金剛寺
所在地 浜松市北区三ヶ日町三ヶ日 曹洞宗 本寺愛知県宝飯郡伊奈東漸寺 本尊地蔵菩薩
創建寺伝 文和二年(1353)浜名清政が近江国三井寺の僧を招聘し開創と伝えます。
金剛寺を末寺とする東禅寺の本寺宇宙山乾坤院(愛知県東浦町)は、文明七年(1475)尾州緒川城主水野貞守が創建し、遠州一雲斎(現磐田市豊岡)川僧慧濟を勧請第一祖、実質開山はその法嗣逆翁宗順です。長享元年(1487)、そのたった一人の嗣法の弟子芝崗宗田に席を譲り、翌年逆翁は示寂しました。川僧慧斎は遠江国森大洞院如仲天誾法嗣真巌道空から法を受け近江国洞寿院住持を勤め、後遠州一雲斎を開き、能登総持寺住持にも就任した僧です。金剛寺開山の乾坤院四世享隠慶泉は芝崗宗田に嗣法しました。
享隠慶泉は「金剛寺歴代統系図」で永正元年(1504)正月五日寂とありますが、『東浦雑記』所載「住山記」には、二世芝崗宗田遷化の日である同じ明応九年(1949)三月三日頃とあります。芝崗のあと周鼎中易が三世となり翌年永正元年五月退院、その後約一月間金剛寺一世璧渓慧球監司が視篆したとします。他方『知多郡史』も前説と同様の記事を載せますが、芝崗遷化後から永正元年まで享隠が住持を勤め、のち璧渓が後継となったとします。おそらく乾坤院住持は、川僧慧濟・逆翁宗順・芝崗宗田・周鼎中易・享隠慶泉・璧渓慧球と続いたのです。享隠慶泉の寂年は永正元年で間違いないでしょう。
金剛寺住持は「金剛寺歴代承統系図」に、享隠慶泉(永正元年正月五日寂)―大中一介(天文元年正月廿九日寂)―一世璧渓慧球(当寺開山、天文十一年八月三日寂)―二世延宝元祝(正月廿二日寂)―三世招翁慧隆(天文十六年二月廿五日)(以下略)と継承するとします。
享隠慶泉は本寺万年山東漸寺(愛知県宝飯郡)開山として、明応元年(1492)二月五日に同寺を開創しました。大中一介は東漸寺二世で、ほかに明応四年五月、廃寺であった本宮山松源院(豊川市上長山)を再興しました。同六年二月の「薬芝草奥書」に「本宮山松源院山主一介」と記しています。
享隠慶泉は金剛寺の本寺東禅寺開山ですので、最初に名前が載っていても不思議ではありませんし、また大中一介も二世ですので、おそらく金剛寺は二人の僧を勧請一、二世としていたのです。しかし、実質開山は、第一世璧渓慧球の開山によるものでしょう。永正元年以降乾坤院の住持を勤めたといいます。その後金剛寺に移り、天文十一年(1542)寂というので、『浜名史論』が言うように、この人はまさに浜名政明代の僧です。天文八年(1539)五月、前備中入道成繁(政明)が「金剛寺之事、堅固申定候上者、於末代可為御門流之寺候云々」と約しています。つまり、この年正式に徒弟院(一流相承)の寺となり、東漸寺流以外の派を住持とすることはありませんでした。
ところで金剛寺そのものは、これ以前にも存在していました。古くは鎌倉時代末期、元応二年(1320)四月八日、ときの住持白高敬白の鐘銘があり、観応三年(1352)七月五日付の大福寺文書に「金剛寺殿」が北朝のために、大福寺に御願書を籠められたとあり、文亀元年(1501)十二月、堀江左衛門尉為清が、借銭の担保にとっていた寺領をこの日、同寺に寄進したという文書が残っています。
この間のことを寺伝等では、金剛寺殿、すなわち浜名清政が、元弘の乱後廃頽していた真言寺院を再興し、文和二年(1353)近江三井寺円満院から僧を請待して天台宗に改めたと説明します。のち嘉吉二年(1442)火災で烏有に帰したのを、乾坤院より享隠慶泉を請じ曹洞宗に転じたとします。しかし乾坤院開創は文明七年(1475)創建であり、享隠和尚による金剛寺本寺東漸寺開創も、明応元年(1492)ですので、嘉吉二年再興は明らかに誤解です。曹洞宗に転じたのは、璧渓慧球によって永正元年(一五〇四)以降、政明が東漸寺門流の寺とした天文八年(1539)以前の間ということになるでしょう。
