「死」、或いは「死後」については、私たちのいわゆる「常識」は通用しません。
とりあえず、自分の物差しを一旦捨ててかんがえねばなりません。
この文は、死ぬ為の文ではない。
死を意識することで、より生を意識し、“生きるため”の文です。
そして、死の審議と、生きる幸せを一人でも多くの方と分かち合う為の文です。
又、結論を出す為の物でもない。私自身、死んだことは無いので分からない。
大切なのは意識し、考えることであって、この文をきっかけに、もしも全ての人が死について本気で考えたならば、ひょっとしたらいつか世界共通の答えがみつかるかもしれない。しかし何はともあれ考えなければ始まらない。
世界共通の答えは難しくとも、少なくとも、一人ひとりの中に答えが見つかる可能性はある。
出来れば、その一人ひとりと、分かち合いたい。
分かち合う。
普段はあまり意識することはないが、そもそも現代社会の我々は分かち合って生きている。
親兄弟や友人、夫婦、恋人、同僚など。
辛く悩んでる時や、不安事など、同じような境遇で共感し合える人と出会えたら最高だが、
そこまで言わずとも、ただ話すだけで救われたりする。そこに答えはなくとも。
もっと言うなら、一人ぼっちの人でも、メディアやインターネット等で分かち合っている。そんな些細な繫がりでも、救われたりする。運が良ければ、ほんの少し答えが見つかったりする時もある。
つまり、もっともっと分かち合えば、良いと思った。
この世の概念では、死後だけは誰も証明することのできない永遠の謎、そしてそれを語ること、提起することは宗教団体を除き一般的にはタブーとされている
死を口にする事は、まるでとんでもない非常識な事とされている。ネガティブと言われる。弱いと言われる。逃げてると言われる。頑張ってと言われる。そんなこと言わないで。そんなこと考えないで、と言われる。
誰が、死にたい、と言った?死について考えたい、と言ってるだけだ。
格差を超え、人種を超え、大袈裟に言えば人類全ての課題であり、そして最後に学ぶ人生最後の学習である。(一部の宗教的思想に心身を委ねている方は除き)
それを殆どの人は意識せず、触れないようにして生き続け、最後の最後でそれを迎える。
全く稽古をしないで舞台に立つようなものだ。全く練習をしないでリングに上がるようなものだ。
類まれなる天才ならいいが、大抵の人は練習しないと良い舞台は出来ない。良い試合も出来ない。ぶっつけ本番は極めてリスキーだ。さぞオロオロと戸惑うことだろう。
何事も、心の準備と、覚悟が必要だと思う。
先にも書いたように、幸か不幸か、我々は一人ではない。
先人から学んだ絶対に確かな事実が一つある。
それは、遅かれ早かれ、いつか誰もが間違いなく、“絶対”に死ぬという事実。
逆を想像してほしいのだが、もしも無人島か何処かで、産まれた時からたった一人ぼっちだとしたらどうだろう。
親もいない、学校も無い、誰もいない、つまり全て自身の経験のみで生きていく世界。
(今ある我々の価値観であまり厳密にシミュレーションすれば、赤子の段階で飢え死にという結論になってしまうが、そういう分析がしたくて例えた状況ではないので、そこは少し大雑把に考えてほしいのだが)
単純に、腹が減ったら何かを食べ、眠くなったら寝る、そんな本能に基づいた生活は繰り返されるが、
先代から引き継がれる教育や、又は、あらゆる周囲の事例(お手本)が無い為、全てが自身の経験のみで判断するしかない。
何故、この世に存在したか、そしてこの先どうなるのか。
当然最初は、死ぬ、という概念は無いだろう。しかし歳月による体力の低下は感じるかもしれない。その時に、ひょっとしたらこんな風に思うだろうか。「ひょっとして、このまま低下が進めばいつか体が動かなくなるかもしれない」
そう思いだしてからの彼の日々は不安で一杯だ。死ぬという概念も無いから、尚更不安かもしれない。
最初のうちは単純に、「体が動かなくなったら、どうやって食料を調達するのだ?」という不安から始まり、
次に、「食料が調達できなければ、腹が減ったままの状態で“これ”が続くのか」
ここで一つ、大切な事を説明する。
「食料が調達できなければ、腹が減ったままの状態で“これ”が続くのか」
ここで言う“これ”とは、我々の概念で言うなら“生きる”となるが、この彼には“生きている”という概念がない。
もう分かりますよね、「死」の概念が無いから、「生」の概念もないのです。つまり今が(生きている事が)当たり前であり、永遠に続く、と信じている状態。
