井伊氏は、宝賀寿男編『日本古代氏族集成』収録の「三国真人」・「北家藤原」・「南家藤原」各氏の項に記載されています。そのうち「三国真人」・「北家藤原」氏に記載の系図は、現在知られている「井伊氏」に関する最古の系譜伝承から採られたものです。これらはいずれも史料的根拠のない系図で、わたしは三者ともに偽作された部分を多く含んでいると思います。とくに「三国真人」「藤原南家」説は取り上げるに値しないできです。
それらは、日蓮の徒による宗祖日蓮の系譜の追究がもたらしたもので、いわゆる「貫名氏系図」とも言われているものです。宗祖日蓮が、貫名氏の出身という伝承が流布され、とくに宗勢が拡大した室町時代以降に、その貫名氏のほか、その祖とされる井伊氏についての追究がなされたのです。とくに、「継体天皇裔氏族」の「三国真人」系図(以下宝賀三国系図)は、整いすぎていて日蓮の徒の初期の系図成立段階にはなかったものでしょう。もしあれば、かれらもそれを利用したでしょうから。
日蓮の素性について、初期のものは元弘三年/正慶二(1323))に書かれたとされる日道著『日蓮聖人御伝土代』(成立年に疑義あるも、大石寺6世日時の応永十年(1403)奥書があります。ただ具体的な記述はありません。また『法華本門宗要鈔』は偽撰といわれていますが、延文五年(1360)の識語をもつ日興の六上足で西山本門寺開山日代(1294~1394)の『法華宗要集置文』の記載があります。「出生ハ安房国長狭郡東条小湊ノ釣人権ノ頭ノ子也」とあり、父親を日蓮自身が語った貧しい漁師から身分を引き上げています。次に、中山門流日堯の貞治元年(1362)成立の『当家要文集』や誕生寺祖師堂安置「日蓮聖人木造胎内納入文書」である貞治二年(1363)八月二九日「日静願文」がありますが、これらにも父母や祖先の素性については触れていません。
つまり、この14世紀の半ばころには、まだ日蓮の出自の具体的な姓氏は記されていません。
日蓮没後百年前後(1380ころ)とも、あるいは百四十年(1420ころか)よりは前と推定されている『産湯相承事』は、日蓮が瀕死の病床で日興に語ったことを書き留めたといわれます.。「久遠下種の南無妙法蓮華経の守護神は、我国に天下り始めし国は出雲なり」「出雲日の御崎」などの特定地域の記述から、東佑介氏はこの書を出雲国周辺に拠点を構えていた日興門下日尊門流により成立したものといいます。(「産湯相承事の真偽論」)ここでの注目は日興の門徒が関わったとされていることです。
母の名を梅菊、平の畠山殿の一類とし、東条片海三国の大夫に嫁し、子を成して童名善日、仮名是生、実名は即ち日蓮だと初めて日蓮の具体的な家系について書かれています。
その後、寛正2年(1461)中山本成房日実の「『当家宗旨名目』が著され、聖武天皇の末裔が三国姓を名乗り、河内守道行と号して遠州へ下り、その末葉貫名五郎重実のとき所領の相論により合戦に及び一族は滅亡した。この罪によって重実二男仲三は安房国東条片海へ配されたが、その重実二男仲三の子が日蓮であるとし、「此事系図御書に見たり」とかいてありますが、『日蓮聖人系図御書』が偽書であることは証明されています。
その『日蓮聖人系図御書』には、聖武天皇、河内守通行末葉、遠江貫名重実まで十一代。重実の子は三人あり、仲太・仲三・三男仲四。所領相論により合戦に及び、一族滅び、仲三は安房国東条片海へ配流となり、その子が日蓮とします。