つまり少なくとも、堀江為清寄進状の文亀元年十二月までは、伝承通りであれば、三井寺系天台寺院であったと思われます。為清が「於浜名之名字不可有違乱之儀候」と書くのは、この寺が金剛寺殿以来の浜名氏進止の領内にあったからです。
永禄元年(1558)十二月十七日付金剛寺宛「今川氏真判物写」で、三世延宝元祝(没年無記)の嗣子南隆と東禅寺三世大甫一巨との間に相論が始まりました。それにより諸公事徴収に影響が出たため、今川氏真が金剛寺檀那浜名兵庫助に、彼と師檀関係にある一巨を召連駿府に来いと名代を通じて命じたのですが、参府しなかったので南隆を金剛寺住持として浜名氏と師檀の儀も変わらずに保ち、寺領を安堵するとしたものです。
この南隆なる僧は、「承統系図」の二世延宝元祝の次、三世紹翁慧隆に当たると思うのですが、この僧は、天文十六年(1547)二月二十五日寂とあるので、逝去の年が合いません。しかし延宝の逝去の年は抜けているので、「天文十六年」は延宝に付すべきものであったのですが、写し違いをしたのではないでしょうか。一世璧渓と三世紹翁との間が、系図通りだと六年しかなく不自然で、また寺領等安堵に加え、「先師延宝為嗣法」とあるので、この僧が金剛寺住持になったのに、系図に名前が載らないことも不自然です。この誤写が四世明岩修哲にも影響し、彼が永禄元年より前の、弘治二年(1556)に逝去していることになったのではないかと想像しています。
書状中「法祖一巨」とあるのも良くわからないのですが、たぶん「法祖」と「大甫一巨」二人のことだと思います。大甫一巨は弘治二年富士山光明寺(豊川市上長山)、永禄元年海潮山蛤珠庵(豊橋市前芝)、永禄十二年加羅陀山本性寺(豊橋市足山田)等を開いたと伝えられています。
以降はほぼ系図通りなのではないかと思います。
江戸時代に入ると、金剛寺は本寺東漸寺が末寺と号するのは不当だとする訴訟を起こしますが、幕府の裁定は今まで通りだとします。
所在地 浜松市北区三ヶ日町三ヶ日 曹洞宗 本寺愛知県宝飯郡伊奈東漸寺 本尊地蔵菩薩
創建寺伝 文和二年(1353)浜名清政が近江国三井寺の僧を招聘し開創と伝えます。
金剛寺を末寺とする東禅寺の本寺宇宙山乾坤院(愛知県東浦町)は、文明七年(1475)尾州緒川城主水野貞守が創建し、遠州一雲斎(現磐田市豊岡)川僧慧濟を勧請第一祖、実質開山はその法嗣逆翁宗順です。長享元年(1487)、そのたった一人の嗣法の弟子芝崗宗田に席を譲り、翌年逆翁は示寂しました。川僧慧斎は遠江国森大洞院如仲天誾法嗣真巌道空から法を受け近江国洞寿院住持を勤め、後遠州一雲斎を開き、能登総持寺住持にも就任した僧です。金剛寺開山の乾坤院四世享隠慶泉は芝崗宗田に嗣法しました。
享隠慶泉は「金剛寺歴代統系図」で永正元年(1504)正月五日寂とありますが、『東浦雑記』所載「住山記」には、二世芝崗宗田遷化の日である同じ明応九年(1949)三月三日頃とあります。芝崗のあと周鼎中易が三世となり翌年永正元年五月退院、その後約一月間金剛寺一世璧渓慧球監司が視篆したとします。他方『知多郡史』も前説と同様の記事を載せますが、芝崗遷化後から永正元年まで享隠が住持を勤め、のち璧渓が後継となったとします。おそらく乾坤院住持は、川僧慧濟・逆翁宗順・芝崗宗田・周鼎中易・享隠慶泉・璧渓慧球と続いたのです。享隠慶泉の寂年は永正元年で間違いないでしょう。
金剛寺住持は「金剛寺歴代承統系図」に、享隠慶泉(永正元年正月五日寂)―大中一介(天文元年正月廿九日寂)―一世璧渓慧球(当寺開山、天文十一年八月三日寂)―二世延宝元祝(正月廿二日寂)―三世招翁慧隆(天文十六年二月廿五日)(以下略)と継承するとします。
享隠慶泉は本寺万年山東漸寺(愛知県宝飯郡)開山として、明応元年(1492)二月五日に同寺を開創しました。大中一介は東漸寺二世で、ほかに明応四年五月、廃寺であった本宮山松源院(豊川市上長山)を再興しました。同六年二月の「薬芝草奥書」に「本宮山松源院山主一介」と記しています。
