郷御前の運命と父・重頼の立場
・・・ 凄まじいほどに残酷な流転。
承前「河越館」
「河越館」のことを書いてから一週間。何とはなしに「郷御前」のことが気になります。それで、あらためて「引用文」を再度読みかえしています。
川越重頼のこと・・
「河越重頼のとき源頼朝に重用され、その娘(郷御前)が源義経の正妻となったが、義経没落の際に縁坐して重頼は誅殺された。
しかしその後も河越氏は武蔵国における在庁筆頭格として鎌倉幕府有力御家人の地位にあり、義経に連座して河越氏から剥奪されていた武蔵国留守所総検校職は重頼の三男・重員に再任され、河越館は河越氏の居館としてだけではなく、幕府の武蔵国政庁として機能した。室町時代に至るまで、栄華を誇った河越氏であったが、河越氏は、応安元年(1368)武蔵平一揆以降没落し、一揆の大将河越直重も伊勢国に敗走して河越館に関する記録も歴史の表舞台から消えていった。・・・・・それより前 ・・・河越氏の祖である秩父重隆は、秩父氏家督である総検校職を継承するが、兄・重弘の子で甥である畠山重能と家督を巡って対立し、近隣の新田氏、藤姓足利氏と抗争を繰り返していたことから、東国に下向した河内源氏の源義賢に娘を嫁がせて大蔵の館に「養君」として迎え、周囲の勢力と対抗する。久寿二年(1155)8月16日、大蔵合戦で源義朝・義平親子と結んだ畠山重能らによって重隆・義賢が討たれると、秩父平氏の本拠であった大蔵は家督を争う畠山氏に奪われる事となり、重隆の嫡男・能隆と孫の重頼は新天地の葛貫(毛呂山町葛貫)や河越(川越市上戸)に移り、河越館を拠点として河越氏を名乗るようになる。本拠大蔵は奪われたものの、総検校職は重頼に継承された。」
この、そんなに長くない「河越氏」の説明文はかなり秀逸です。当時の河越氏の置かれた立場や背景が、ものすごく的確に浮かび上がってきます。武蔵野の平安末期から鎌倉初期の歴史的な背景も勢力図も迫ってきます。これだけ凝縮していると、名文とさえ思ってしまいます。
まず、武蔵国はどこまでが範囲なんだろうか。
中世の武蔵国の、鎮撫や知行の範囲を読んでいると朧気ながら浮かんできます。西は、恐らく相模川が界だろうと想像が付きます。武蔵七党の渋谷氏などは秩父近辺から移動しています。しかし頼朝に、川越重頼は”相模国”守護に命じられます。そこは鎌倉のある本拠地です。この時点で川越重頼が如何に頼朝に信頼されていたかが見えてきます。ここらへんから一地方名だった相模は”相模国”として文献に頻繁に登場するようになります。相模国が出来ると武蔵国は多摩川あたりまで後退したのでしょう。東は、荒川でも利根川でもなく、恐らく渡良瀬の川筋で渡良瀬川は下流を太日川といい、ほぼ現在の江戸川まででしょう。しかし、証拠があるわけではありません。山や川を国の境にしたのは、昔の習いです。当然江戸も範疇でしょうが、その頃名前も不確かな河原と原野であったのでしょう。古河や結城は、下総に位置づけられているが、地理的便宜性で武蔵国の範疇に含まれていたことが、豪族の知行の範囲を見るとうかがい知ることが出来ます。
つぎに、検校という職務ですが、まず武蔵国を、今で言う県に置き換えると、県庁所在地が国衙で、県知事が国司と言うことになります。国司は、朝廷の任命で派遣されるわけですが、平安末期には完全に名誉職で、現地に赴くことはまずありません。そこで、家臣を代理にする場合もありますが、現地の豪族を代理にする場合もあります。この現地に赴かないで代理を置くことを”遙任”といい、現地の豪族が”国司”を代行することを”検校”と呼んでいたようです。
