夕べの新幹線で新潟へ行き、夕方、東京に戻ってきた。
「明日は土曜日なのだし、刺身と日本酒のうまい新潟で、夜は一杯やってくりゃいいじゃん。高い新幹線の料金払って、何をあわただしく?」
と言われりゃあ、それはもっともなのだが。
区民大学の「近代部落史×終わらない「差別」」を受講するためだ。
いや、正直、初回の講義は首を傾げたのだが、回を重ねるごとに内容は深くなる、と思っている。本当に受講して正解だった。
それに引き換え、だんだんと、一部の受講者のスタンスに不快感を覚えるのは隠せない。「研究者面」というか。まあ一応良識はあるのだろうが、自分の見識と講師の見解の違いを探して、それを主張することに時間を割こうとする。勘弁してほしい。
それはともかく。
障害福祉に関わる人たちも、差別の問題をきちんと理解する必要はあると考えている。
人権って、決して、どれかひとつの課題を知れば全面的に応用が利くような、簡単明快なものではないと考えている。
ひとつひとつの、ゆるがせにできない課題ときちんと向き合うことの中で、総合的に、少しずつ像ができてゆくもので、しかもそれは、人々の営為の積み上げである歴史とともに生成されていくもので、「教科書にこう書いてあるから、うん、知ってる知ってる」的なものじゃあないと考えている。
問題について知識があったからって、多少の論文を読んだからって、だめだってことは、先にあげた受講者に感じる不快感にも通じる。
苛立ちながら、じゃあ何で自分は苛立つのかな、と考える。
僕は、差別と闘うことが、今の自分の生きる証しだと考えているからなんだと思う。
なんじゃそれ、と言われるんだろうな。N本君とかに。
殺人と差別は、根源的な悪だ、と僕は考えている。
同時に、殺人と差別は、人が抑圧を抱えた時にそこに逃げ込み、常に欲することを歴史的に克服できないでいる課題だとも考えている。
差別という破壊の欲望から、具体的な人や社会を救い出すこと、その状況に、一歩でも二歩でも手をかけることができれば、それが生きがいなのだと考えている。
そんな人生観を、「サヨク」と言うなら、まあそれはご自由に、というところだ。
わかってくれとは言わないが。