正確には、殺す(殺してあげる)ことは罰ではない。
死とは、誰もがいつか必ず経験せねばならない過程であって、それを「罰」とは何事だ。
ならば、全ての人間が、いつかは「罰」を受ける、という解釈にもなるではないか。
殺人罪が死刑だとして、
ならば不幸にも殺された人までが、「罰」を受けたというのか?
先に結論を言う。
重罪の人間に死ぬ権利は無い。ましてや殺して頂く権利など論外だ。
生涯かけて“生かされねばならない”。生きるのではない、“生かされる”のだ。“生かされねば”ならないのだ。
いきつくところは結局いつも同じで恐縮だが、やはり世の中の多くは“死なないつもりで生きてる”から、そのような発想になるのだろう。
私の母は50で死に、親友は35で死に、妹は0才で死んだ、母や親友はともかく、0才で死んだ妹は罰を受けたというのか?
ほんの短い時間で突然の死を受け入れざるをえなかった、1984年の日航機の方々、
思い出すだけでいまだに涙が出てしまう、むごい仕打ちを受け殺された1988年の女子高生、
短い人生の最後に、この世に無い恐怖を味わった、2001年の池田小の子供たち、
皆、罰を受けたとでも言うのか?
そんなわけないでしょう・・・・
又は、同じ死でも、この死とあの死は違います、とでも?
被害者の遺族の心中を思えば、胸が張り裂けんばかり、
どれだけの深い悲しみと、どれだけのやり場のない怒りに震えただろう
それでも、残された人間は、どうにか心に折り合いをつけて、生きていかねばならない
天国に迎えられた、そう思いたいだろう。そう思う(願う)しかない。
この世の概念での、早死にはただただお気の毒、つまり不幸のような言い方をされるが、
本来、この世での長い修行を全うせねば逝けない所を、短い時間で修行を終えたからこそ、神様が特別に、一足早く天国に呼んでくれたのだ、そう思いたい筈だ。
そん神聖な場所に、最も憎い犯人に、すぐに後を追わせるのか。
しかも、一瞬の苦しみで確実に逝けるようお膳立てして。まるで安楽死ではないか。
この世で余程の生き地獄を味わってる人にさえ安楽死を認めないくせに、世にも恐ろしい犯罪者に認めるなんて、、正気の沙汰でない。
皆様はどう思いますか?
例えば、死後の世界に天国と地獄があって、悪人は地獄へ行くから殺せば良い、と思いますか?
ではもしも、死後の世界が無ければどう思いますか?
仮に死後の世界があったとしても、地獄だけが無ければどう思いますか?
そんな不確定要素が満載の死後の世界に罪を託すなんて、リスク高すぎませんか?
私はこう思う。仮にあの世があるとして、天国や地獄というのは、客観的に決められるのではないと思う。たとえば閻魔様のような裁判官がいて、「はい君は地獄へ行け」ということではない気がする。
閻魔様に全てを委ねるのはおかしい。
人生は、長生きが全てではない。大切なのはどう生きたか、だ。
当然別れは悲しいが、死そのものは、その人の卒業であり、次へのステップなのだ。つまり最終的にはおめでとう、だと思う。
そういう意味では、死を、ただただ悲しく不幸なものとは思いたくない。
逆に、この世でいうところの、死刑に値する重罪人は、永遠に卒業など訪れない。訪れてはならない、という事になる。
人が、人を裁く、そのやり方でこれからも続けるならば、
折角の、その人工的システムを、もっと正しく使ってもらいたい。
“意識”
死を意識するのも“意識”
生を意識するのも“意識”
喜びを認識するのも“意識”
不幸を認識するのも“意識”
なので、“意識”は殺してはならない
何度も言うように、死、そのものより、
皆が恐れるのは“死に方”
その“死に方”(殺され方)に対して、
自己中心的に残虐な行為した、と認められた者に、罪と罰が科せられる。
珍しく、ちょっとした結論を反感覚悟で書こう
死刑の代わりに、
意識を殺さず、被害者と同じ死に方(死ぬ間際の意識・恐怖)をまず体感して頂かなくてはならない。
そして、その行為が二度と出来ないよう、それを行った箇所を切除して頂きたい。
その上で、生かして頂きたい、決して自殺など出来ぬよう、折角のシステムを駆使して頂きたい。
そこに経費がかかるなら、喜んで税金を払おう。(初めて喜んで払う気になった)
絶望と後悔と反省の日々と、死にそうで死ねない恐怖と苦しみを、命が尽きるまで全うして頂きたい。精神が狂いそうになっても、折角の最新システムを使って、決して意識だけは殺さないようにして頂きたい。出来れば、命が尽きそうになっても、1年でも長く延命して頂きたい。
つまり、閻魔様などあてにせず、この世でしっかりと生き地獄を味わって頂く。
つまりは死刑の真逆だ。
生かすのだ。
どうですか?死刑より恐ろしいでしょう?これはきっと抑止にも繋がる、二次的効果だ。
1988年、女子高生にあんなむごい殺し方をした犯人には、両手と局部を切除した上で、死なない程度に女子高生と同じ恐怖を味合わせねばならない、少なくともその遺族が生きている限り。
それなのに、今もどこかで普通に生きているだなんて。反吐がでそうだ。
抑止どころの騒ぎじゃない、未成年なら何をやっても許されると大々的に宣伝しただけだ。
死刑から論点がずれてしまったか。
我ながら矛盾だらけだが、同じくらいこの世も矛盾だらけだ。
死とは、誰もがいつか必ず経験せねばならない過程であって、それを「罰」とは何事だ。
ならば、全ての人間が、いつかは「罰」を受ける、という解釈にもなるではないか。
殺人罪が死刑だとして、
ならば不幸にも殺された人までが、「罰」を受けたというのか?