武蔵国は、先述の地理案内で確認したように、埼玉の秩父を除く全域と、東京都、相模川以東の神奈川と江戸川以西の千葉と茨城の一部を加えて相当広い領域になります。この領域の”総検校職”は、武蔵国の顔役です。抜きんでた勢力があったかどうかは分かりませんが、相対的には一番の実力者であったのでしょう。この総検校職が、秩父重隆という人物で平良文の末裔に当たります。秩父の名前から、秩父平氏の嫡流と見てよさそうです。秩父重隆の居館にした場所が”大蔵”ですから、ここが、当初の国衙、つまり県庁所在地であったことが分かります。秩父重隆以降は、二流派に分かれて、一人は嫡流の”川越重頼”、今一人は兄・重弘の子・”畠山重能”が覇権を争うようになります。
この時点では、河越重頼は、河越はまだ名乗っておらず、”大蔵”か”秩父”の名前だったとする方が合理的です。
この秩父平氏同士の覇権争いは、源氏の覇権争いを複合し、周辺の豪族も巻き込みます。源義賢と源義朝・義平親子の争いです。周辺の豪族は、新田氏、藤姓足利氏です。ここで面白いのは、源義賢に娘を嫁がせて大蔵の館に「養君」として迎えていること。つまり名族を棟梁に奉って、権威を高める方策をとっていると言うことです。平良文流平氏の家格と源の家格とでは、源の方が上のようです。ちなみに、源義賢の子である‘木曾義仲‘は、河越重頼の娘の子ではありません。
この”大蔵合戦”と呼ばれる争いは、畠山・源義平連合の勝利で、河越重頼・源義賢連合は敗北します。敗北した河越重頼は、大蔵を追われ川越に流れます。
川越に流れた河越重頼が居館として住んだのが”河越館”というわけです。住んだ場所は、入間川と小畦川の狭地。いわば氾濫原ですが、新田開拓には最適地だったらしく、短期間に開拓して水田を作って、河越氏は急速に富を蓄積し、勢力を復元・拡大し、武蔵国の検校職も継続していきます。勝った畠山氏は、大蔵を領分したものの検校職は奪取できなかったようです。ここで、県庁所在地(=国衙)は川越に移ります。
こうして、河越氏が、川越で地盤を強化してから間もなく、頼朝が、平氏打倒のため蜂起します。当初平氏側だった河越氏は、頼朝の軍に参加していきます。ここらの経緯は詳しくないのですが、川越重頼の正妻は、頼朝の乳母の”比企尼”の娘だったというので、そこら辺が関係しているのかも知れません。頼朝の軍に参加してからの河越氏は、直ぐに側近で親族的重臣になっていったようです。やはり、”比企尼”との関係からとしか思えません。そして、頼朝から、川越重頼の娘(郷御前)が、義経の正妻に選ばれます。
郷御前は、やはり・さとごぜん・と読むのでしょうか。
郷御前のことを調べると、・・・義経の正妻、河越重頼の娘のことは ・・・
・吾妻鏡と源平盛衰記に載っているようです。
・「吾妻鏡」では、「河越重頼の娘」「義経の室」となっている。
・「源平盛衰記」では「郷御前」となっているため、郷御前が通称になった、とか。
・「義経千本桜」での義経正妻は、平時忠の養女で川越太郎の実の娘「卿の君」。
・河越(川越市)では、京へ嫁いだ姫である事から「京姫」。
・平泉では貴人の妻の敬称である「北の方」と呼ばれている。
・・・「源平盛衰記」は、後世に作られた娯楽本なので、名前の信憑性はうすく創作の可能性があります。
この様に見ると、実際の名前は”不詳‘とするのが適当のように思えます。
義経が、頼朝から追討され、京から逃げ、北陸道の逃避行、平泉での自害に、最初から最後まで同行した”郷御前”は純愛を貫いたのでしょうか。彼女の心中には興味を覚えます。
さて、河越重頼は義経の外戚と言うことで誅されます。経緯は、理不尽なように思われますが、こうして一時河越氏が没落すると、ようやく武蔵国の検校職は畠山重忠に廻ってきました。
その畠山氏も、政変で没落すると、検校職は”河越重頼のひ孫”に戻ります。”河越重頼のひ孫”は河越径重のことで、川越・養寿院の開祖になります。義経に関係した家柄なので、径重は・つねしげ・と読むのでしょうか。普通は・みちしげ・と呼びそうですが。
・・・なんか、凄まじいほどに残酷な流転を見るようです。