城と歴史歩きを楽しむ

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鬼場城 信濃 何条もの大堀切が見どころ 上原城との関連は

2025-01-26 | 歴史

鬼場城は長野県茅野市にあります。築城年代、築城者は不明のようですが、諏訪の雄族 諏訪氏の支族矢ヶ崎氏との関連が考えられるようで、矢ヶ崎氏の上原城とは山道での連絡が容易だったとされます。今回の参考資料は(1)「信濃の山城と館 6」宮坂武男著2013 (2)長野県立歴史館所蔵 「宮坂武男城郭鳥瞰図」 などです。※宮坂武男氏の鬼場城鳥瞰図は長野県立歴史館のホームページで見ることが出来ます。

鬼場城 直下を大門街道が通る
 資料(1)によれば、武田氏の諏訪進出により、鬼場城は武田氏によって齢松山城とともに大きく改修され大門街道などの多数の街道の結節点を見下ろす重要な拠点となっていたとされ、狼煙の中継点でもあったようです。※今回の見学では、城山団地の城山区公民館に車を止め、城域北部から入りました。※齢松山城は→こちら
    
鬼場城 城域東側の山麓は192号線、299号線の工事によって改変されている
 道dは、山神社の参道でもあったようですが、道路工事によって失われ、道bが設けられているようでした。D地点付近には堀切があったようですが、道路工事でほぼ失われました。見学はA地点から入りましたが尾根道hが上原城方面に連絡していたのでしょうね。

鬼場城 城山団地からの入口 西から
 城山団地からA地点への道は明瞭でした。

鬼場城 地点A 食い違いの切岸 北西から
 A地点からB地点の間は資料によると耕作地だったとされますが、A地点に食い違いの切岸が残りますので、ここまでが城域だったと考えられるようです。

鬼場城 道aは途中の段差gを登る 北西から
 地点Aからの道aは途中の段差gを登ります。この辺りは耕作地化されたようですが、段差は往時の地形の名残かもしれないと想像しましたがどうでしょう。

鬼場城 虎口B 道aは二度折れて平場⑤へ登る 北西下から
 A地点からの道aは途中の段差gを経て虎口Bに達していました。虎口Bは、二度折れながら堀切④を通り平場⑤に入っていました。

鬼場城 堀切④ 北東から 見どころです!
 堀切④はもともとあまり深くはなかったようですが、尾根を断ち切って両側に竪堀状に落ちる長い堀切で見どころでした。掘り切った土は外側に土塁状に掘り上げたようでした。

鬼場城 E地点 南上から
 E地点は斜面を何段にも削平したいわゆる段築地形が続いていました。尾根を挟んだ平場⑤の南側のC地区は南面で日当たりが良い為か、ブッシュが密集していて、地形の観察が困難でした。

鬼場城 平場⑤から⑥への折れのある道 間に堀切③ 北西から
 虎口BからⅠ郭までに3条の堀切が設けられ北西尾根からの侵入への備えは厳重でした。堀切③を渡る道は原則通り折れを伴っていました。

鬼場城 堀切①の北側 南上から
 堀切①と②はほぼ同一規模の堀切でした。両方とも堀切の両サイドは竪堀となって切落ちる規模の大きなものでした。堀切をこれほど何重にも設けてある山城は珍しいですね。

鬼場城 Ⅰ郭(主郭) 東から 西辺土塁は幅広で高い
 Ⅰ郭は城域の大きさに比較して小ぶりなものですが、周囲を土塁に囲まれ、東辺には虎口が開いていました。東辺の土塁は幅広で高く、櫓台だったとされます。

鬼場城 Ⅰ郭東辺の虎口 西から 奥にⅡ郭の鉄塔
 Ⅰ郭の東辺土塁には開口部があり虎口だったと思われます。虎口から出ると小さな虎口受けの平場がありその下に鉄塔が建つⅡ郭がありました。

鬼場城 Ⅱ郭 鉄塔が建つ 南から 写真の鉄塔左側に空堀があったか
 Ⅱ郭の西辺の両サイドには竪堀⑧がありました。資料(1)では「Ⅱ郭の平場にも空堀が竪堀に連続していたと思われる」との見解が示されていましたが、空堀は鉄塔工事で埋められたのではないかと思いました。

鬼場城 Ⅰ郭東下の帯曲輪⑩ 北から
 鬼場城の東側斜面には東側山下の街道に備えた何段もの帯曲輪が設けられていました。日当たりが良く笹が元気よく育って地形が隠れて見にくい状態でした。

鬼場城 帯曲輪② 北の井戸地形⑨ 東から
 井戸地形⑨は笹が繁茂していますので、資料で確認しないと見落としてしまいそうでした。 

鬼場城 Ⅰ郭南下の堀切と土塁⑦ 西から 右に土塁
 Ⅰ郭の南側の侵入に備えた堀切と土塁⑦がありました。こちらもブッシュやササが繁茂しスッキリしませんが南下の街道からの侵入に備えたものかと思いました。

鬼場城 山神社の鳥居と石祠 
 図1の道bを登ってくると、山神社の小ぶりな鳥居と小さな石祠が祀られていました。城としての機能が失われた後に神社が祀られ、道dが参道として利用されていたのではないかと想像しました。

鬼場城 地点D付近の休憩所
 192号線、299号線の道路工事で地点Dあたりまで切り崩されたため、この付近にあった堀切などが失われたようでした。道bは道dの代替として用いられていて、城址を通るハイク道としても利用されているようでした。

鬼場城は山下の街道やその結節点を監視し、のろし台の役割も担っていたというのもうなずける城郭で、ヤブ漕ぎは多かったですが。小規模なⅠ郭(主郭)に対して何条もの規模の大きな堀切や、何段もの腰曲輪などを楽しく見学出来てよかったです。