先に結論を言う。
重罪の人間に死ぬ権利は無い。ましてや殺して頂く権利など論外だ。
生涯かけて“生かされねばならない”。生きるのではない、“生かされる”のだ。“生かされねば”ならないのだ。
いきつくところは結局いつも同じで恐縮だが、やはり世の中の多くは“死なないつもりで生きてる”から、そのような発想になるのだろう。
私の母は50で死に、親友は35で死に、妹は0才で死んだ、母や親友はともかく、0才で死んだ妹は罰を受けたというのか?
ほんの短い時間で突然の死を受け入れざるをえなかった、1984年の日航機の方々、
思い出すだけでいまだに涙が出てしまう、むごい仕打ちを受け殺された1988年の女子高生、
短い人生の最後に、この世に無い恐怖を味わった、2001年の池田小の子供たち、
皆、罰を受けたとでも言うのか?
そんなわけないでしょう・・・・
又は、同じ死でも、この死とあの死は違います、とでも?
被害者の遺族の心中を思えば、胸が張り裂けんばかり、
どれだけの深い悲しみと、どれだけのやり場のない怒りに震えただろう
それでも、残された人間は、どうにか心に折り合いをつけて、生きていかねばならない
天国に迎えられた、そう思いたいだろう。そう思う(願う)しかない。
この世の概念での、早死にはただただお気の毒、つまり不幸のような言い方をされるが、
本来、この世での長い修行を全うせねば逝けない所を、短い時間で修行を終えたからこそ、神様が特別に、一足早く天国に呼んでくれたのだ、そう思いたい筈だ。
そん神聖な場所に、最も憎い犯人に、すぐに後を追わせるのか。
しかも、一瞬の苦しみで確実に逝けるようお膳立てして。まるで安楽死ではないか。
この世で余程の生き地獄を味わってる人にさえ安楽死を認めないくせに、世にも恐ろしい犯罪者に認めるなんて、、正気の沙汰でない。
皆様はどう思いますか?
例えば、死後の世界に天国と地獄があって、悪人は地獄へ行くから殺せば良い、と思いますか?
ではもしも、死後の世界が無ければどう思いますか?
仮に死後の世界があったとしても、地獄だけが無ければどう思いますか?
そんな不確定要素が満載の死後の世界に罪を託すなんて、リスク高すぎませんか?
私はこう思う。仮にあの世があるとして、天国や地獄というのは、客観的に決められるのではないと思う。たとえば閻魔様のような裁判官がいて、「はい君は地獄へ行け」ということではない気がする。
閻魔様に全てを委ねるのはおかしい。
人生は、長生きが全てではない。大切なのはどう生きたか、だ。
当然別れは悲しいが、死そのものは、その人の卒業であり、次へのステップなのだ。つまり最終的にはおめでとう、だと思う。
そういう意味では、死を、ただただ悲しく不幸なものとは思いたくない。
逆に、この世でいうところの、死刑に値する重罪人は、永遠に卒業など訪れない。訪れてはならない、という事になる。
人が、人を裁く、そのやり方でこれからも続けるならば、
折角の、その人工的システムを、もっと正しく使ってもらいたい。
“意識”
死を意識するのも“意識”
生を意識するのも“意識”
喜びを認識するのも“意識”
不幸を認識するのも“意識”
なので、“意識”は殺してはならない
何度も言うように、死、そのものより、
皆が恐れるのは“死に方”
その“死に方”(殺され方)に対して、
自己中心的に残虐な行為した、と認められた者に、罪と罰が科せられる。
珍しく、ちょっとした結論を反感覚悟で書こう
死刑の代わりに、
意識を殺さず、被害者と同じ死に方(死ぬ間際の意識・恐怖)をまず体感して頂かなくてはならない。
そして、その行為が二度と出来ないよう、それを行った箇所を切除して頂きたい。
その上で、生かして頂きたい、決して自殺など出来ぬよう、折角のシステムを駆使して頂きたい。
そこに経費がかかるなら、喜んで税金を払おう。(初めて喜んで払う気になった)
絶望と後悔と反省の日々と、死にそうで死ねない恐怖と苦しみを、命が尽きるまで全うして頂きたい。精神が狂いそうになっても、折角の最新システムを使って、決して意識だけは殺さないようにして頂きたい。出来れば、命が尽きそうになっても、1年でも長く延命して頂きたい。
つまり、閻魔様などあてにせず、この世でしっかりと生き地獄を味わって頂く。
つまりは死刑の真逆だ。
生かすのだ。
どうですか?死刑より恐ろしいでしょう?これはきっと抑止にも繋がる、二次的効果だ。
1988年、女子高生にあんなむごい殺し方をした犯人には、両手と局部を切除した上で、死なない程度に女子高生と同じ恐怖を味合わせねばならない、少なくともその遺族が生きている限り。
それなのに、今もどこかで普通に生きているだなんて。反吐がでそうだ。
抑止どころの騒ぎじゃない、未成年なら何をやっても許されると大々的に宣伝しただけだ。
死刑から論点がずれてしまったか。
我ながら矛盾だらけだが、同じくらいこの世も矛盾だらけだ。