「食料が調達できなければ、腹が減ったままの状態で“これ”が続く」
この状態は、いわば、ただただ生に執着し、死を意識せず、苦痛な中、ただただ生かされている状態を指す。
現代で例えるなら、もはや寝たきりで、薬と点滴で人工的に無理やり生かされている老人が、それでも生にしがみつき、死に怯え、不安と恐怖の日々を過ごしている状態と似ている。(極論)
賢明な方なら、既に何を言いたいかはお察しかと思うが、単純に結論から言えば、「死を意識することで、初めて生きている」となる。逆に意識しない事は、この例えの彼のように、「永遠に“これ”が続く」の中でいう、“これ”に過ぎない。
健康な内はそれでも良いかもしれない。現に私もそうやって生きてきた。
しかし、いつか、何かのきっかけで“不安”が必ず始まる。その時の恐怖は、あまりに不憫で出来れば想像したくない。全く意識してこなかった人が、直前になって突然意識などしたら、そのあまりの衝撃に大パニックになるだろう。
絶対事故は起きないと信じて走り続けてる車が、突然事故に遭うようなものだ。予め事故を想定して走っている車とは歴然たる差である。
稀に、不安になる暇も無く、全く意識せず死ねる人もいる。突然の事故や、意識の無い状態での突然死など。
ひょっとしたら、それが理想だ、と思う人が多いかもしれない。
私は嫌だ。何の心の準備もなく、いきなり普段着のまま好きな人とデートする気分だ。ま、冗談はさておき。
これについては長くなるので、前書きには相応しくない、また後にしよう。
話を戻す。
我々は、無人島の彼とは違う。親、兄弟、学校、友人、職場といった人との関わりの中であらゆる事を学び、あらゆる概念を植えつけられる。
そういった人間関係に縁遠い人でも、テレビ、ラジオ、新聞、現代ではインターネットといった、メディアや情報ツールで、やはりあらゆる事を学び、あらゆる概念を植えつけられる。
それにさえ縁遠い人でも、外に出れば他人がいる、すれ違う人々を見るだけでも、無人島の彼よりは遥かにあらゆる事を学び、あらゆる概念を植えつけられる。無意識の内に。
そんな中、絶対的に世界共通の事実が一つあり、それについては誰もが何らかの形で認識している(せざるを得ない)。
それが「死」である。
人間は、いつか“必ず”死ぬ。
無人島の彼は、腹を空かせ苦しみながら、一体自分はどうなるのだろう?と不安で一杯な中死んでいくに違いない。
だって、死の概念も生の概念もないのだから。まさに、一体どうなるのだろう?その一言に尽きる。
幸い、我々には、「いつか必ず死ぬ」という概念がある。なので、全く行き先が分からない、訳の分からないパニック状態の無人島君とは違う。
一応、どんな人でも、行き先は知っている。それがあって幸いだ。だって心の準備が出来るのだから。
最近、高齢化社会のおかげで、昔よりはほんの少しマシにはなった。「終活」なんて言葉が流行した、いかに死を迎えるか、を考え、受け入れ、事前準備をしたり、同じ意識をもつ仲間と分かち合う、主に高齢者の活動だ。
私から言わせれば、やっと気付いたか、という心境だ。上からで申し訳ないが。
昔は、ぎりぎりまで生にしがみつき、死なないつもりでいるから“飛ぶ鳥後を濁したまま”、死にたくない死にたくないと醜く叫びながら、最後の最後まで受け入れきれずに、もがき苦しんだ挙句死を迎える人間も多かっただろう。愚の骨頂だ。
それに比べたら、「終活」するようになった分100倍マシではあるが、しかし、それもほんの一部の人だ。
そしてその一部の人でさえ、ほんの入口に気付いたに過ぎない。
そして、その意識は、高齢になってから持つのではなく、今、直ぐに持つべきなのだ。
あなたが、本当に、本当の意味で“生きたい”のであれば。
とりあえず、私は高齢や病気になる前に、この考え方に気付く事が出来た。
むしろ、今が絶好調と思える人生のピークに気付く事が出来た。
本当に、幸せに思う。
事前にはっきり言っておきたいのは、私は宗教家ではない。何かを押し付けるつもりもないし、神を信じろとも言わない。
ただ、遅かれ早かれ必ずやってくる「死」という事実に怯え、なるべく考えないようにし、極力口にせず、忘れたふりして生きるのがおかしい、と思うだけなのだ。それは生きてる、とは言わない。
今の日本は、まさにそんな状態で生きている人が圧倒的に多いと思うから、この文を書いてみた。
そして私は、
