城と歴史歩きを楽しむ

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穴ヶ谷城 遠江 その1 茶畑で一部改変されたが残された遺構が意外に多い

2024-12-14 | 歴史

穴ヶ谷城は静岡市牧之原市中字穴ヶ谷にあります。文明年間に勝間田十郎政次の城だったが廃城となったとされてきましたが、近年の研究で天正期の武田・徳川の争いの中で改修を受けた可能性が考えられるようです。遠江の山城は近年の茶畑の開発によってその遺構の多くが失われてしまいましたが、穴ヶ谷城も茶畑の開発が行われている為、あまり期待せずに見学に出かけましたが、意外に多くの城郭遺構が明確に残されていました。今回の参考資料は(1)『静岡県の城跡 西部・遠江国版」静岡県の城跡編集委員会2022  (2)『静岡県の中世城館跡』静岡県教育委員会 1978  (3)VIRTUAL SHIZUOKA 静岡県 中・西部 点群データ  (4)ひなたGIS 静岡県CS立体図 などです。

穴ヶ谷城 長興寺は勝間田十郎政次が開基とされる
 東名高速道路が城域の北側通を通っているが穴ヶ谷城の遺構にはほとんど影響を与えていないようでした。

穴ヶ谷城 見学は山下の小仁田薬師堂からの道を登る
 城域の南東山麓の薬師瑠璃光如来が祀られる小仁田薬師堂の駐車場に車を停めて城址に登りました。

穴ヶ谷城 道aは茶畑への道として使われていた道か
 見学は道aを登りました。山上の茶畑が稼働していた時に使われていた道と思われ、軽トラならば通れただあろうと思われました。

穴ヶ谷城 道aに繁茂するコセンダングサ
 山上の城址を造成して開発された茶畑は、道aを軽トラで登って利用されていたようですが、茶畑が放棄されて道aは使われなくなり、ひっつき虫のコセンダングサがふさいでいる場所が多く、季節を選んでの見学がおすすめですね。・・取るのが大変

穴ヶ谷城 道a 歩きやすい道の部分もある
 コセンダングサと戦う道もありましたが歩きやすい道もありました。往時の城道は不明でした。

穴ヶ谷城 道aを登り切った尾根道から城域になる
 尾根道にはFとGの堀切と土塁Hが設けられ、曲輪②への侵入に備えていたようですが、軽トラの道aを確保するために堀切は一部が埋められ、土塁Hは開削されたようです。


穴ヶ谷城 点群データによる地形と赤色立体図による地形
 立体図も参考にしながら見学しましたが、図4と5を比較してみると、地形表現に得手不得手があるようで、図3の堀切Eなどでは大きな差が見られます。

穴ヶ谷城 道aの両サイドに残る堀切Fと奥に馬出③ 東から
 資料(1)では、元は堀切Fと堀切Gの間には馬出のスペース③が設けられていたのが、道aによって改変されたとされます。資料(2)には先行する関口宏行氏の「穴ヶ谷城見取図」が掲載されていますが、それによると尾根上の二条の堀切の間に馬出状の平場が描かれていました。

穴ヶ谷城 道a 右に土塁H 東から 見どころです!
 土塁Hは道aによって広く開削されたように見えましたが、往時は狭い虎口が設けられていたように思います。残存部分でも高さが2m近くありますので、堀切群と併せて東尾根からの侵入への備えは厳重だったと思われます。なお、関口宏行氏の「穴ヶ谷城見取図」によると、曲輪②の四周は土塁で囲まれていたように描かれていました。

穴ヶ谷城 手前に堀切Gと奥に馬出③ 右に道a 西から
 馬出③の60%程は道aによって削り取られたように見えました。現況からは、残念ながら馬出の原形は確認できませんでした。

穴ヶ谷城 竪堀4 南上から
 尾根筋からの侵入をずいぶん警戒していたようで、何条もの堀切や竪堀を設けていました。竪堀4もその内の一つだったようですね。

穴ヶ谷城 竪堀L 折れを伴った竪堀 南西上から
 城域東側からの侵入への備えは、とても厳重で、この折れて下る竪堀Lは自然地形を活かしていました。

穴ヶ谷城 曲輪② 南東隅の路a左に残欠土塁J? 東から
 土塁Jは残欠土塁か道aの工事で出来た低い土塁状の地形なのかは確認できませんでしたが、残欠土塁の可能性があるかもしれないと想像してみました。

穴ヶ谷城 大堀切E 南東から 左上に曲輪② 見どころです ※人物と比較
 大堀切Eは曲輪②の北東尾根を断ち切る堀切で、曲輪②と堀底の高低差と急な切岸が見どころでした。
その1では見学路周辺と城域東部を見学しましたが、その2では残された西側の遺構を見学したいと思います。