すなわち、十四世紀末の南北朝合一ころには、日興門流において、日蓮父は三国大夫、三国重実、母は畠山氏の出で名を梅菊とする説が成立します。その八十年後ころかそれよりさほど遠くない時期に、中山門流の日実が、聖武天皇の末裔、河内守通行を先祖とする遠江貫名氏が所領争いで一族滅亡の憂き目にあい、辛うじて生き延びた貫名重実の子仲三は安房国東条片海に流され、そこで生まれた子が日蓮であるとします。日蓮父はここで「貫名氏」であったとされたのです。そして、このときまだ、貫名氏は三国姓であったのです。他方、日実と同じころに、同門流の日親が藤原冬嗣後裔備中守共資が遠州村櫛に住し、その子孫赤佐太郎盛直子に井伊良直・赤佐・貫名政直三人の子が生まれます。政直子重実に重忠があり、この時伊勢平治に与力安房国東条片海に配流され、そこで生まれた子が日蓮であると述べました。おそらく、
これらを整理していくと、十四世紀末頃には資料は不明であるが、日蓮三国氏説が成立し、十五世紀半ばころになると藤原氏=井伊・貫名説が説かれ、中山法華経寺の門流は三国=貫名説を採択します。おそらく、『産湯相承事』の説が既に流布されていて、この派もそれを踏襲し喧伝していたのですが、日親の貫名説がでてきて、貫名が東海道遠江国の地名であったことは承知していたでしょうから、折衷せざるを得なくなったのです。また法華経寺は日蓮初期の信者富木常忍開基の寺で、日蓮真筆の多くの紙背文書が残されていて、その一つ『破禅宗』紙背文書に、宝治二年(1248)六月二日付「法橋長専・ぬきなの御局連署陳情案」があったことも関係しているかもしれません。富木常忍も法橋長専も千葉介頼胤家臣です。そこで「ぬきなの局」の夫貫名氏も千葉介の文筆官僚で日蓮両親とする推測もあります。(中尾尭『日蓮』)日蓮在世時には、この遠江を本貫とする貫名氏が下総辺に住んでいたわけです。ところが室町時代に日蓮=貫名氏説が起こったとき、既に遠江貫名に貫名氏はいなかったので、この地に移り住んでいた理由が必要になりました。それが所領相論という架空の事件だったのです。
そしてこの後、日興門流もこの「三国=貫名氏」説を採用します。それには貫名氏が井伊氏の庶流ですから、井伊氏が三国氏であれば問題ないことになります。そして、これを説く相手は主に信者ですので「あなた方ご存知の話」を前提にして話したのです。
元弘三年/正慶二年(1333)二月七日遷化「日興上人御遷化記録」に三人の「伊井氏」が参列しています。「伊」と「井」はもともとは異なる発音でしたが(あ行「い」とワ行
「ゐ」wi)、語頭においては鎌倉時代以降同音になり、「井伊氏」も「伊井氏」と書かれたりします。ですからこの「伊井氏」は「井伊氏」の可能性もありますが、三国氏との関係から、越前国坂井郡伊井郷を苗字の地とする「伊井氏」だと思います。ここで重要なのはその正確な出自ではなく、三国湊・三国神社など三国氏の本貫と近隣であることです。これが暗に証左であるとされた可能性もあります。
つまり、日蓮聖人滅後百六十年後ころには、その出自を三国氏あるいは藤原氏とする説が共存し、貫名を名乗ったとする系譜が一般化した。かくして文明十年(1478)成立の『元祖化導記』に、またその十数年後円明院日澄は『日蓮聖人註画讃』で、貫名重実の子重忠を挙げ、安房に流されて生まれたのが日蓮と書き、以後この説が定説となった。
『元祖化導記』 文明10年(1478)身延山十一代日朝編。「元祖誕生日ハ二月十六日辰ノ剋ト」或る記に云く、その先祖は遠州の人、貫名五郎重実也、平家の乱に安房の国に流されたり。或る記に云く、高体をば薬王丸と号す也。御出家の初めの仮り名は是生也。
『日蓮聖人註画讃』 円明院(啓運)日澄著、永正七年(一五一〇)卒。
巻一 第一誕生 姓三国、父遠州刺史貫名重実次子重忠、日蓮はその子、その先聖武天皇裔、父は遠州よりハナタレて安房州長狭郡東條郷片海市河村小港浦に魚叟と成り、母は清原氏、貞応元年壬午二月一六日午の時姓三国 或記云、孝謙天皇御宇、他国より吾朝を襲わんとす。魚逆(一字)大臣を大将として、異敵を退治、その時三国姓を賜い、河内守通行 (シゲユキ)と号す。神亀八年辛未九月十三日のことで、その賞に遠江国を賜る。
子孫相継ぎこれを領す。(神亀は六年まで、八年は天平二年。)
