目を再現した「道中双六」と「子別れ」で、この終わり方は現代の「重の井 子別れ」と同じになっていました。
*「ストーリーで楽しむ『写楽』 in 歌舞伎」という本が出ていることを知ったので、今度買って読んでみようかと思っています。


写楽論(その6)~謎の絵師(2)

2014年04月24日 16時14分07秒 | 写楽論

 四代目松本幸四郎の肴屋五郎兵衛(ボストン美術館所蔵)

 写楽は、寛政6年5月、江戸の三座での歌舞伎興行に取材して、一流の大物役者、人気の若手役者、そして脇役の中堅役者たちの役者絵を描きます。
 江戸幕府公認の三座は、中村座、市村座、森田座ですが、この頃は、この三座がすべて経営破綻のため休業中で、それぞれ、代行権を持ついわゆる控櫓(ひかえやぐら)の芝居小屋が幕府公認の下で歌舞伎興行をしていました。堺町(現・日本橋人形町三丁目)にあった都座、葺屋町(現・日本橋人形町三丁目で、堺町と同じ通り)の桐座、木挽町(現・銀座5丁目)の河原崎座です。もちろんほかにも芝居小屋はいくつもあったのですが、規模も小さく、簡素な小屋掛けで、引幕、回り舞台、花道などもなかったそうです。したがって、この三座が当時江戸で一流の大劇場でした。一流の役者たちも、この三座のいずれかと11月の顔見世興行から年間契約を結んで、出演していました。
 都座は、澤村宗十郎(三代目)、瀬川菊之丞(三代目)、坂田半五郎(三代目)、坂東三津五郎(二代目)、市川八百蔵(三代目)、
 桐座は、松本幸四郎(四代目)、市川高麗蔵(二代目)、尾上松助、八代目森田勘弥(八代目)、中山富三郎、松本米三郎、
 河原崎座は、市川鰕蔵(五代目団十郎)、岩井半四郎(四代目)、市川門之助(二代目)、市川男女蔵、大谷鬼次、坂東彦三郎(三代目)、澤村淀五郎(二代目)、といった錚々たるメンバーです。
 千両役者というのは、一年に千両稼ぐ人気役者のことで、ひと頃前のプロ野球で言えば一億円プレーヤーですが、享保期に江戸で活躍した二代目市川団十郎が最初にそう呼ばれたと言われています。田沼時代が終わり寛政期に入ると幕府によって倹約令が出され、風俗取り締まりが厳しくなります。幕府は、寛永6年10月、江戸の三座の責任者を呼んで、歌舞伎役者の贅沢を控えさせるため、給金の上限を年間500両に取り決めたそうです。その頃公表された年俸では、瀬川菊之丞と岩井半四郎の二大女形が900両でトップ、続いて澤村宗十郎の800両、松本幸四郎、市川鰕蔵、市川門之助、中山富三郎が700両となっています(梅原猛「写楽 仮名の悲劇」を参照した)。人気のある歌舞伎役者は、ご祝儀などの実入りもあり、年収が千両を超えた役者もこの中にいたと思います。地方の小さな藩の殿様や幕府の上級職より年収の多い高額所得者が、歌舞伎役者にはぞろぞろいたわけです。


 三代目澤村宗十郎の大岸蔵人(シカゴ美術館所蔵)

 写楽は、驚くべきことに、当時一流の三つの劇場に出演していた一流の役者たち全員の似顔絵を、毎日劇場に通いつめて、おそらく10日間ほどで、描き上げたのだと思います。役者絵は、その発売時期によって「見立て」と「中見」の二種類あり、興行が始まる前に発売されるものを「見立て(みたて)」、興行が始まってから発売されるものを「中見(なかみ)」と言います。歌舞伎興行では、開始前に絵入りの「番付」(宣伝用パンフ)が配られますが、「見立て」の場合、絵師は番付を見て、役者の姿を想像しながら絵を描く。「中見」の場合は、初日が始まってから絵師が実際の芝居を見て、スケッチをして描く。写楽がデビューした時に描いた約30枚の大判の半身像の役者絵は、「中見」の方だっただろうと言う専門家が多い。芝居を見もしないで、ああいう絵は描けない。役者絵を描きなれた絵師や歌舞伎通の絵師なら話は別ですが、写楽がそうだったとは思えない、というのが理由です。
 それから、役者絵というのは期間限定で一気に販売する商品なので、興行が始まってできる限り早く発売開始しないと意味がない。写楽の絵は初日が始まって一週間以内には売り始め、仕上がった絵を続々と発売していったのではないかと思います。それも、三座同時並行で、たとえば、3枚、2枚、また3枚といった具合に、です。そして、中日までには全部出揃ったのだと思います。写楽も大変だったでしょうが、版元も彫師、摺師が総動員体制で制作にあたったのではないでしょうか。写楽の版下絵が描きあがると、それをすぐに検閲者である「行事」のところへ持っていき、認可と極印をもらい、彫師に版木を作らせて、摺師が多色刷りで仕上げていく。版元の最高責任者は蔦屋重三郎です。彼が企画、制作、販売の一切を指揮した、いわばプロデュサー兼ディレクターでした。
 版元である蔦屋重三郎の強力なバックアップがなければ、きっと写楽は世に出なかったことでしょう。しかし、写楽という人物が浮世絵界ではまったく無名の新人だとしたら、いちどきに並み居る役者の似顔絵があんなにたくさん描けるのだろうか、という疑問が生じます。ベテランで業績のある絵師やその門下の新進気鋭で天才的な絵師ならば、プライドの高い役者たちも、やはり人気商売ですから、喜んで自分の似顔絵を描かせて、販売させたでしょうが、いくら有名な蔦屋でも、どこの誰だか分からない絵師を連れて来て、この男に描かせてやってほしいと頼まれても、容易に承諾はしなかったのではないでしょうか。それが、一流役者のだれもかもが、写楽に絵を描かせた。なぜなのだろう? そうした疑問が頭から離れません。