ただ、出来るだけ多くの人と一緒に考え、そして、分かち合いたいのだ。
とりあえず、自分の物差しを一旦捨ててかんがえねばなりません。
この文は、死ぬ為の文ではない。
死を意識することで、より生を意識し、“生きるため”の文です。
そして、死の審議と、生きる幸せを一人でも多くの方と分かち合う為の文です。
又、結論を出す為の物でもない。私自身、死んだことは無いので分からない。
大切なのは意識し、考えることであって、この文をきっかけに、もしも全ての人が死について本気で考えたならば、ひょっとしたらいつか世界共通の答えがみつかるかもしれない。しかし何はともあれ考えなければ始まらない。
世界共通の答えは難しくとも、少なくとも、一人ひとりの中に答えが見つかる可能性はある。
出来れば、その一人ひとりと、分かち合いたい。
分かち合う。
普段はあまり意識することはないが、そもそも現代社会の我々は分かち合って生きている。
親兄弟や友人、夫婦、恋人、同僚など。
辛く悩んでる時や、不安事など、同じような境遇で共感し合える人と出会えたら最高だが、
そこまで言わずとも、ただ話すだけで救われたりする。そこに答えはなくとも。
もっと言うなら、一人ぼっちの人でも、メディアやインターネット等で分かち合っている。そんな些細な繫がりでも、救われたりする。運が良ければ、ほんの少し答えが見つかったりする時もある。
つまり、もっともっと分かち合えば、良いと思った。
この世の概念では、死後だけは誰も証明することのできない永遠の謎、そしてそれを語ること、提起することは宗教団体を除き一般的にはタブーとされている
死を口にする事は、まるでとんでもない非常識な事とされている。ネガティブと言われる。弱いと言われる。逃げてると言われる。頑張ってと言われる。そんなこと言わないで。そんなこと考えないで、と言われる。
誰が、死にたい、と言った?死について考えたい、と言ってるだけだ。
格差を超え、人種を超え、大袈裟に言えば人類全ての課題であり、そして最後に学ぶ人生最後の学習である。(一部の宗教的思想に心身を委ねている方は除き)
それを殆どの人は意識せず、触れないようにして生き続け、最後の最後でそれを迎える。
全く稽古をしないで舞台に立つようなものだ。全く練習をしないでリングに上がるようなものだ。
類まれなる天才ならいいが、大抵の人は練習しないと良い舞台は出来ない。良い試合も出来ない。ぶっつけ本番は極めてリスキーだ。さぞオロオロと戸惑うことだろう。
何事も、心の準備と、覚悟が必要だと思う。
先にも書いたように、幸か不幸か、我々は一人ではない。
先人から学んだ絶対に確かな事実が一つある。
それは、遅かれ早かれ、いつか誰もが間違いなく、“絶対”に死ぬという事実。
逆を想像してほしいのだが、もしも無人島か何処かで、産まれた時からたった一人ぼっちだとしたらどうだろう。
親もいない、学校も無い、誰もいない、つまり全て自身の経験のみで生きていく世界。
(今ある我々の価値観であまり厳密にシミュレーションすれば、赤子の段階で飢え死にという結論になってしまうが、そういう分析がしたくて例えた状況ではないので、そこは少し大雑把に考えてほしいのだが)
単純に、腹が減ったら何かを食べ、眠くなったら寝る、そんな本能に基づいた生活は繰り返されるが、
先代から引き継がれる教育や、又は、あらゆる周囲の事例(お手本)が無い為、全てが自身の経験のみで判断するしかない。
何故、この世に存在したか、そしてこの先どうなるのか。
当然最初は、死ぬ、という概念は無いだろう。しかし歳月による体力の低下は感じるかもしれない。その時に、ひょっとしたらこんな風に思うだろうか。「ひょっとして、このまま低下が進めばいつか体が動かなくなるかもしれない」
そう思いだしてからの彼の日々は不安で一杯だ。死ぬという概念も無いから、尚更不安かもしれない。
最初のうちは単純に、「体が動かなくなったら、どうやって食料を調達するのだ?」という不安から始まり、
次に、「食料が調達できなければ、腹が減ったままの状態で“これ”が続くのか」
ここで一つ、大切な事を説明する。
「食料が調達できなければ、腹が減ったままの状態で“これ”が続くのか」
ここで言う“これ”とは、我々の概念で言うなら“生きる”となるが、この彼には“生きている”という概念がない。
もう分かりますよね、「死」の概念が無いから、「生」の概念もないのです。つまり今が(生きている事が)当たり前であり、永遠に続く、と信じている状態。