すなわち、日蓮の徒の日興門流・中山門流・身延門流等々宗派を問わずこうした説を踏襲し、江戸時代に入ると噴飯ものの系譜も語られるようになります。
それらは、日蓮の徒による宗祖日蓮の系譜の追究がもたらしたもので、いわゆる「貫名氏系図」とも言われているものです。宗祖日蓮が、貫名氏の出身という伝承が流布され、とくに宗勢が拡大した室町時代以降に、その貫名氏のほか、その祖とされる井伊氏についての追究がなされたのです。とくに、「継体天皇裔氏族」の「三国真人」系図(以下宝賀三国系図)は、整いすぎていて日蓮の徒の初期の系図成立段階にはなかったものでしょう。もしあれば、かれらもそれを利用したでしょうから。
日蓮の素性について、初期のものは元弘三年/正慶二(1323))に書かれたとされる日道著『日蓮聖人御伝土代』(成立年に疑義あるも、大石寺6世日時の応永十年(1403)奥書があります。ただ具体的な記述はありません。また『法華本門宗要鈔』は偽撰といわれていますが、延文五年(1360)の識語をもつ日興の六上足で西山本門寺開山日代(1294~1394)の『法華宗要集置文』の記載があります。「出生ハ安房国長狭郡東条小湊ノ釣人権ノ頭ノ子也」とあり、父親を日蓮自身が語った貧しい漁師から身分を引き上げています。次に、中山門流日堯の貞治元年(1362)成立の『当家要文集』や誕生寺祖師堂安置「日蓮聖人木造胎内納入文書」である貞治二年(1363)八月二九日「日静願文」がありますが、これらにも父母や祖先の素性については触れていません。
つまり、この14世紀の半ばころには、まだ日蓮の出自の具体的な姓氏は記されていません。
日蓮没後百年前後(1380ころ)とも、あるいは百四十年(1420ころか)よりは前と推定されている『産湯相承事』は、日蓮が瀕死の病床で日興に語ったことを書き留めたといわれます.。「久遠下種の南無妙法蓮華経の守護神は、我国に天下り始めし国は出雲なり」「出雲日の御崎」などの特定地域の記述から、東佑介氏はこの書を出雲国周辺に拠点を構えていた日興門下日尊門流により成立したものといいます。(「産湯相承事の真偽論」)ここでの注目は日興の門徒が関わったとされていることです。
母の名を梅菊、平の畠山殿の一類とし、東条片海三国の大夫に嫁し、子を成して童名善日、仮名是生、実名は即ち日蓮だと初めて日蓮の具体的な家系について書かれています。
その後、寛正2年(1461)中山本成房日実の「『当家宗旨名目』が著され、聖武天皇の末裔が三国姓を名乗り、河内守道行と号して遠州へ下り、その末葉貫名五郎重実のとき所領の相論により合戦に及び一族は滅亡した。この罪によって重実二男仲三は安房国東条片海へ配されたが、その重実二男仲三の子が日蓮であるとし、「此事系図御書に見たり」とかいてありますが、『日蓮聖人系図御書』が偽書であることは証明されています。
その『日蓮聖人系図御書』には、聖武天皇、河内守通行末葉、遠江貫名重実まで十一代。重実の子は三人あり、仲太・仲三・三男仲四。所領相論により合戦に及び、一族滅び、仲三は安房国東条片海へ配流となり、その子が日蓮とします。
すなわち、十四世紀末の南北朝合一ころには、日興門流において、日蓮父は三国大夫、三国重実、母は畠山氏の出で名を梅菊とする説が成立します。その八十年後ころかそれよりさほど遠くない時期に、中山門流の日実が、聖武天皇の末裔、河内守通行を先祖とする遠江貫名氏が所領争いで一族滅亡の憂き目にあい、辛うじて生き延びた貫名重実の子仲三は安房国東条片海に流され、そこで生まれた子が日蓮であるとします。日蓮父はここで「貫名氏」であったとされたのです。そして、このときまだ、貫名氏は三国姓であったのです。他方、日実と同じころに、同門流の日親が藤原冬嗣後裔備中守共資が遠州村櫛に住し、その子孫赤佐太郎盛直子に井伊良直・赤佐・貫名政直三人の子が生まれます。政直子重実に重忠があり、この時伊勢平治に与力安房国東条片海に配流され、そこで生まれた子が日蓮であると述べました。おそらく、
