ある歴史の本によれば、江戸時代に交通困難の地にあった西国の小藩も参勤交代を勤めており、五島家の江戸での行列は、大名家の中でも最小の四十名足らずだったという。
日本中の各藩の武士たちがそうであったが、数々のハンディや困窮に耐えて暮らしてきた五島家の家来たちは、維新後家禄を離れ、それぞれの力で家庭経済を営むようになり、大多数の藩士が自身に与えられた家屋敷を手放し、福江を離れる者も多かったという。
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私は想像すると楽しくなる景色を心の中に持っている。
昭和の大火で消え去る前にあった、現在の福江文化会館から坂を上った一帯、本町の商店街の一帯、福江小学校周辺、郵便局の周辺、観音寺の周辺、末広公園の一帯に整然と区画された道路の両脇に立つ、家格に応じた石垣や門をもつ家中たちの屋敷の風景である。
現在残っている武家屋敷通りよりも家格の高いそれらの遺構は壮観であったであろう。
今でも、いくらかその名残を残す町を私は愛するが、すでに実家もたたんで他郷に根を下ろす身としては、古詩の一節を借りて、「故郷 安んぞ忘るべけんや」と歎じつつ、五島家家臣たちの、ある維新の記録を書き写すものである。
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以下は写真の地図の由緒書きの部分です。
《本文は縦書きです、また、漢字の本字(いわゆる旧字)は通常のPC変換で出てくるものに変わっています》
「旧家中士族王政維新後、生活其他ノ便利ヲ計リ、家屋邸宅ヲ売却シ或ハ互ニ交換シ又他ノ県ニ仕官シテ立退キアリ浦辺田舎ニ移転スルモノアリテ邸跡ハ畠トナリ田トナリ商家トナリ或ハ官署社寺トナリ後世ニ至リ旧邸ヲ知ラザル者多カルベシ、依テ茲ニ慶応の末期ヨリ明治の始頃、即、去今大凡廿年以前の絵図ヲ記載シ之ヲ示ス
但シ、広、狭、曲、直ハアリ、只、其頃、何某ハ、何所ニ居住シタルヲ云フヲ記ルセリ。
付、家中トハ旧藩士ノ居住スル町ヲ云フ。
中山文太、山田矢三次、時斗佛文吉、斉藤東太郎、等ハ旧藩武士列外ナリシモ記載ス
城ハ一部ヲ記ス
「明治十九年丙戊九月 太田新五郎定法記ス
昭和三十五年十一月
田尾登景周ノ直流
十六代 田尾昇 写ス」
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令和元年六月十一日
日高駿一茂和
ウエブ記録として写す
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