奥浜名湖の歴史をちょっと考えて見た

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

浜名氏ー浜松市北区三ヶ日町

2023-01-14 07:12:44 | 郷土史
浜名氏は中世浜名神戸(浜松市北区三ヶ日町)を苗字の地とする氏族です。
 この地に住み着いた年代は不明ですが、おそらく十一世紀後半に浜名神戸司が伊勢神宮により任命されたときに、その神戸支配のために現地に赴任した人々です。神戸司はときの神宮の最高位にいた大中臣氏の一族が任命されました。その大中臣氏の配下には内宮・外宮の祢宜の子息・親族や下級祠官・神人層などがいましたが、そうした家の子郎党らを連れて浜名神戸にやってきたと考えられます。姓は大中臣・荒木田・渡会のほか源・平などさまざまです。
 やがてかれらのうちに実力を蓄えて「預所」として伊勢神宮から任命されるものがでてきました。その後継が浜名氏です。もともと武力をもって神戸支配の実務を請け負っていたので、鎌倉時代には将軍源頼朝に臣従し、預所兼御家人となりました。御家人としては在鎌倉が多くなり、一族の者を代官に任命しました。
 鎌倉時代後半には、得宗被官人となりましたが、南北朝の動乱期にはいち早く足利氏に臣従し、功成った一族の何人かは関東に所領を得ました。浜名宗家は最初足利義詮の近習でしたので、義詮が鎌倉から京に移るとそれに従いましたが、一族中には鎌倉に残った者もいました。京の浜名氏は将軍近習でしたが、のち将軍の直属軍である奉公衆五番に編成されます。同時に幕府直轄地を宛がわれます。また同時代には浜名神戸地頭となり、京都のほかに自らも支配のため現地に屋敷を構え、代官に一族大屋氏を派遣しています。浜名宗家は戦国時代には今川氏被官となり、天文年間までその支配が確認できますが、今川氏真の時代には庶子家大屋氏が浜名氏を名乗り、佐久城を拠点に浜名を支配します。
 大屋氏は浜名氏一族でしたが、浜名神戸地頭代官となり、浜名支配を通じて成長していき、佐久城を築き東部地域を納めます。のち奉公衆二番に編成されるようになり、宗家が衰退した後には浜名の後藤氏領と一部を除き全体の支配者となります。大屋氏はその正嫡が浜名氏養子となり、浜名苗字を名乗るようになります。そして、徳川家康の遠州侵攻後日比沢後藤氏と共に家康に属すことを拒否し終に城を捨て逃走することになりました。

 浜名氏は有名な歌の家系で、とくに室町時代には連歌の当時有名な歌の上手の三人に挙げられています。また、浜名氏が歌人で武将の源頼政の裔とする説が定番となっていますが、これは戦国時代後期に「鵺」退治の伝説と「鵺代」という地名をリンクさせて生まれた説で、「贄代」が「鵺代」に変ってから生まれた説にすぎません。