高校のときにお世話になった先生が病気で亡くなっていたことを知った。
知らせが届いた日は、ご冥福を祈り、自宅の仏壇の前にて読経させていただいた。
先生は、不思議な付き合いをしてくださった。
先生は、ジャズの熱心なファンだった。
担任をしていただいたわけでもなく、専門の国語科を受け持ってもらったわけでもなかったが、私がジャズに興味があると知ると、自宅に呼んでくれて、いろいろと聴かせてもらった。また、貴重なレコードを惜しげもなく貸してくれた。
私のジャズの基礎知識は先生について学んだところが大きい。
最初にジャズの話をした時のことはよく覚えている。
よく晴れた日のゴミ焼き場の近くだった。
「日高、ジャズを聴くなら覚悟して聴かんばぞ。ジャズは麻薬ぞ。」
確かに、その麻薬に取り付かれて、かれこれ四半世紀を過ぎてしまった。
また、先生の専門は国語科ということもあり、読書を薦めてくださった。
「君にはこれが合うと思う」と貸してくれたのが中上健次のエッセイや小説を数冊。
衝撃的だった。
そうしたことなども含めたいろいろなできごとは、大学の学部選択にも影響したように思う。・・・・結局高校の国語の教師にはならなかったが・・・
また、中上健次を知り、中上原作の映画「十九歳の地図」を早稲田の名画座で見たのが板橋文夫さんの音楽と出会うきっかけとなった。
板橋文夫さんが気になっていた矢先、彼のコンサートが中野であった。
衝撃的だった・・・。
全身全霊でピアノと音楽に立ち向かう姿に私は凍りついた・・・こんな人がいるのか、こんな音楽があるのかと。
そうしたいくつかの出会いから二十年を過ぎてしまったが、私には、その出会いの種が大きく育って来ている。
板橋文夫さんが出演する横浜ジャズプロムナードに出かけたのが縁となって板橋さんと話をするようになり、数年前から三度ほど彼のライブの主催もした。世界で活躍する著名なジャズ・ミュージシャンのライブの主催をできたことは自身の人生上の奇跡だと思っている。
山村先生も、諫早でのライブにご夫妻でおいでくださった。
「いい活動をしているね」と、声をかけてくださったのが嬉しかった。
恩師への追悼の思いを込めて、ブログに思い出を記させていただきます。