享隠慶泉は金剛寺の本寺東禅寺開山ですので、最初に名前が載っていても不思議ではありませんし、また大中一介も二世ですので、おそらく金剛寺は二人の僧を勧請一、二世としていたのです。しかし、実質開山は、第一世璧渓慧球の開山によるものでしょう。永正元年以降乾坤院の住持を勤めたといいます。その後金剛寺に移り、天文十一年(1542)寂というので、『浜名史論』が言うように、この人はまさに浜名政明代の僧です。天文八年(1539)五月、前備中入道成繁(政明)が「金剛寺之事、堅固申定候上者、於末代可為御門流之寺候云々」と約しています。つまり、この年正式に徒弟院(一流相承)の寺となり、東漸寺流以外の派を住持とすることはありませんでした。
ところで金剛寺そのものは、これ以前にも存在していました。古くは鎌倉時代末期、元応二年(1320)四月八日、ときの住持白高敬白の鐘銘があり、観応三年(1352)七月五日付の大福寺文書に「金剛寺殿」が北朝のために、大福寺に御願書を籠められたとあり、文亀元年(1501)十二月、堀江左衛門尉為清が、借銭の担保にとっていた寺領をこの日、同寺に寄進したという文書が残っています。
この間のことを寺伝等では、金剛寺殿、すなわち浜名清政が、元弘の乱後廃頽していた真言寺院を再興し、文和二年(1353)近江三井寺円満院から僧を請待して天台宗に改めたと説明します。のち嘉吉二年(1442)火災で烏有に帰したのを、乾坤院より享隠慶泉を請じ曹洞宗に転じたとします。しかし乾坤院開創は文明七年(1475)創建であり、享隠和尚による金剛寺本寺東漸寺開創も、明応元年(1492)ですので、嘉吉二年再興は明らかに誤解です。曹洞宗に転じたのは、璧渓慧球によって永正元年(一五〇四)以降、政明が東漸寺門流の寺とした天文八年(1539)以前の間ということになるでしょう。
つまり少なくとも、堀江為清寄進状の文亀元年十二月までは、伝承通りであれば、三井寺系天台寺院であったと思われます。為清が「於浜名之名字不可有違乱之儀候」と書くのは、この寺が金剛寺殿以来の浜名氏進止の領内にあったからです。
永禄元年(1558)十二月十七日付金剛寺宛「今川氏真判物写」で、三世延宝元祝(没年無記)の嗣子南隆と東禅寺三世大甫一巨との間に相論が始まりました。それにより諸公事徴収に影響が出たため、今川氏真が金剛寺檀那浜名兵庫助に、彼と師檀関係にある一巨を召連駿府に来いと名代を通じて命じたのですが、参府しなかったので南隆を金剛寺住持として浜名氏と師檀の儀も変わらずに保ち、寺領を安堵するとしたものです。
この南隆なる僧は、「承統系図」の二世延宝元祝の次、三世紹翁慧隆に当たると思うのですが、この僧は、天文十六年(1547)二月二十五日寂とあるので、逝去の年が合いません。しかし延宝の逝去の年は抜けているので、「天文十六年」は延宝に付すべきものであったのですが、写し違いをしたのではないでしょうか。一世璧渓と三世紹翁との間が、系図通りだと六年しかなく不自然で、また寺領等安堵に加え、「先師延宝為嗣法」とあるので、この僧が金剛寺住持になったのに、系図に名前が載らないことも不自然です。この誤写が四世明岩修哲にも影響し、彼が永禄元年より前の、弘治二年(1556)に逝去していることになったのではないかと想像しています。
書状中「法祖一巨」とあるのも良くわからないのですが、たぶん「法祖」と「大甫一巨」二人のことだと思います。大甫一巨は弘治二年富士山光明寺(豊川市上長山)、永禄元年海潮山蛤珠庵(豊橋市前芝)、永禄十二年加羅陀山本性寺(豊橋市足山田)等を開いたと伝えられています。
以降はほぼ系図通りなのではないかと思います。
江戸時代に入ると、金剛寺は本寺東漸寺が末寺と号するのは不当だとする訴訟を起こしますが、幕府の裁定は今まで通りだとします。
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