追記:2013年1月28日時点で、以下のことを思って書いた。現在当時のリンクの動画は存在しないので、経緯について補足加筆する。
http://ryukyushimpo.jp/news/prentry-201876.html
http://www.qab.co.jp/news/2013012840797.html
「建白書」を安倍総理に届けるために、オスプレイ配備に反対する県民大会実行委員会の代表と県内41市町村長ら要請団の144人が東京にやって来たのだが、その時に要請団を取り囲んで、沖縄差別に満ち溢れた罵倒を繰り返す、ヘイト行動を行ったのが、「日本会議」の面々だ。彼らのインターネットでの呼びかけを知って、要請団を防衛するために、私たちは国会議員会館前で、「日本会議」に組織されたヘイト集団に包囲されないがら、要請団のバスを防衛した。その醜悪な光景の中で考えたことが以下のものだ。(2016年4月8日加筆)
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まず、こんな状況であったことを、動画で確認してもいいかな。
http://www.ustream.tv/channel/irene-channel#utm_campaign=t.co&utm_source=9366762&utm_medium=social
たぶん、「チャンネル桜」とか見れば、彼らの側の動画もあるんじゃないか。
それはさておき。
「弱い者たちの群れが、さらに弱いものを叩く」
古典とも言える、「THE BLUE HEARTS」の「TRAIN TRAIN」の一節だ。
朝から夕方まで、僕らを罵倒し続けた人たちを見て、そう思った。
正確には、僕らは、「さらに弱いもの」ではない。
彼らの本音の設定では、僕らは、
「この世の悪の根源という設定にしてあるが、実は無抵抗で手ごろな存在」
である。
なぜ、手頃なのかといえば、「反撃しない」からなのだ。
その現場は、常に警察に取り囲まれているので、「反撃すれば、すぐ警察に逮捕される」ということがわかっている。
「挑発に乗らず、毅然・整然と行動しましょう」という相手に対して、やりたい放題だということが、経験的にわかっている。
ちょうど、
悪ガキに狙い撃ちにされる着ぐるみの怪獣
みたいなものかもしれない。
実際、どんなにくどい嫌がらせを受けても、僕らの基本的な対応は
「無視」である。
しかたがないのだろうか。
僕は、「無視」は苦手だ。
8時から僕らの妨害のために集まった彼らは、対外的に公表していた15時まで、執拗な妨害活動を繰り返した。
簡単にいえば、僕らの両側を挟みうちにして、大音量の罵声で、僕らの声を封じること。そして、歩道を通行できるように確保する、という僕らのスタンスを利用して、僕らの集まりの中を集団で通過することを繰り返した。
僕らの輪の中を通過しながら、数十センチの鼻先で僕らを罵倒し、挑発し、ひとりひとりを鼻先で撮影することを繰り返した。
ちなみに、その妨害活動の先頭にいたのが、田母上氏であったことは、象徴的なこととして、銘記しておく。
米兵から性的暴行を受けた被害者に対して、事実に反した誹謗をしながら、その釈明をしないことで、以前から、不誠実な人物として、僕が注目していた人であったので、彼がこの行動に率先してあることには、非常に合点がゆく。
これまで街頭で、右翼団体との接触は何度もあった。
緊張はあったが、やはり、それなりの仁義と自制、というものがあった。
僕らを「国賊」と思っていたとしても、相互にそれなりの尊重というものがあったと思う。
彼らの行動を許可する警察も、もちろん正当な判断ではないと思う。
警察は、ぼくらが歩道を移動すること自体を、いつも恣意的に規制してきた。
権利として保障された表現活動をおこなうひとびとの間を、ただそれを妨害するために、「通過(実際には中に入り込んでの妨害活動)」することを権利として認める。
だが、残念だが、それはあまりに日常的なことでもある。
少し長くなってしまったが、この報告で本当に言いたかったことは別にある。
しかたがないのだろうか。
僕は、「無視」は苦手だ。
その本意は、「彼らも被抑圧体験者なのだろう」ということなのだ。
被差別・被抑圧体験を持つものが、
そのストレスの解消手段として、手じかな「敵」を作りだし、
「他罰感情」を醸成し、膨れ上がらせていく。
その伝統的な矛先が、彼らの恣意的に作り出す「左翼」だ。
妨害集団の先頭で一貫してマイクを握っていた彼。
「がんばろう福島!南相馬復興支援」と書かれた車で乗り付けていた彼。
罵倒を続ける彼のことばを聞いていると、本当に辛くなる。
「おまえらは弱者を利用しているだけのクズなんだ!正体は中国共産党ファシストの手先だ!」
「どうた!答えられないだろう!反論できないだろう!」
「おまえらはクズだ!消えてしまえ!」
「臭いゴミはゴミ箱へ!」「ゴミは消えろ!」
確かに、どんな大音量で罵倒しても、誰も反論しない。無視するだけだ。それが切ない。
彼にできることは、野次と突っ込みを入れ続け、クズだ、ゴミだ、消えろと言うことだけだ。
これを悲しいと言わずに何というべきか。
彼は、15時を過ぎて、動員した人たちが去っても、一人残って罵倒を続けた。
僕らが、要請団の動きの遅れに合わせて一時解散・休憩を呼びかけた時、「お前ら、帰るのか?無責任だぞ!」と怒っていた。
そして、再集合の時間に合わせて戻ってきて、一人罵倒を繰り返していた。
そして、「俺はいつも顔を晒している。何も怖くない。いつでもかかってこい」と言っていた。
妨害活動に集まった人々、そのひとりひとりを見れば、決して我々と変わるものではない。彼らもまた、何らかの抑圧を受け、何らかの救済を求めている。
その救済を、他者への否定と攻撃に求めること、それは不幸ではあるが、非常によく起こることでもある。
他者への否定と攻撃が、その人自体が否定されている状況から生まれること、それは、障害福祉に関わる僕らが誰よりも知っているはずだ。
何よりも、無視、それは人格の否定だということも。
あの場でどうにかできるわけではないのだが、
このままでよいわけでもないのだろう、そう思う。