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井伊谷龍潭寺史(4)ー開山黙宗禅師以前、師文叔

2022-05-12 03:00:42 | 郷土史
長野県飯田市松尾の龍門寺所蔵「竜門開山再住妙心廿四世勅諡圓照真覚禅師文叔大和尚略伝」(以下「文叔略伝」と略す)によれば、文叔瑞郁(1467~1535)について、「遠州井伊谷城主直平、迎請主自浄院」とあります。文叔瑞郁の伝は、松源寺・龍潭寺に残っていますが、内容は大同小異であるといいます。井伊直平云々は、永正四年(1507)九月十五日付「井伊直平寄進状」2に関わるもので、寄進先は「龍泰寺」です。
 ところで、先の「文叔略伝」あるいは龍潭寺僧某の「黙宗大和尚行実」では、この寄進状の主井伊直平に請じられたのが「文叔和尚」であり、また和尚が居住したのは「自浄院」であったと書いています。龍泰寺ではありません。しかし、今この件については後回しにして、まず文叔和尚の来住について述べてみたいと思います。
「文叔略伝」によれば、文叔瑞郁は信濃国市田城主松尾嘉右衛門大夫正哲居士の実弟です。美濃金宝山瑞龍寺悟渓宗頓に参侍し、悟渓より「文叔」の号を与えられ、また悟渓の命で、同国山県大智寺開山玉浦宗珉について修行し、その法を嗣ぎました。天文四年(1535)六十九歳で遷化しています。ところで、師の玉浦宗珉が文叔に与えた得法得悟を証する印可状が残っていて、それによれば、永正五年(1508)六月、文叔四十二歳のこととあります。また、翌六年三月上旬、文叔の需めに応じて、玉浦が頂相に自賛を書しています。それには「文叔首座」とあります。この年は玉浦にとって妙心寺に瑞世し、一住三年の初めの年に当たります。また、長野県飯田市松尾龍門寺に、文叔が妙心寺住持に就任したときの「同門疏」・「山門疏」・「寅門疏」が残っていて、そのうちの「山門疏」に、「前第一座文叔郁公禅師、住持」とあります。それゆえ、このとき文叔は師の命によって、妙心寺の前堂首座を勤めていたのでしょう。そして、おそらくこのときに(それ以前かもしれませんが)、住持になるための前提となる秉払を遂げたのだと思います。とにかく玉浦の在任中の永正九年(1512)ころまでは、妙心寺に在住していたと思います。そして玉浦のあと、妙心寺二十三世桂峰玄昌の一住三年の住持中、永正十二年(1515)二十四世住持(奉勅入寺・居成)になっています。
 その間、兄の市田城主松尾明甫正哲居士が建てた松源寺に入寺したとすると、この寺の開創は永正八年から同十年と想定されているので、さらに永正九年から同十年に絞ることができます。文叔は開山に師の玉浦宗珉を勧請し、自らは二世となっています。そこでまず、印可の年を考慮すれば、直平寄進状の永正四年までには、文叔瑞郁は井伊谷には来住できません。またそのあとの史料からも、その後もしばらく永正九年ころまでは、師の玉浦に随侍したと思われます。また遠州では、永正五年七月今川氏親が遠州を平定し、遠江守護職を手にして、ようやく落ちついたのですが、それももつかの間、永正三年に続き、伊勢長氏に命じて、二度目の西三河松平長親攻めに及ぶも敗れています。今川軍には井伊氏・奥山氏も従っていますが、この敗戦を契機に、同七年には、大河内氏が斯波・井伊氏を語らって氏親に反旗を翻し、今川軍が十一月、引間に出陣し、十二月には井伊谷周辺が主戦場の一つになり、永正十年(1513)まで戦いが続いています。当然、井伊谷は焼土と化したでしょう。それゆえ、このころにも文叔は来ることはできないでしょう。また永正十三年(1516)から、再び大河内貞綱が、信濃国の国人を催し斯波義達を語らい、今川氏との戦いを開始しました。翌年三月には引間城を占拠し立て籠もりました。これに井伊・奥山氏も同調したのであり、翌十四年八月今川軍の勝利で幕を閉じ、大河内親子など多くが討ち死に、斯波義達は普済寺で出家させられ、尾張へ送り返されました。このときも井伊谷は主戦場のひとつになっています。そうであれば、いつ起きるかも知れない戦乱の地に、文叔が足を踏み入れることはなかったはずです。つまり、この十四年に至っても来ていない可能性が高いでしょう。
 黙宗が、鎌倉で玉隠から「黙宗」の字説を授かるのは、永正三年で、永正四年には、すでに正法寺を出て、諸国行脚の旅に赴いています。そこで以上から、少なくとも永正十四年までに、文叔瑞郁が井伊谷に来住し黙宗等に教え、のち信濃松源寺に移ったという所伝は受け入れがたいということになります。

 ついでに言っておきますと、三ヶ日町平山凌苔庵悟渓某が、悟渓宗頓と誤解されていますが、この平山悟渓は宗頓ではありません。この僧が龍潭寺の濫觴であるという主に幕末に彦根藩系譜方河村万右衛門などによって、取り上げられたのですが、明らかな誤解です。(弘化四年(一八四七)九月、彦根藩系譜方河村万右エ門取調べにつき草稿控)これは既に論証されています。文叔禅師は本当に勧請開山にすぎないのです。
  
<註1>妙心寺には奉勅入寺して世代となるものと住世するものがあり、後者は妙心寺四派による輪住であり、一住三年の住山であるのにたいして、前者は臨時奉勅であり、
三日で開堂祝聖(しん)から退院上堂の法語を垂れて自坊に帰山するもので、一般的にはこれを「奉勅入寺」(居なり)といいます。(妙心寺史等)これにより、「前妙
心」という称号と、紫衣勅許が得られることになります。
<註2>「字」はある程度の法階に昇進すると、本師(受業師)又は尊宗する先輩より授けられる称号で、中世では、公的には十刹西堂になると許されたが、詩会や平常の社交では、それ以前に既に所有、使用している。西堂とは他寺の前住を務めた僧の堂舎であるが、そこに住む僧自身も呼んだ。最初は居所によったが、その後居所による称号の性格は薄れた。たとえば禅の本旨たる「無」字など使用。(無準師範等)法諱の下字と道号とが字義上の関連がつくよう作られた。(玉村竹二等参照)

[参考文献]
『浜名史論』『静岡県史』『瑞泉寺史』訳、解釈共に『悟渓宗頓 虎穴録訳注』芳澤勝弘編 思文閣 二〇〇九年
 





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