先日角上の寿司弁当を細田氏に御馳走になりながら、細田氏と語り合いました。「何のために部活って、バスケット部ってあるのだろう」「それは、バスケで強くなるためだよ」「強くなってどうするんだろ」「強くなって勝つためだよ」「勝ってどうするんだろ」「…、そりゃ、勝てば楽しいだろう」「楽しいけど、それだけかな」「ほかに何がある?」「それじゃ、僕らバスケのOB・OG会って、なんのためにあるのかな」「ひとつには、昔話をして楽しんで親睦するためかな」「それだけじゃ、やがて話は尽きるよね」「うん、現役のサポートもあるな」「現役のサポートって」「まあ、応援にいったり、いろいろあるよ」「ぼくは、高校を出て半世紀が過ぎたけれど、思い出は必要以上に美化されがちだけれど、高校時代は、ま、とってもよかったな。未来への不安でいっぱいだったはずなのに、実に楽しかったな。試合に勝ったことももちろんすごくいい思い出だけれど、真夏の練習が終わって、部室の前で長椅子に座って、体育館と校舎の間を吹き抜ける気持ちのいい風で夕涼みをしながら、みんなでぐにもつかない馬鹿話で大笑いしてたこと、今でも楽しく思い出すな」「そうだな、そうか、部活っていうのは、青春賛歌なんだ。OB・OG会は、青春賛歌を伝える会なんだ。清水先生の追悼集の各代の先輩たちの思い出を読んでも、つくづくそう思った(細田氏)」「そうだよ、それだよ、バケットをやる意味、バスケ部の意義、OB・OG会の意義は、結局は青春賛歌、人間賛歌を歌うことであり、伝え続けることなのかもしれないね」――その日私たちが角上の寿司弁当を食べながら、少しお酒で喉を潤し辿り着いた、一つの結論でした。
現在の石神井高校の体育館は、私の知るところでは3代目。50年前、私たち25期が一年のときまであった初代体育館は、もうそれはそれはボロボロで、どこでしたか、北側のサイドラインの近くだったと思いますが、床下の支え木が朽ちていたせいか、ドルブルすると跳ね返ってこないところがありました。そこで、我々は招待試合などの際、相手のオフェンスをそこに追い込んでドリブルさせ、「アレッ!」と驚いたすきにボールをスチールする作戦を立てました。計画がうまくいったかの記憶はありませんが、相手チームが「アレッ!」と驚いたことはあったと思います。体育館というよりは、講堂のような古色蒼然たる造りでした。一年生のときは、ここでよく生徒会集会が開かれ、制服廃止が決議され、私服での登校が一般化しました。なるほど自由はいいなと思いながらも、着る私服のない私は、依然学生服で通っていました。聞くところによると、今の石神井は制服が復活したとか。外形的に精神を象徴し、統一をアピールするのは幼稚な気がします。石神井の旗印は自由。ドルブルがはねかえって来ない体育館でも、体育館の体をなしていなくても、健やかな魂は涵養され、受け継がれていくのだと思います。サンテグジュペリに賛成です。大事なこと、本当のことは目には見えない。