奥浜名湖の歴史をちょっと考えて見た

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橘逸勢伝説ー浜松市北区三ヶ日町

2023-01-05 18:35:33 | 郷土史
承和九年(842)天皇の皇位争いに敗れ、謀反の罪を着せられ伊豆に流罪となった従五位下・但馬権守橘逸勢は、八月途中遠江国板築駅において病死しました。かれに隠れるように付き添っていた娘はそれを知り、出家し尼妙沖(妙長)となり、その地に草庵を作り菩提を弔っていました。しかし、やがて許され嘉祥三年(850)京に改葬され、正五位下を追贈され、尼妙長(妙沖)は仁寿三年(853)遠江国に剰田七町を与えられます。さらにのちに逸勢は文徳天皇より従四位下に叙されます。斉衡元年(854)怨霊として御霊会の対象となります。(以上日本文徳天皇実録・続日本後紀)
 その妙沖の草案があった場所が三ヶ日町本坂の橘逸勢神社であり、板築駅がその1キロ弱東の日比沢だといいます。まず妙沖草庵については、逸勢遺骨改葬のおりその場所に銅鏡を埋めたという言い伝えと、その銅鏡が文化四年(1807)本坂庄屋竹平氏が発見したことによります。銅鏡云々が史実かどうかはわかりませんが、その後盗難にあい見つけ出されたものは古墳時代前期の銅鏡といいます。遣唐使であった逸勢、あるいはその娘妙沖が唐鏡でなく古墳時代前期の銅鏡を持っていたというのも解せません。三ヶ日町には逸勢埋葬の地はもうひとつあり、寛政風土記伝には只木の公家塚を比定地とします。これは地元の郷土史家高橋佑佶氏が否定していますが、それ自体は正しいのですが、ただし彼のいう南北朝期の石塔ではなく室町期十五世紀以降のものです。
 また、板築駅を頂上に板築神社のある板月山から、その麓日比沢に比定しますが、この板築神社はおそらく近世のもので、山の名前もそのころつけられたのでしょう。(証明はできます)現板築駅比定地の上の段丘端に「古道」の小字名がありますが、遺跡の存在から奈良・平安時代の本坂道古道は本坂八幡宮前を通り、北に降りて渓流を渡り、段丘沿いに東上したと考えられます。小字「古道」はその一部です。段丘は最上段が古墳分布地その下が住居地、最下段は日比沢川が現在より北の段丘よりを流れていて古代には安定していなかったでしょう。それに、江戸時代の本坂道が古代のものとは断定できません。峠の遺跡分布からは現峠より南の頭浅間神社に奈良・平安時代の痕跡(遺物)があり、ここから谷沿いに下ったのが古道とも考えられます。
 いずれにしても現橘逸勢神社の根拠は薄弱で、「大正末期ころひっそりと立っていた逸勢父子の遺跡」、つまり推定銅鏡出土地(三ヶ日町史上巻)から顕彰のため建立されたのです。
 『日本文徳天皇実録』には「逆旅」に終わる、つまりはたご(旅館)で死んだとあります。橘逸勢の遺跡はもうひとつ袋井市山梨があります。これは罪人が宿泊するのは駅家(郡衙)であることから、山名郡衙所在地の比定地であること、伝承が残ることから想定されたもので、これも根拠が不確かです。したがってこれに関する論争は答えの出ないまま続いていくでしょう。

ちなみに「板築」を「ほほづき」と読んだ例は寡聞にして知らない。普通「潮つき」で潮の干潮に影響を受けるような湿地に近い場所を指します。三ヶ日町の候補としては現釣か岡本・三ヶ日でしょう。