福江を離れて東京で暮らしたかったのは、進学だけでなく、そういう動機と夢があった。
上京を許してくれ、学費に生活費にと苦労をかけた両親への感謝を述べてから追悼の思いを書くことにします。
母が婦人服の仕立て業を営んでいた関係で、お客様用に「ミセス」とか「装苑」、
「家庭画報」などの婦人雑誌が母の店に常備されていた。
私はそれらの雑誌の文化記事や著名人へのインタビュー、料理の記事を読むのが好きだった。
それらの雑誌で立川談志のインタビュー記事があり、そのなかで談志が大鵬や王貞治、志ん生などの、自分が好きな好きなスターと同じ時代を生きられるというのは幸せなことだ
というようなことを語っていたことを、三十年から前のことなのに、いまだに憶えている。
願いかなって、上京して、まだ寄席に出ていた談志を池袋演芸場で何度か聴いたが、うれしかったなぁ。
主任(トリ)をとった後、Tシャツ姿の談志が客席へ出てきて、知り合いと談笑していたことがあったが、キャラクターからはうかがい知れないながら、気配りのある人柄だったということを亡くなったあとで聞いて納得がいく。
亡くなった直後、追悼番組として、1979年に収録、放送された「居残り佐平次」が再放送された。
当時私は高校生。
まだ、ビデオが家に無かった時代に、カセットテープに録音したものを何度も何度も聞いた覚えがある。
あのころから、未知の世界への夢、江戸への興味、ジャズをはじめ、好きなことを深く追求するようになったのは立川談志を知り、好きになり、機会を見つけて目を離さなくなってからのような思いがある。
・・・・・
家元、
ありがとうございました。
そして、これからも、思い出とアーカイブで楽しませていただきます。
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