これらを整理していくと、十四世紀末頃には資料は不明であるが、日蓮三国氏説が成立し、十五世紀半ばころになると藤原氏=井伊・貫名説が説かれ、中山法華経寺の門流は三国=貫名説を採択します。おそらく、『産湯相承事』の説が既に流布されていて、この派もそれを踏襲し喧伝していたのですが、日親の貫名説がでてきて、貫名が東海道遠江国の地名であったことは承知していたでしょうから、折衷せざるを得なくなったのです。また法華経寺は日蓮初期の信者富木常忍開基の寺で、日蓮真筆の多くの紙背文書が残されていて、その一つ『破禅宗』紙背文書に、宝治二年(1248)六月二日付「法橋長専・ぬきなの御局連署陳情案」があったことも関係しているかもしれません。富木常忍も法橋長専も千葉介頼胤家臣です。そこで「ぬきなの局」の夫貫名氏も千葉介の文筆官僚で日蓮両親とする推測もあります。(中尾尭『日蓮』)日蓮在世時には、この遠江を本貫とする貫名氏が下総辺に住んでいたわけです。ところが室町時代に日蓮=貫名氏説が起こったとき、既に遠江貫名に貫名氏はいなかったので、この地に移り住んでいた理由が必要になりました。それが所領相論という架空の事件だったのです。
そしてこの後、日興門流もこの「三国=貫名氏」説を採用します。それには貫名氏が井伊氏の庶流ですから、井伊氏が三国氏であれば問題ないことになります。そして、これを説く相手は主に信者ですので「あなた方ご存知の話」を前提にして話したのです。
元弘三年/正慶二年(1333)二月七日遷化「日興上人御遷化記録」に三人の「伊井氏」が参列しています。「伊」と「井」はもともとは異なる発音でしたが(あ行「い」とワ行
「ゐ」wi)、語頭においては鎌倉時代以降同音になり、「井伊氏」も「伊井氏」と書かれたりします。ですからこの「伊井氏」は「井伊氏」の可能性もありますが、三国氏との関係から、越前国坂井郡伊井郷を苗字の地とする「伊井氏」だと思います。ここで重要なのはその正確な出自ではなく、三国湊・三国神社など三国氏の本貫と近隣であることです。これが暗に証左であるとされた可能性もあります。
つまり、日蓮聖人滅後百六十年後ころには、その出自を三国氏あるいは藤原氏とする説が共存し、貫名を名乗ったとする系譜が一般化した。かくして文明十年(1478)成立の『元祖化導記』に、またその十数年後円明院日澄は『日蓮聖人註画讃』で、貫名重実の子重忠を挙げ、安房に流されて生まれたのが日蓮と書き、以後この説が定説となった。
『元祖化導記』 文明10年(1478)身延山十一代日朝編。「元祖誕生日ハ二月十六日辰ノ剋ト」或る記に云く、その先祖は遠州の人、貫名五郎重実也、平家の乱に安房の国に流されたり。或る記に云く、高体をば薬王丸と号す也。御出家の初めの仮り名は是生也。
『日蓮聖人註画讃』 円明院(啓運)日澄著、永正七年(一五一〇)卒。
巻一 第一誕生 姓三国、父遠州刺史貫名重実次子重忠、日蓮はその子、その先聖武天皇裔、父は遠州よりハナタレて安房州長狭郡東條郷片海市河村小港浦に魚叟と成り、母は清原氏、貞応元年壬午二月一六日午の時姓三国 或記云、孝謙天皇御宇、他国より吾朝を襲わんとす。魚逆(一字)大臣を大将として、異敵を退治、その時三国姓を賜い、河内守通行 (シゲユキ)と号す。神亀八年辛未九月十三日のことで、その賞に遠江国を賜る。
子孫相継ぎこれを領す。(神亀は六年まで、八年は天平二年。)
すなわち、日蓮の徒の日興門流・中山門流・身延門流等々宗派を問わずこうした説を踏襲し、江戸時代に入ると噴飯ものの系譜も語られるようになります。
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