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井伊谷龍潭寺史(2)ー方広寺以後

2022-05-09 07:43:54 | 郷土史
至徳元年(一三八四)奥山六郎次郎朝藤が奥山に方広寺を開創し、無文元選を招請して開山始祖とします。
 無文元選禅師については、多言を費やす必要はないでしょう。簡単に述べておくと、後醍醐天皇第六皇子で、母は昭慶門院と伝えますが正確なことはわかっていません。康応二年(1343)中国(当時は元)に渡り、諸尊宿に参敲し、福州大覚寺古梅正友に嗣法しました。古梅正友は臨済宗破庵派の僧で、有名な無準師範の五代後となります。玉村竹二氏によると、この派は南宋(1127~1279)では非常に栄えたのですが、元(1271~1368)が起こると、松源派に取って代わられました。つまり無文禅師は、日本では依然盛んであったのですが、当時中国では衰退していた派に属したのです。しかし実はこの時代全盛であって、日本の禅僧の多くが参じた松源派古林清茂の法嗣、了庵清欲の参徒でもありました。了庵清欲は日本に来ていませんが、来朝し足利尊氏・直義兄弟の帰依を受け、また南禅寺・建長寺などに歴住した竺仙梵僊とともに、古林門下の二大甘露門と言われていました。古林清茂は偈頌主義を唱えた文芸運動の創始者で、古林の別号金剛幢から、その会下を金剛幢下と呼びます。ここに参じた日本の禅僧はいろいろな宗派に属していましたが、文学活動についてのみ団結する集団を形成しました。初期の五山文学を形作ったのも彼らでした。金剛幢下であることは、日本では一種の結社の結成に至ったようです・たとえば、康応元年(1389)八月二〇日、方広寺において十三回忌が修された前建長広円明鑑禅師(大拙祖能)は、中峰明本法嗣千岩元長から法を嗣いだ幻住派の人です。たしかに無文禅師は、千岩元長に参じているので、その縁も考えられますが、了庵清欲に参じた金剛幢下の仲間であったことからも執行されたものでしょう。というのも「師以有旧盟」とあるからで、旧盟とは金剛幢下のことでしょう。無論、大拙祖能は無文が両親のもとを去って、京都建仁寺に入った時の最初の師であったからだということは、いうまでもありません。また応安六年(1373)無文元選の画像賛を作った古剣智訥は、その師孤峰覚明が、古林清茂に学んだ金剛幢下の人という縁が関係しているのでしょう。当然、師弟共々南朝専一であったことも、無関係でないことは言うまでもないでしょう。また元・明の禅は、禅浄兼修でしたので、当然その感化は受けたと思います。たとえば無文禅師の参じた中峰明本には、『観念阿弥陀仏偈』などがあり禅浄一致を説き、同時に隠遁的生活を修行の核においている僧であったので、無文禅師晩年の奥山への来住はこの僧の影響であったかもしれません。無文禅師は渡元の前に、博多聖福寺無隠元晦のもとに参じています。また雲州の人で京都大徳寺徹翁義享の俗弟で、禅師と同船で帰国した義南菩薩と鎌倉万寿寺にいた中巌円月とともに鎌倉を訪ね、円覚・建長寺に歴住した古先印元三者で、足利直義を訪れましたが、この無隠・義南・古先ともに中峰から嗣法しています。中国の教禅一致、禅浄一致の教養と仏教を引く、当時日本では盛んであった破庵派の禅と、主流であった金剛幢の文芸、これらを修めた無文禅師の名声は高く、雲水が群参したと伝えます。京都妙心寺日峰宗舜(1368~1448)なども参徒の一人でした。ただ三河国『八名郡誌』によれば、この日峰宗舜は本坂道筋三河遠江境にある中峰明本法嗣日顔禅師が開いた正宗寺僧の可能性を記しています。禅師の化によって井伊郷およびその周辺の密教寺院や、禅密兼修の寺院の多くは、方広寺派へ変わったと思います。さらに、方広寺四派鼎立後は、一層の教線拡大が行われました。康応二年(1390)閏三月二十二日、本山寝室において示寂、六十八歳、法臘四十九年。京都岩蔵(右京区)に帰休庵、美濃にも帰休庵(武儀郡)、同国了義寺(現岐阜市)、三河広沢庵(額田郡)、宝泰寺(現静岡市)を開きました。嗣法の弟子に四哲といわれる僧が出て、それぞれ方広寺内に塔頭を創ります。臥雲院開基空谷建幢、三生院開基在徳建頴、蔵龍院開基仲翁建澄、東隠院開基悦翁建誾で、それぞれ方広寺住持に任命されました。
 
 龍泰寺の開創は、無文禅師の弟子たちによるものかどうかはまだわかりません。ただ井伊谷円通寺などは、無文禅師が仏事を修したころには方広寺末になっていましたが、その後黙宗瑞淵により、妙心寺派龍泰寺末に変わりました。



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