西平城は長野県飯田市山本にあります。中央高速 山本IC西側の浄玄寺で見学会のバスを降りて、ここから歩いて登ります。
西平城は小笠原氏が城主で、3km東にある久米ヶ城の支城として築かれたとされます。背後には高い山が連なり東に天竜川へ向けて下る地形で、ふもとを通る街道を抑える位置にあったとされます。
5月19日の東海古城研究会の見学会で、駒場城を午前中に訪れ昼食で腹ごしらえをして、浄玄寺から歩いて登り始めました。
好天で、午後も気温の上昇が続き、浄玄寺からの長い尾根道を歩いて城域にはいりました。
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国土地理院地図をカシミール3Dで加工・加筆
西平城 浄玄寺から城域までのアプローチは長いが、登りは緩やかで踏み固められた山道は歩きやすい
しばらく歩くと、堀切アの地点に到着し、ここからが西平城の城域とされます。
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西平城 主郭 西側の湾曲した 全長66mの土塁
主郭の南北と西側には土塁が残されています。往時の土塁の高さはわかりませんが、現在はコの字型の低い土塁となっていて虎口などの切れ目は見当たりません、西側の湾曲した土塁は長大で見ごたえがありました。主郭の内部は削平されていますが、東側中央部以外には遺構は確認されていないようです。
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西平城 主郭東側中央の凹地形 虎口? 寺社跡?
主郭の南北と西はコの字型土塁で囲まれていますが、東側には土塁がありません。東辺の中央部には虎口状の凹んだ地形がありましたが、石積が有り、ベテラン会員さんの見立てでは、石積は案外新しいものなので、後世に寺社の建物があった可能性があるとのことでした。
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確かに、主郭の東下の広い曲輪(腰曲輪)に向けて、寺社の階段があってもおかしくない角度、幅の地形が残されていました。
表面観察では石段などは見当たらないので、階段があったとは断定できませんが可能性はありそうでした。
もし、ここが虎口ではないとすると、西平城の主郭には城郭としての出入り口が見当たらないので、往時にはここに虎口があって虎口につながる道もあったが、寺社の造営時に今の形に改変された、ということも考えられるかもしれません。
いずれにしても、結論が出ない「謎」として残りました。
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西平城 主郭北西尾根の堀切
西平城は主郭を中心に 四方向の尾根にそれぞれ堀切が有り、合計16条の堀切を数えます。竪堀は堀切から竪堀に落ちるものも含めると10以上あり最長の横堀は全長130m、竪堀は100mを超え見ごたえ十分でした。
写真の堀切は土砂の堆積で埋まっているようで、往時は数m深かった可能性があるように見えました。
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西平城 全長が100mを超す竪堀 見ごたえ十分
西平城の主郭東側の斜面には腰郭とそれに続く細い曲輪、ひな壇状の地形が10段ほど続きます。東斜面の南サイドには100mを超す竪堀遺構が残されていました。
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西平城 東斜面最下段の横堀と土塁
見学会資料の縄張図によると、西平城の広い東斜面の最下段には、横堀と土塁が残されているとされます。確認のために最下段まで降りてみましたが、横堀は浅く、土塁も低く、土塁は途中で途切れている場所もありました。現場の儒教を見ると、最近も人が入っているように見え、山仕事の道のようにも見えました。
東斜面のひな壇状の地形は段の幅が狭く、城郭遺構かどうか、疑問がのこりました。ひょっとすると山仕事の足場としての地形か、往時のものとすれば、斜面の崩落防止の機能かもしれないなど、あれこれ想像しましたが、結論はでず「謎」として残りました。
西平城は本格的な山城で、この季節としては気温も高かったですが、次々に現れる見どころに、心を奪われていつの間にか主郭についてしまいました。 もう一度行きたい山城として記憶に残る城郭でした。
西平城は小笠原氏が城主で、3km東にある久米ヶ城の支城として築かれたとされます。背後には高い山が連なり東に天竜川へ向けて下る地形で、ふもとを通る街道を抑える位置にあったとされます。
5月19日の東海古城研究会の見学会で、駒場城を午前中に訪れ昼食で腹ごしらえをして、浄玄寺から歩いて登り始めました。
好天で、午後も気温の上昇が続き、浄玄寺からの長い尾根道を歩いて城域にはいりました。
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国土地理院地図をカシミール3Dで加工・加筆
西平城 浄玄寺から城域までのアプローチは長いが、登りは緩やかで踏み固められた山道は歩きやすい
しばらく歩くと、堀切アの地点に到着し、ここからが西平城の城域とされます。
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西平城 主郭 西側の湾曲した 全長66mの土塁
主郭の南北と西側には土塁が残されています。往時の土塁の高さはわかりませんが、現在はコの字型の低い土塁となっていて虎口などの切れ目は見当たりません、西側の湾曲した土塁は長大で見ごたえがありました。主郭の内部は削平されていますが、東側中央部以外には遺構は確認されていないようです。
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西平城 主郭東側中央の凹地形 虎口? 寺社跡?
主郭の南北と西はコの字型土塁で囲まれていますが、東側には土塁がありません。東辺の中央部には虎口状の凹んだ地形がありましたが、石積が有り、ベテラン会員さんの見立てでは、石積は案外新しいものなので、後世に寺社の建物があった可能性があるとのことでした。
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確かに、主郭の東下の広い曲輪(腰曲輪)に向けて、寺社の階段があってもおかしくない角度、幅の地形が残されていました。
表面観察では石段などは見当たらないので、階段があったとは断定できませんが可能性はありそうでした。
もし、ここが虎口ではないとすると、西平城の主郭には城郭としての出入り口が見当たらないので、往時にはここに虎口があって虎口につながる道もあったが、寺社の造営時に今の形に改変された、ということも考えられるかもしれません。
いずれにしても、結論が出ない「謎」として残りました。
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西平城 主郭北西尾根の堀切
西平城は主郭を中心に 四方向の尾根にそれぞれ堀切が有り、合計16条の堀切を数えます。竪堀は堀切から竪堀に落ちるものも含めると10以上あり最長の横堀は全長130m、竪堀は100mを超え見ごたえ十分でした。
写真の堀切は土砂の堆積で埋まっているようで、往時は数m深かった可能性があるように見えました。
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西平城 全長が100mを超す竪堀 見ごたえ十分
西平城の主郭東側の斜面には腰郭とそれに続く細い曲輪、ひな壇状の地形が10段ほど続きます。東斜面の南サイドには100mを超す竪堀遺構が残されていました。
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西平城 東斜面最下段の横堀と土塁
見学会資料の縄張図によると、西平城の広い東斜面の最下段には、横堀と土塁が残されているとされます。確認のために最下段まで降りてみましたが、横堀は浅く、土塁も低く、土塁は途中で途切れている場所もありました。現場の儒教を見ると、最近も人が入っているように見え、山仕事の道のようにも見えました。
東斜面のひな壇状の地形は段の幅が狭く、城郭遺構かどうか、疑問がのこりました。ひょっとすると山仕事の足場としての地形か、往時のものとすれば、斜面の崩落防止の機能かもしれないなど、あれこれ想像しましたが、結論はでず「謎」として残りました。
西平城は本格的な山城で、この季節としては気温も高かったですが、次々に現れる見どころに、心を奪われていつの間にか主郭についてしまいました。 もう一度行きたい山城として記憶に残る城郭でした。