ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

清河寺

2015-03-30 11:07:49 | 建造物

    清河寺

妙な名前の場所に興味を覚えた。清河寺である。
文字は、見慣れた文字だが、読みは難しい。・・‘せいがんじ‘と読む。
清河寺と言うからには、その名の寺がありそう。
調べたら、上尾道路の大宮・花の丘公苑の反対側の田園の中にある。

由来 ・・・地名の裏側を眺めると、意外に面白い。
清河寺は、室町時代初期、鎌倉公方・足利基氏が、病中に見た夢の中で、亡兄・竹若丸が大龍に乗って枕元に現れ、清い水を基氏の顔にかけた。これにより、病気がたちまちに全快したことから、亡兄追善のため、大竜に乗って現れたことから山号を「大龍山」とし、清い水を与えられたことから寺号を「清河寺」としたのである。この縁により、足利家祈願所となり、追って、岩槻太田家からも篤い帰依を受けた。

由来が”祈願寺”で、御朱印となれば、寺は知行地を有していたはずである。
この場合の常は、一般を檀家としないで、知行地により寺を維持している筈である。
従って、檀家の墓地は少なく、あったとしてもつい最近のものであろう。
付近の清河寺の地籍は、恐らく”清河寺”の知行地であろうと思われる。
足利基氏が関わったとすれば、禅宗。宗派は案の定臨済宗 ・・・
基氏は、足利尊氏四男。長兄が竹若丸、次兄が直冬、三男が義詮。
南北朝の内乱で、鎌倉公方・基氏は鎌倉を離れ、入間川に陣を置き、南朝側と戦っている。
そのため、”入間川殿”の俗称があり、その頃指扇は入間川沿いであった。 ・・上記の由来の逸話はその頃のこと。

大龍山清河寺。
地名自体の由来となっている臨済宗円覚寺派の古刹で、円覚寺の霊場である。
所在地:埼玉県さいたま市西区清河寺792


 

足利基氏 ・・
基氏は、足利尊氏四男。長兄が竹若丸、次兄が直冬、三男が義詮。
足利将軍家の内紛から発展した観応の擾乱が起こると、父は鎌倉にいた嫡男で基氏の兄義詮に次期将軍として政務を担当させるため京都へ呼び戻し、正平4年/貞和5年(1349)に四男である基氏を鎌倉公方として下し、鎌倉府として機能させる。この折、幼い基氏を補佐した執事(後の関東管領)の1人に上杉憲顕がいた。
観応の擾乱のとき、次兄・直冬は、伯父の直義側に付いた。
南北朝の対立の時、基氏は、関東北朝側のケルン(中核)として存在し、北朝側軍事として、上杉家を関東管領として指名し関東の平定を図った。この時基氏は鎌倉を離れ、入間に仮設の陣を置いている。さらに、小手指川原、笛吹き峠と続く新田義宗との抗争の時、東松山にも陣を置いている。このため、関東は、公方、関東管領が、軍事的力量で国人衆を凌駕していた。さらに分裂した上杉家が、同族同士の抗争を繰り返し、それぞれに加担した国人衆も軍事的力量を蓄積できず弱体化して、ついには小田原北条に勢力を取って代わられた。関東に、有力な戦国大名が生まれなかった背景でもある。


コメント
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