旭山城は長野県長野市にあり長野市の市街地からも間近に見える海抜785mの旭山に所在しています。
旭山城は川中島の戦いで信玄と謙信の戦いが有った中で登場します。弘治元年(1555)信玄と謙信が犀川を挟んで200日に及んで対峙し、今川義元の仲裁で和睦した際に、旭山城は信玄方でした。周囲を謙信方に包囲されたが堅固に持ちこたえ、謙信の背後を脅かしたといわれます。
和睦後に城は破却されたと伝わりますが、後に謙信が再利用したとされるので、今見る姿は謙信が再整備した後のものと思われます。
旭山城の北 約2Kmに葛山城があり、ここも信玄と謙信が奪い合ったとされます。
標高610m 朝日山観音堂 長野市街からここまで車で登れる
朝日山観音堂までは一般道で登ることが出来、駐車スペースも十分ある。特別な行事でもない限り駐車に困ることはなさそうでした。
葛山城から旭山を見る。距離は約2Km
信玄と謙信双方が奪い合った旭山城と葛山城だが、谷を隔てて2Kmの至近距離だった。驚いたのは写真右の住宅地の開発が、こんな高いところまで迫っていることでした。
主郭の切岸には石垣の残骸が多数みられる
旭山城はかなりの部分に石垣が有ったようで、主郭の切岸には多数の崩落した石が見られました。
残存する石垣もある
旭山城は石垣の城とされ、ところどころに残存する石垣が見どころとなっています。
東側尾根の巨石群
主郭の東側の尾根には巨石がごろごろしていました。旭山城が石垣の城だった理由が判ったような気がしました。
東尾根を断ち切る大きな堀切 人物と比較
旭山城は、石垣だけでなく大きな堀切や竪堀などの遺構がシッカリ残っていて見どころの多い山城でした。
堀の幅や深さが後でわかるように、人物を一緒に写しています、目線の方向が主郭です。
旭山城は川中島の戦いで信玄と謙信の戦いが有った中で登場します。弘治元年(1555)信玄と謙信が犀川を挟んで200日に及んで対峙し、今川義元の仲裁で和睦した際に、旭山城は信玄方でした。周囲を謙信方に包囲されたが堅固に持ちこたえ、謙信の背後を脅かしたといわれます。
和睦後に城は破却されたと伝わりますが、後に謙信が再利用したとされるので、今見る姿は謙信が再整備した後のものと思われます。
旭山城の北 約2Kmに葛山城があり、ここも信玄と謙信が奪い合ったとされます。
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朝日山観音堂までは一般道で登ることが出来、駐車スペースも十分ある。特別な行事でもない限り駐車に困ることはなさそうでした。
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信玄と謙信双方が奪い合った旭山城と葛山城だが、谷を隔てて2Kmの至近距離だった。驚いたのは写真右の住宅地の開発が、こんな高いところまで迫っていることでした。
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旭山城はかなりの部分に石垣が有ったようで、主郭の切岸には多数の崩落した石が見られました。
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旭山城は石垣の城とされ、ところどころに残存する石垣が見どころとなっています。
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主郭の東側の尾根には巨石がごろごろしていました。旭山城が石垣の城だった理由が判ったような気がしました。
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旭山城は、石垣だけでなく大きな堀切や竪堀などの遺構がシッカリ残っていて見どころの多い山城でした。
堀の幅や深さが後でわかるように、人物を一緒に写しています、目線の方向が主郭です。