白髭橋のカレーの炊き出しの日、酔っぱらったJさんが何か怒っているようなので声を掛けた。
「何かあったの?」
「ボランティアに酷いこと言われた」と行き成り怒号が返ってきた。
「誰に何を言われたの?」
「もう良い」とJさんは今度は怒りの矛先を私に向けてきた。
私はその怒りを瞬時に買い、私も怒りの状態で返してしまった。
「もう良いって何がもう良いの?」
私はJさんが小さく弱いことを知っていて、自分が負けないことを知っていて、上から、その言葉を発していた。
「もう良いよ」とJさんは怒りのままに自転車に乗り、怒号を上げながら去ってしまった。
私は私の醜さに吐き気がした。
私にはほんとうに愛がないと思った。
次の週、Jさんは私の前に「先週はごめんなさい。先週はごめんなさい」と謝った。
謝りたいのは私だと思った。
生意気で傲慢で善意面の私の方だと思った。
今回の件だけではない、私には怒りに対しての防衛本能として、怒りで対応してしまう愚かさがある。
それが嫌でしょうがないにも関わらず、反射的にそうなってしまうことがある。
私にはフランチェスコの平和の祈りが生きていない。
私には愛がない。
だから、あの方に愛を乞わずにはいられない。
祈らずにはいられない。
神よ、
わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。
憎しみのあるところに愛を、
いさかいのあるところにゆるしを、
分裂のあるところに一致を、
疑惑のあるところに信仰を、
誤っているところに真理を、
絶望のあるところに希望を、
闇に光を、
悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。
慰められるよりは慰めることを、
理解されるよりは理解することを、
愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。
わたしたちは、与えるから受け、ゆるすからゆるされ、
自分を捨てて死に、
永遠のいのちをいただくのですから。