写楽論(その5)~謎の絵師

2014年04月23日 07時12分38秒 | 写楽論
 写楽は、寛永6年(1794年)5月に役者絵約30点を引っさげて彗星のごとくデビューし、翌年正月に突如として浮世絵界から消えた謎の絵師です。現在のところ、その前に写楽が描いた絵も、その後に描いた絵も見つかっていません。何年か前にギリシャで写楽の名前のある肉筆の扇絵が出て来たことがありますが、ホンモノの可能性が高いというだけで、実のところは分からないようです。
 写楽という絵師が実際浮世絵を描いていた期間は、約10ヶ月、もしかすると半年ほどではなかったかと言われています。もちろん、写楽とは別の名(たとえば本名、あるいは他の雅号)でこの絵師が、その前にも絵を描いていたことは確かでしょうし、その後にも絵を描いていたかもしれません。絵の修業時代もなく、急にああいう独特な絵が描けるわけがありません。また、若い頃描いていたのは浮世絵ではなかったような気もします。写楽の名で浮世絵を発表しなくなってからは、絵を描くのをやめてしまった可能性もあります。
 ほぼ確実なことは、東洲斎写楽(前期に使っていた)あるいは写楽(後期に使った)の名でこの人物が浮世絵(ほとんどが役者絵)を描いていた期間は、1年満たないということです。そして、彼が描いたとされ、現在見つかっている絵の種類(版画なので同じ絵が何枚かあります)は約140点です。東洲斎写楽または写楽の名で公表された絵は、実際にはもっと多かったと思われますし、版画の浮世絵以外の絵、たとえば肉筆画や本の挿絵などもあったかもしれません。絶対になかったとは誰も断言できないわけです。
 また、写楽の名があって現存する浮世絵のすべてが同一人物によって描かれたものかどうかも分かりません。後期の絵の多くは、別の人物が描いたのではないかと疑問視する専門家もいます。
 なにしろ、写楽という人物は謎だらけの絵師で、写楽はいったい誰で、どういう人だったのかについても、実はまだ確定していない。「写楽=能役者斎藤十郎兵衛」説に関しては、これから書いていくつもりですが、現在の段階では絶対にそうだと言い切れないと思います。
 
 ここで、前回に書いたことの補足をしておきましょう。写楽の描いた女形役者の絵はいいのか悪いのかという問題です。評判が良かったのか悪かったのかと言えば、悪かったのだと思います。当時、若手の女形役者に松本米三郎(よねさぶろう)という人がいて、この役者は大変美しい女形だったらしく、20歳代で人気を集め、一座の花形にまで昇りつめた人だったのですが、惜しくも32歳で亡くなってしまいました。
 まず、写楽の描いた松本米三郎の絵を掲げ、これと後輩の歌川国政が描いた米三郎の絵とを比較してみようと思います。


 東洲斎写楽 「松本米三郎のけはい坂の少将実はしのぶ」(ボストン美術館所蔵)

 これは、寛政6年5月、桐座で上演された「敵討乗合話」の役で、米三郎が21歳の頃の似顔絵です。みずみずしさもないし、美しいとも感じません。左手も小さすぎて、不自然です。こういう絵では、ファンも贔屓筋も喜ばなかったにちがいありません。


 歌川国政 「松本米三郎の不破初左衛門の娘」(ボストン美術館所蔵)

 こちらは、写楽の絵の2年後に国政が描いた米三郎の似顔絵です。いかにも若女形といった感じで描かれています。私は、国政の絵の方がずっと良いと思います。こういう絵なら、ファンも喜んだにちがいありませんし、本人も納得がいったでしょう。

