奥浜名湖の歴史をちょっと考えて見た

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初生衣神社(1 )のⅰー創建と御衣祭、浜松市北区三ヶ日町

2023-01-16 21:31:08 | 郷土史
浜松市北区三ヶ日町岡本にある神社である初生衣神社は祭神天棚ばた姫命です。
 高橋祐吉著『浜名史論』が述べるように、当社伝承の由来は「殆ど不信のもので恐く室町末期から江戸期に於いて」偽作されたものです。しかし「本社の社歴はこの疑問の記録文書に記載せられてあるより以上にその創始年代は古くその由緒は深嚴なるものがあると考えられる」と続けて述べているように、土地にまつわる歴史は確かに古いのですが、初生衣神社としての歴史は結構新しいものと考えられます。
 この神社社殿のすぐ側の字楠木遺跡から奈良時代の寺院瓦や同時代の祭祀具である土馬などが出土しています。鎌倉時代にはこの神社の真北に大福寺が創建されたように、確かに古い由緒のある土地ですが、この神社とは直接関係ありません。平安時代の十世紀康保四年(967)施行の「延喜式」記載の英多神社はこの地にあったと考えられ、その後十一世紀後半には開発領主大中臣氏の入部があり、おそらくここに居を構えたと思われます。この子孫が神戸司を代々受け継ぐようになるので、この岡本の屋敷が最初の政所でした。この地の神明宮がいつ頃勧請されたかはわかりませんが、御厨御園成立の十一世紀後半以後でしょう。

 さて初生衣神社と御衣祭はその歴史に深く関わっているのでそれを見ていきましょう。

明治時代に書かれた「初生衣神社取調明細書案」によると「往古は斎宮と稱したりしが后初生衣神社と云ふ」とありますが、これは『日本書紀』垂仁天皇二五年三月条に倭姫が伊勢国に天照大神を鎮めるために五十鈴の川上に斎宮を興つという伝説によっています。倭姫命が天照大神の鎮座地を求め巡行する中に「浜名」が出てきてその国の国造が土地を寄進したという話に因んでいるのです。しかし、延暦両儀式帳には「遠江国」巡行は未記載で、平安後期延久元年(1069)までの記事を載せる『大神宮諸雑事記』が文献上の初見となり、鎌倉時代の『倭姫命世記』に引き継がれます。斎宮とは天皇の皇女のうちから選ばれた斎王が伊勢に下向して神宮につかえるための御所のことです。おそらく、平安時代中後期に倭姫命巡行を拡張したのであり、したがって斎王の巡行もないのに斎宮が存在するわけがありません。斎宮を祀るブームはむしろ近世になってからです。つまりのちの付会の説に基づき比較的新しい時代に入って祀られたのでしょう。そして神仏習合の影響により「斎宮堂」と称したのです。
 高橋氏のいう古文書の偽作については、たとえば永禄元年(1558)八月付牧野右馬允成定の寄進状に「岡本村ノ内五町八反」寄附とあり、その対象が伊勢内宮初生衣領並びに「羽槌社・英多社・磐長社」の三神とされています。このとき牧野成定は三河国宝飯郡牛久保城主であり、今川義元の命で五カ年の年限で吉良氏の西尾城守将でした。それゆえ、おそらく偽文書だと推測されますが、先の三神は同地岡本八幡宮境内社でもあります。ところが、「明和八年(1771)岡本村指出銘細帳」には記載されていません。この神社には元和四年(1618)十一月再建棟札があのでさらに創始は遡るでしょうが、先の三祭神は明治以降地区に独立して祀ってあったのを合祀したのでしょう。英多社の勧請はおそらく近世に入ってからでしょう。磐長社の磐長姫は大山積神の娘で不老長寿の神として信仰され、妹の木花之佐久夜姫とともに浅間神社によく祀られています。羽槌社は天羽槌雄神を祀り、文布(あや)または倭文布(しどり)ともいう織物の神、機織の神として信仰され天岩戸伝説に関わる神です。したがって、磐長社は別の場所に祀られていたのですが、三社のなかでは最も古く、のちには初生衣神社に関係するような神でしょう。

またほかに古来初生衣神社は服部殿とも呼ばれ、その創始が平安時代に遡るという説があります。
『朝野群載』承暦四年(1080)六月十日神祇官謹奏において、尾奈御厨を収公する際、国司源基清が浜名本神戸田を刈り加えたため、神戸等が穢れ、本・新神戸および同宮御領服織殿を清祓したといいます。こう見ると、いかにもこの同宮御領「服織殿」が三ヶ日の地にあったかのように錯覚しがちです。しかし、この「服織殿」は現在の初生衣神社のことではありません。
 第一に問題は「本神戸田」の刈加えで、神宮はこれを神宮の神に対する罪であり、よって神罰は神戸全体に及ぶと考えたのです。『神鳳抄』に調として織御衣・生絹各一疋(疋は反物の単位)などが御綿とともに納められているので、布帛を織っていたでしょうが、「服織殿」ではなかったでしょう。「服織殿」は服織氏が神御衣を織る伊勢国の八尋殿(鎮守が神服織機殿神社)を指します。『朝野群載』康和五年(1130)六月十日条にも「坐伊勢国太神宮御領」「(服イ)部殿」があり、神宮にとっての「服織殿」はこれを指します。
 近世初生衣神社神主家は「神目代」を名乗り、倭姫巡行時国造貢進の浜名神戸以来代々「神目代」を勤めたといいます。ただ承元三年(1209)以前は不明だが、その年以来三代にして「神服部ヲ大中臣ニ継是ヨリ當代迄三十一代相成候」(明治三年神目代貢神社取調明細書上帳写)とあります。承元三年は大中臣時定の大福寺寄進状の年です。時定の先祖は伊勢神宮大宮司に発する大中臣氏の家系で、服部氏ではありません。神氏は浜名神戸司大江氏(姓は大中臣)の庶流と推測され文献上の初見は正応三年(1290)三月の「神助近」です。この子孫がのち「神目代」を名乗るのは事実です。しかし、この地の旧家縣氏も大中臣時定(系図上は時晴)後裔とする系図があるように、時定が資料が残るこの地の名誉の人物であり、子孫が不明なため近世になって先祖に仮託しやすかったのでしょう。ほとんど信じることはできません。