「食料が調達できなければ、腹が減ったままの状態で“これ”が続く」
この状態は、いわば、ただただ生に執着し、死を意識せず、苦痛な中、ただただ生かされている状態を指す。
現代で例えるなら、もはや寝たきりで、薬と点滴で人工的に無理やり生かされている老人が、それでも生にしがみつき、死に怯え、不安と恐怖の日々を過ごしている状態と似ている。(極論)
賢明な方なら、既に何を言いたいかはお察しかと思うが、単純に結論から言えば、「死を意識することで、初めて生きている」となる。逆に意識しない事は、この例えの彼のように、「永遠に“これ”が続く」の中でいう、“これ”に過ぎない。
健康な内はそれでも良いかもしれない。現に私もそうやって生きてきた。
しかし、いつか、何かのきっかけで“不安”が必ず始まる。その時の恐怖は、あまりに不憫で出来れば想像したくない。全く意識してこなかった人が、直前になって突然意識などしたら、そのあまりの衝撃に大パニックになるだろう。
絶対事故は起きないと信じて走り続けてる車が、突然事故に遭うようなものだ。予め事故を想定して走っている車とは歴然たる差である。
稀に、不安になる暇も無く、全く意識せず死ねる人もいる。突然の事故や、意識の無い状態での突然死など。
ひょっとしたら、それが理想だ、と思う人が多いかもしれない。
私は嫌だ。何の心の準備もなく、いきなり普段着のまま好きな人とデートする気分だ。ま、冗談はさておき。
これについては長くなるので、前書きには相応しくない、また後にしよう。
話を戻す。
我々は、無人島の彼とは違う。親、兄弟、学校、友人、職場といった人との関わりの中であらゆる事を学び、あらゆる概念を植えつけられる。
そういった人間関係に縁遠い人でも、テレビ、ラジオ、新聞、現代ではインターネットといった、メディアや情報ツールで、やはりあらゆる事を学び、あらゆる概念を植えつけられる。
それにさえ縁遠い人でも、外に出れば他人がいる、すれ違う人々を見るだけでも、無人島の彼よりは遥かにあらゆる事を学び、あらゆる概念を植えつけられる。無意識の内に。
そんな中、絶対的に世界共通の事実が一つあり、それについては誰もが何らかの形で認識している(せざるを得ない)。
それが「死」である。
人間は、いつか“必ず”死ぬ。
無人島の彼は、腹を空かせ苦しみながら、一体自分はどうなるのだろう?と不安で一杯な中死んでいくに違いない。
だって、死の概念も生の概念もないのだから。まさに、一体どうなるのだろう?その一言に尽きる。
幸い、我々には、「いつか必ず死ぬ」という概念がある。なので、全く行き先が分からない、訳の分からないパニック状態の無人島君とは違う。
一応、どんな人でも、行き先は知っている。それがあって幸いだ。だって心の準備が出来るのだから。
最近、高齢化社会のおかげで、昔よりはほんの少しマシにはなった。「終活」なんて言葉が流行した、いかに死を迎えるか、を考え、受け入れ、事前準備をしたり、同じ意識をもつ仲間と分かち合う、主に高齢者の活動だ。
私から言わせれば、やっと気付いたか、という心境だ。上からで申し訳ないが。
昔は、ぎりぎりまで生にしがみつき、死なないつもりでいるから“飛ぶ鳥後を濁したまま”、死にたくない死にたくないと醜く叫びながら、最後の最後まで受け入れきれずに、もがき苦しんだ挙句死を迎える人間も多かっただろう。愚の骨頂だ。
それに比べたら、「終活」するようになった分100倍マシではあるが、しかし、それもほんの一部の人だ。
そしてその一部の人でさえ、ほんの入口に気付いたに過ぎない。
そして、その意識は、高齢になってから持つのではなく、今、直ぐに持つべきなのだ。
あなたが、本当に、本当の意味で“生きたい”のであれば。
とりあえず、私は高齢や病気になる前に、この考え方に気付く事が出来た。
むしろ、今が絶好調と思える人生のピークに気付く事が出来た。
本当に、幸せに思う。
事前にはっきり言っておきたいのは、私は宗教家ではない。何かを押し付けるつもりもないし、神を信じろとも言わない。
ただ、遅かれ早かれ必ずやってくる「死」という事実に怯え、なるべく考えないようにし、極力口にせず、忘れたふりして生きるのがおかしい、と思うだけなのだ。それは生きてる、とは言わない。
今の日本は、まさにそんな状態で生きている人が圧倒的に多いと思うから、この文を書いてみた。
そして私は、
ただ、出来るだけ多くの人と一緒に考え、そして、分かち合いたいのだ。