高蔵(たかぞう)城は愛知県豊田市旭八幡町にあります。城主は松井内蔵助とされます。
東から伸びる尾根が介木川で削られた尾根の先端部に所在し、尾根の根本を通っていた往時の街道を扼する位置にありました。高蔵城の南約800mには槙本城があり、元亀二年(1571)の武田軍の三河侵攻の際に槙本城とともに落城したと伝わります。今回の資料は (1)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994です。
※ 槙本城 その1→こちら 槙本城 その2 →こちら
高蔵城 往時の足助から小渡に抜ける主要な道は川沿いにはなく尾根を通っていた
往時の道と現在の道はかなり変わっているようで、明治26年の旧地図を見ると、歩く道は一旦尾根に登り切通しを通っていたようです。現在は尾根先端部削って介木川沿いに車の道が敷設されています。
なお、高蔵の往時の集落は城域北側にありました。
高蔵城 曲輪は山畑として利用されⅢ郭には堂宇の建物があった。一部は墓地として今も利用されている
資料でも述べられていますが、曲輪は畑地として利用されていたようで、国土地理院Webで戦後の空中写真を見てもその様子を伺うことが出来ました。Ⅲ郭は堂宇が建っていたらしく、空中写真では樹木で覆われていました。道aは古くからの道で車の道が開通するまで主要な道だったようです。峠の切通Cは掘切の役割も果たしていたように見えました。
※図2 ⑪、⑫付近には複数の平場がありましたが、城郭遺構か耕作地かの判別は困難でした。
10年前にも訪れていますが、そのときは図2のb の橋を渡って見学ました。今回の道aでの見学の方が全体像の把握はしやすいように感じました。
※バス停のある道路余白の隅に車を停めました。駐車は自己責任で!
高蔵城 道a 道路からの入口 入口付近は雑草に覆われている
近年まで使われていたようで、道aはしっかり残っていましたが道路からの入口付近だけは雑草で覆われていました。
高蔵城 道aを進む 右下の谷は奥まで田地で利用されていた 左上に城域
道aは今もしっかり残っていました。北側から切通Cへ登ってくる道は城道を兼ねていたかもしれませんね。
高蔵城 切通Cは東尾根を断ち切る掘切も兼ねていたかもしれない
切通C付近は後世の墓地、堂宇建設等によって改変があったようで、往時の姿がどこまで残っているかハッキリしませんでした。右手はきれいに削平され墓石が一基立っていました。耕作地として利用していたのかもしれないと想像しました。
高蔵城 切通Cの西側 の土橋状地形⑨ 両側には掘切地形⑧がある 奥上にⅢ郭
土橋状地形は、Ⅲ郭の堂宇への道として後世の改変があったように思いました。掘切地形⑧は繋がっていて、Ⅲ郭の東側の守りの役割があったのではないかと思いました。なお掘切地形⑧の中にお墓が在りました。
高蔵城 Ⅲ郭に残るスレート瓦⑩ Ⅱ郭への道がある
資料にもありますが、Ⅲ郭には堂宇が建っていたと思われ、スレート瓦が2ヶ所に山積みされていました。
スレート瓦ということは、案外新しい年代の建物だったのでしょうね。
Ⅲ郭からⅡ郭へ登る道が有りましたが、山畑への農道だった時期があった可能性がありますので、城道とは断定できないようでした。
高蔵城 Ⅱ郭南下の帯曲輪② 東から 右手にⅡ郭の切岸
Ⅱ郭の南側の下には切岸を削り出すためと思われる帯曲輪がありました。Ⅱ郭には土塁が見当たりませんでしたが、山畑として利用した時に失われたのかもしれません。ただしこの切岸の角度と高さを見ると土塁は必要なかったかもしれませんね。
高蔵城 掘切B 奥にⅠ郭 南東から
掘切Bの現況は、浅いのですが、ある程度埋まったように見えました。ヒョットするとⅡ郭の西辺またはⅠ郭東辺には土塁があったが耕作地化のときに堀切側に崩したのではないかと勝手な想像をしてみましたがどうでしょう。
高蔵城 Ⅰ郭 西から 山畑の跡は植林された 土塁はない
資料ではⅠ郭を主郭としています。面積はⅡ郭の方が大きく、高度もほぼ同じなので、独立性の高いⅡ郭が主郭だった可能性もありそうに思いました。
高蔵城 Ⅰ郭西側の切岸 平場①南から 見応えあり
この切岸も高さといい角度といい見事で見どころの一つでした。平場①は西側の道路工事で大きく削り取られてしまいましたので、往時はかなり広い面積の腰曲輪があったのではないかと思いました。
高蔵城 掘切A 現在は尾根を断ち切る掘切のようだ
掘切Aの西側も道路工事で大きく削り取られているので、原形は不明ですが、横堀状に西から北に伸びていた可能性もありますね。
高蔵城は後世の改変があるものの、コンパクトなのに遺構の数が多く遺構の残りもかなり良好で見どころが多数ありました。図2で描いた遺構の一部しか紹介できませんでしたが、実に興味深い遺構が多くて大いに楽しむことが出来よかったです。