はい、しげのですが?

匿名でないと困ることは書かない。最近は体調不良で投稿めっきり減ったが。

【2015年の大田区議会選挙における「障害福祉は大田区をよくする」キャンペーン総括】その1

2019年04月13日 16時09分41秒 | 障害者権利条約Vs障害福祉

しげのは2015年、前回の大田区議会議員選挙に立候補し、かろうじて474票を得て終わりました。おかげであきらめていた供託金30万を無事回収できました。投票してくれたかたがたに改めてお礼申し上げます。

また出るの?とよく聞かれるのですが、今回は出ません。前回なぜ出て、今回なぜ出ない、という理由説明も含めての、前回選挙の総括を書き始めています。
徐々に書いて、今回の投票日までには全部書き上げたいと思います。


【2015年の大田区議会選挙における「障害福祉は大田区をよくする」キャンペーン総括】その1

1.経緯・目的と目標設定
 (1)「障害当事者を区議会議員に」という提案
 (2)2012年、総合支援法での大敗北
 (3)「障害福祉を最優先に」「障害福祉は大田区をよくする」キャンペーン
2.成果と課題
 (1)成果
 (2)課題
 (3)今後

1.経緯・目的と目標設定
(1)「障害当事者を議員に」という提案

2007年、中村和利と「オープンセッション♪」を始めた頃、中村が盛んに提案していたことが、「障害当事者を区議会議員選挙に立候補させる」だった。しげのもそれはよいアイデアだと考えて、基本的に賛成はしていたが、中村の案は「当事者を10人立候補させる」だった。インパクトはあるだろうが、僕には乱暴で無茶な提案、という拒否感が強かった。

賛成をした部分としては、障害当事者が議会の一員にならなければ、大田区議会は障害者の置かれている現状を本当に理解する契機をもてないだろう、と考えたからだ。

この時、障害者における当事者性の性質とその限界、ということを改めて考える必要はあるだろう。当事者主体の原則「私たち抜きに私たちのことを決めるな」は常に尊重されるべきだが、現実にはある障害者が別の障害者の利害を代表することは原理的に困難だ。

「障害者代表」に求められる当事者性とは、自分の障害特性や自分の利害を超えて、よりさまざまな障害のある人の状況を想像し、知り、共感できる力を伴う。現実には、既成の障害者団体は障害種別に区切られ、種別ごとの要求団体になっているが故に、障害特性ごとの利害の相克に十分対応できず、そこを上手に行政に利用されコントロールされてきたと思う。大田障害者連絡会を結成したときも、「人にやさしいまちづくりを考える大田区民の会(やさしいまちづくりの会)」が発足したときも、障害種別をこえた相互理解を掲げ、またワークショップなどもおこなってきた。

ある障害者が障害者の代表として大きな当事者性を担う。現実にはCILで相談事業等の経験を持つ重度身体障害者の当事者がそれを担うイメージがあった。重度身体障害者は、健常者から見た目でわかりやすい。また、CIL=自立生活運動の中で、当事者性を強化する基礎的な訓練を受けていると考えたからだ。

しかし一方で、現実的なハードルの高さも否めない現状だ。
第一に、多くの重度身体障害者は、障害の進行等に伴う体調不良にいつも悩まされる傾向にあり、長期にわたる活動の持続が難しい場合がある。
第二に、身体障害者が他の障害者を代表することへの警戒や否定的な動きも水面下ではある。

自分の中では、当事者区議会議員の可能性について、以上のような考えを持っていた。

(2)2012年、総合支援法での大敗北

2010年から2011年という年は、日本の障害福祉にとって画期的な年だった。障害者の人権を事実上認めてこなかったこの国の政府が、国連障害者権利条約の精神に則り、正式に権利モデル=障害の社会モデルに基づき、「権利に基づく障害福祉」への歩みを始めた。それは革命と言ってもよかった。

その、多くの先人の悲願の体現でもある障害者総合福祉法は、2011年8月に公表された骨格提言によって、具体的に示された。本当に実現するか怪しい、という関係者の声に呼応して、大田区においても、地域の障害者団体を横断して「骨格提言の実現を求めよう」という動きが始まった。

しかし、そのときすでに反革命と裏切りは進行していたのだった。障害者総合福祉法とはまったく異なる、むしろ国が撤回し謝罪したはずの障害者自立支援法の改訂版としての障害者総合支援法なるものが登場し、一度結束したはずの障害者団体は四分五裂し、日本障害フォーラム(JDF)は機能停止した。

この事態は間違いなく、障害者の人権をめぐる運動の大敗北だったと考える。中央における政党政治の力学での敗北であるだけでなく、障害種別や支持政党を超えた、地域での障害当事者や障害福祉関係者の連帯がたやすく覆された、無残な敗北だったと考える。

当時、自分自身が精神的に受けた打撃も、思いのほか大きかった。

ちなみに、私事ではあるが、しげのは1980年代の初頭に、大学生活で3つのインパクトを受けて大きく人生観が変わった。ある意味、そこが原点とも言える。
①重度身体障害者の自立生活を支える24時間介護体制への参加(1981年~87年)、
②イスラエルのレバノン進攻とそれに伴う虐殺事件(1982年)、
③関東大震災での朝鮮人虐殺事件の歴史発掘との出会い(1983年)

特に①が、自分にとっては圧倒的に大きかった。
そのことは「オープンセッション♪」の第2回で触れている。

人として生きるための当然の要求を、身を挺した闘いの中でしか望めなかった障害当事者の遺産が現在の制度の背景であり、その意味では、「権利に基づく障害福祉政策の実現」はそのゴールとすら思えた。「運動の歴史とは、敗北の連続の歴史である」位の気持ちで生きては来たつもりだが、この敗北は、死んでいった先人たちが枕元に立つのではないかとすら思えた。今思い返しても切ない。

今も骨格提言の実現は必要だと思っている。ただ、それが当事者にすら熱烈に支持されなかった理由は明らかにされるべきだ。

国連障害者権利条約を批准したにも関わらず、「障害の社会モデル=権利モデル}が社会に支持されない理由は、「福祉は社会の重荷」「障害は社会の重荷」という社会通念にあり、その通念に当事者や家族も飲み込まれているからだと考える。

この社会通念のもとでは、障害特性に基づくニーズを公的に保障する資源は小さく限られ、小さいが故に選抜した少数にしか配分支給できない。パイを大きくせよ、という要求を出すものは「身分をわきまえろ」と攻撃され、「大きな声を出さなければ、あなたにだけは大丈夫差し上げます」という見えない囁きに支配された人たちが、小さなパイを奪い合う状況になる。既成の障害者団体は、パイの配分に優先的にありつく窓口のように装われ、「過大な」要求を統制する見返りに優先権を持つかのように誤認識されるようになる。種別間、団体間の相克状態が演出され、知的障害者の親に「このままでは頭のいい車いすの人たちに持っていかれますよ」と囁いた人がいる、というような風説も聞こえてくるようになる。

結局のところ、「障害・福祉は社会の負担になる」という通念を打破する、というところまでは、当事者よりは支援者の側の仕事だろう。当事者がステージに立つための状況作りをしなければなあ、と考えたのだった。

以下は次回以降に書きます。

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(3)「障害福祉を最優先に」「障害福祉は大田区をよくする」キャンペーン

2.成果と課題
(1)成果
(2)課題
(3)今後


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