北廻城は三重県桑名市下深谷部にあります。北廻は「きたはざま」と読むようです。築城は近藤家隆とされ、後に滝川一益に攻められたときに籠城し、水が無いため白米を水の如く見せたので白米城ともいわれましたが、地下からトンネルを掘られて入城されて降伏したと伝わります(諸説あり)。今回の参考資料は (1)「三重の中世城館」三重県教育委員会1976 (2)「再発見 北伊勢国の城」伊藤徳也著2008 などです。北廻城の」北側には近藤氏の家臣だった玉井氏の三砂城がありましたが、北廻城が降伏した頃に落城したとされます。※三砂城は→こちら
北廻城 養老鉄道の敷設工事で城域東側の遺構が削られた可能性あり
城は西から延びる尾根がT字型に東西に分かれた尾根上に設けられていました。城道は明確ではないようなので、南の西林寺の墓地から登りました。
北廻城 東から見た現況の城域全体 3Dモデル
資料(1)によると「四方屏風立てであって、わずかに一本の道が通じるだけであった(桑名志)」とされ、近藤家は西林寺を建て、現在まで続いていると記されていました。上図のAからBの尾根上に遺構が残ることから往時の姿を想像すると、切り立った尾根が敵を寄せ付けなかったことに納得です。「一本の道」は今の西林寺からの道があったのではなかったかと想像してみましたがどうでしょう。
北廻城 尾根a上に A,B,Cの3地区の遺構が残る
資料(2)によると、メインの遺構はA地区と思われ、その最高所のⅠが主郭と考えられます。
北廻城 西林寺の裏山が城域 墓地脇から登る
西林寺と墓地の間を抜けて見学に入りました。明確なルートは見当たりませんでしたので、適当にB 地区の遺構を目指して登りました。
北廻城 尾根a 南端部のB地区
尾根aの南端部には平場遺構があり土塁⑤で南からの侵入に備えていました。
北廻城 B地区 土塁⑤ 南から
B地区の土塁⑤は輪郭が少し不鮮明でしたが遺構の確認はしっかりできました。
北廻城 C地区 西尾根⑥と尾根aを断ち切る大堀切⑦
A地区とB地区は尾根道で連絡していたように見え、大堀切⑦で西尾根⑥からの侵入を防いでいたようでした。
北廻城 西尾根東端部⑥ 西から 奥に大堀切⑦
一見したところ西尾根の東端部は写真の土塁状地形⑥と右下の平場で形作られている城郭遺構のように見えましたが、資料(2)の解説から考えると、城郭遺構ではなさそうですね。
北廻城 西尾根と尾根aを遮断する大堀切⑦ 見どころです!
資料(2)の解説で大堀切⑦の役割は西尾根からの侵入に備えて、尾根aとの間を遮断するための堀切とわかりました。非常に鮮明に残っていましたのでヒョットすると後世には切通道として利用されていたのではないかと思いました。
北廻城 最高所のⅠ郭があるA地区
A地区には最高所のⅠ郭がありました。Ⅱ郭の東側は養老鉄道の敷設工事で削られたましたが、資料(2)によると、どの程度に遺構が失われたかは不明とのことでした。
北廻城 A地区 Ⅰ郭 南の堀切③ 東から
尾根aを進むとⅠ郭の南側に堀切③が設けられていました。写真のように、堀切の深さはあまりないのですが、この堀切によってⅠ郭側に堅固な切岸を造り出しているようでした。
北廻城 A地区 Ⅰ郭 南部① 北から
Ⅰ郭の南部①は尾根aの続きのよう地形で、写真のような細い平場になっていました。あまり加工されていないように見えますね。
北廻城 A地区 最高所のⅠ郭
Ⅰ郭の中心部は北廻城の最高所でした。樹木が無ければ180度が見渡せた揖斐川、長良川、木曽川を越えて尾張も見えたのではないかと想像しました。
北廻城 A地区 竪土塁② 南上から
Ⅰ郭の北側の小尾根には竪土塁②が設けられていました。東側から西側への侵入を防ぐ役割だったのではないでしょうか。
北廻城 A地区東端部④から 南を見る
往時は木曽三川は乱流していて、自然堤防上に集落が散在していたと思われますが、3.5㎞先の長島城などもここから見えたのではないかと思いました。
北廻城は近藤氏が降伏し、後に山下に西林寺を建立したと伝わりますので、近藤氏が土着したのでしょうか。そのためかもしれませんが、北廻城や近藤氏にまつわる伝承に諸説が生まれたようです。