さて、なぜ長崎の港にこの碗が沈んでいたかです。
ここからは想像の世界になります。
沈んだ時代を幕末としましょう。
坂本龍馬が海援隊を率いてさかんに長崎の港を出入りしていたころも、波佐見の中尾山では、世界最大級の登り窯が、すさまじい炎を吹き上げ、大量のやきものをやいていました。
庶民の器であるくらわんか碗や、オランダ船に積み込むコンプラ瓶などが盛んに焼かれていました。
1959年に米・英・仏・露に対しても長崎港が開かれてからは、コンプラ瓶の需要はもっと増えたことでしょう。
そして古くから出入りする清国の船も含めて、長崎港はとてもにぎやかでした。
また、外国船警備のための鍋島藩や黒田藩の船もたくさん出入りしていましたし、
さまざまな商人の船や漁船でにぎわっていました。
当時の船は、ごくわずかの大型船が蒸気機関で動いていただけで、ほとんどが風の力と人の力が頼りでした。
・・・・・・当然、速力も遅い。
したがって、航行中何度も食事の時間を迎えることも多かった。
破損やいざとなったら捨てなければならないというリスクのある場所に上等(完全品)の茶碗はいらない。二等品・三等品でじゅうぶんだ。
というので、こうしたものが船舶で使われ、何かのはずみでドボンと海へ。
というのが、わたしのひとつの想像です。
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