 私が愛読している作家の永井荷風は、明治期後半に浮世絵をたくさん買い集め、浮世絵に魅せられていた数少ない作家の一人ですが、写楽の描いた女形の絵について「奇中の奇、傑作中の傑作」だと絶賛しています。荷風の「江戸芸術論」所収の「浮世絵と江戸演劇」(大正3年)から引用しますと、
「岩井半四郎、松本米三郎の如き肖像を見れば余は直ちに劇場の楽屋において目のあたり男子の女子に扮したる容貌を連想す。濃く塗りたる白粉のために男にもあらず女にもあらぬ一種の怪異なる感情は遺憾なく実写せられたり。この極端なる画風は俳優を理想的の美貌と定めたる伝来の感情に抵触する事甚だしきがためこの稀有なる美術家をして遂に不評のために筆を捨つるをやむなきに至らしめき」
 荷風は、写楽があえて女形役者を美しく描かなかったことを評価しているわけです。そして、そのために不評を買い、写楽は絵を描くことを断念したにちがいないと言っています。
 写楽という人物は、世評など構わずに、自分の描きたいように絵を描いた、反骨精神ある、我の強い、自分の信念に忠実な画家だった、と私は思います。似たような性格の荷風が写楽に共感を覚えたのも分かるような気がします。
 
 
 

写楽論(その4)~女形役者二人

2014年04月22日 04時19分51秒 | 写楽論
 「蝦蔵の竹村定之進」の役者絵は、世界各地に20枚以上が現存していて、写楽の絵で残っている作品の中ではいちばん多いそうです。さすがにその頃当代一の名優だった五代目団十郎の似顔絵だけあって、所有者が大切に保管していたのではないでしょうか。それと、摺られた枚数も多かったのではないかと思われます。これはあくまでも私の推量ですが、1000枚以上は摺ったのではないでしょうか。
 写楽の絵に関して、常に問題にされるのは、たくさん刷って、たくさん売れたかどうかということと、豪華版として数枚のセットにして高い値段で売ったのかどうかということです。似顔絵の評判が悪くてあまり売れなかったと言う人もかなりいますし、買った客は関係者筋や特定の金持ちに限られていたのではないかと言う人もいます。
 写楽の大判の大首絵は豪華版で、作るのに金がかかっていると言う人は、背景の黒雲母摺(くろきらずり)のことを指して言っているのですが、材料の黒雲母が当時どれほど高いものなのか、私には見当もつきません。しかし、背景に黒雲母を使うと黒光りして、かなり豪華に見えたことは間違いないようです。現存する絵はそれが剥げてしまって、薄汚くなっていますが、新品はきっと鋼鉄のような輝きがあったと思います。そこに役者の半身像が顔の表情も豊かにどーんと浮き上がって描かれているわけですから、初めて見た人には大変なインパクトがあったことでしょう。
 ところで、「蝦蔵の竹村定之進」が寛政6年(1794年)5月の江戸の河原崎座で上演された「恋女房染分手綱」(こいにょうぼうそめわけたづな)の役柄だということはすでに述べましたが、この芝居に出演した他の役者たちの絵も残っています。9点ありますが、定之進の娘でこの芝居の主役である重の井の絵を取り上げましょう。


四代目岩井半四郎の乳人(めのと)重の井(ボストン美術館所蔵) 
 
 重の井を演じたのは四代目岩井半四郎です。当時、三代目瀬川菊之丞と女形の双璧と言われた人気役者で、この似顔絵を見ると、頬のあたりがふっくらしていて、やさしげで品もあり、美しく描けていると思います。この役者は「お多福半四郎」という仇名もあったといいます。ただ、この絵は男役の役者の個性的な似顔絵に比べると、インパクトもなく、面白みに欠けます。調べてみると、岩井半四郎は当時48歳、年の割りに若く見えます。

 同じ芝居に出演したとされる女形二代目小佐川常世(おさがわつねよ)の大首絵もあります。この絵は役名が確定していません。東京国立博物館は「奴一平の姉おさん」、歌舞伎・浮世絵研究家の吉田暎二(てるじ)は「竹村定之進の妻桜木」としています。近世文学・浮世絵研究家の鈴木重三によると、どちらも疑問視していて、「役名考証は保留して今後の研究にまちたい」と書いています。



 この絵を見ると、この女形は、貧相で色気もありません。左手の様子も不自然に見えます。「日本人名大事典」には、二代目小佐川常世は「若女方の名手として知られ、辛抱役を得意とした」とあります。
 しかし、写楽の描いた女形役者の半身像は、男が女装した様子がありありと窺えて、どうも魅力を感じません。ドラマチックな緊迫感もなく、見ていて、伝わってくるものがありません。ポーズも大同小異で、手の位置と指の様子で変化をつけているだけです。
 写楽が描いた女形役者は全身像の方がいいように思います。