明治十八年生まれの祖母が幼いころの話だから、明治二十年代のはじめごろのことだろう。
五島家の家中だった祖母の実家S家の知行地を管理していた人が、年に一度挨拶に訪れてきたという。
かなりの高齢の方だったというが、その方の頭はちょんまげだったといい、挨拶のしかたの大仰さといい、挨拶の席に座っていなければならなかった祖母姉妹は、笑いをこらえるのがたいへんだったのだということを、その方の声色、しぐさつきで何回も何回も聞かされた。
当時はすでに髪型は自由にしてよいという政令のもとに、マゲを保ったものは少なかっただろうが、老人のなかには生活習慣を変えないものもいたのであろう。
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祖父の遺品。
祖母の部屋に残されていた刀箪笥の引き出しに、大日本帝国陸軍中尉薬剤官として日清・日露に従軍した時の勲章とともにしまわれていた祖母の大事な宝物を、時おりねだりにねだって見せてもらうのが嬉しかった。
心静かに思い出せば、風呂敷に包まれた漆塗りの箱とともに、古い白黒の写真が幾葉かしまわれていた。
そのなかの何枚かの映像を今でも思い出すことができる。
40年前の何歳かの子供のころに数回だけ見た映像を今でも憶えているということは、よほど印象が強かったのだろう。
その写真のなかに、若いころの祖父と仲間たちが写った写真もあった。
おそらく30歳ころの祖父。
30歳だとしたら、当時は明治36年。まさに秋山真之が日露の作戦参謀をつとめたころだということになる。
その、和服姿を見て、「壮士」という言葉とともにあの写真を思い出した。
和服姿の、目がきれいで、それでいて眼光炯炯といった気力の充実を感じさせる正義感の強そうな男達が祖父とともに写った写真。
祖母は「壮士」たちだと私に教えた。
現代的に言えば憂国の志を同じくする仲間たちということになるのだろう。
司馬遼太郎は、「坂の上の雲」の時代を理解するためには、あの時代の高揚感がわからなければならないと言った。
家にあっては和服を着、端座して箱膳で食事をする生活をし、外にあっては欧化の新知識と新たな方法で時代をつくっていったころの、武士道精神と新たな世界への希望を祖父と、その仲間たちの目の光に感じる。
その目の光を、不思議なほど今鮮やかに思い出す。
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黒鉄ヒロシが、幕末明治を生きたある男について、
「武士の残滓」を見出す思いがすると語った。
五島家家中として武士から「士族」になった曽祖父。
曽祖父と曾祖母から武士流の家庭教育を受けた祖父。
そしてその残滓をただよわせた父。
私は今、壮士ならぬ壮年の時を生きている。
この年になって、壮年の時の父に考え方や行動が似てきていると感じることしきりである。
自分自身に、「武士の残滓」の匂いを嗅ぐ事が日々強まっている。
庭訓というものは、数代はなくならないものようである。
明治は、私にとって、他人事ではないのである。
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