通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちょっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ
”わらべうた” を漢字で書くと童謡となるのかも知れないが、厳密には少し違う気がする。
”わらべうた”には”あそび”という行動を伴う要素があること、さらに日常の行動の中での注意を促す要素をさらりと言い得る信仰的な意味合いがあること、この二点が現代の童謡と異なる。
・・・・・
三芳野神社 庭園内の小高い塚から撮影 
・・・・・
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ
・・・ この部分の文言は、かねてより、色々と物議を醸してきた。・・要は、”なぜ、こわい”のだろうか、と。・・・謎である・。
これの解釈に、ある説がある
食べるものがないので、子どもを仕方なしに殺すということです。ひとり殺しては一つ、こけし(子消し)をつくって供養するんですが、この歌では、子どもを殺すのを天神様に許してもらうってことでしょうか。死ぬ前の祝い事です。祝った後は悲劇が待っているので、怖いんではないでしょうか。その罪悪感、悲壮感たる壮絶なものでしょう。
・・・貧しい時代の、子供の間引き、と言うことでしょうか。悲しい物語ですが、どうも納得出来ません。埼玉のこの地は穀倉地帯で、それほど貧しい土地柄ではありません。それに、子どもを殺すのを天神様が許すとは思えません。極悪非道の領主がいて年貢が高かったという話も聞きません。あまり説得力があるとは思えません。
また、ある説では
私が聞いたのは「こわい」はどこかの方言(確か東北地方)で「しんどい、疲れる」という意味だ、という説です。「行きはまだ最初だから元気があるけれど、帰り道にはさすがに疲れてる。疲れているけど、ここを通って帰らなきゃ」という意味だそうです。
・・・この方言説にも納得しかねます。埼玉では”こわい” を疲れるという意味には取らないようです。
また、別の説では
「通りゃんせ」は、川越城の中にあった神社を参拝した客が見た機密事項を外部に漏らさないように、管理していた事があり、それを揶揄した唄。という解釈があります。
城の門番は、入る時は比較的簡単に中に入れてくれますが、上のような理由で、出る時は、検閲が厳しかったといいます。 ・・三芳野神社は、当時川越城内にあった・・
・・・この説は現実味があり、比較的信じても良さそうな気がしますが、はたして、どうでしょうか。”歌” にするような、事柄でもない気がします。ですが、この説が定説になろうとしています。
諸星大二郎・・・・・が、”通りゃんせ” に直接コメントしているわけではないが、・・・
散文的な話ですが、子供が遊びにでかけると、行く時は、遊びに行くので楽しいが、帰れるかどうか分からない……「神隠し」に会う可能性があるぞ、という歌なのではないかと思います。「帰りは怖い」は、行って帰って来て、帰りが恐ろしいのではなく、帰ろうとすると恐ろしいものがたちふさがるということを警告している、・・・と、こんな説もありました。これが一番説得力がありました。
この ”わらべうた” の原型は、江戸時代、戦国室町時代、鎌倉時代、平安時代のどの時代につくられた、のだろう・・・・・か

天神・・・
「天神様」は火雷天神とよばれ、天から地に降りてくるものを神として祀った事に由来する。すなわち、雨であり雷であるものが神で、農耕と深く結びつく。のちに菅原道真が火雷天神と呼ばれたことから、学問の神様としても有名になる。本来は農業の神で、慈愛と正直が神たるところである。なお、菅原道真が九州太宰府に流された時、天候がすさまじく荒れて、雷と大雨が降ったという。都の人は怖れて、これを道真の「たたり」としたという。
七つのお祝い・・
7歳のお祝いは女子の「帯解きの儀」がもとになります。つけ紐で着物を着ていたのを、大人と同じ幅広の帯を結び始める儀式です。着物も子ども用のものから、大人と同じものを肩上げして使うようになり、大人の仲間入りを果たすのです。
この様に見てきますと、”通りゃんせ” の歌と遊びは女の子の遊びと言うことになります。天神様は、お参りする付近の神社というだけで、深い意味はなさそうです。この七つのお祝いは民俗学で江戸時代からの儀式とされています(七五三と併せた儀式は明治以降と聞きます)。今では七歳の女の子が大人の仲間入りは早すぎる気がしますが、当時の大人に成り立ての女の子の”怖いこと”とは何でしょうか。どうも、人さらい、のような気がします。人さらいへの警告と注意が、このわらべうたに託されたのではないでしょうか。・・・全く確証はありません。ありませんが、そんな気がします。
三芳野神社・・・
川越城に隣接する神社。太田道真・太田道灌親子によって築城された時、この神社は城内天神曲輪にあった。その後城主が何人も変わり、徳川の時代になって、藩主が酒井忠勝の時、家康の命で現存の社殿が造営された。この時に神社は城外に区分されたようだ。以後三芳野神社は、喜多院、仙波東照宮とともに幕府直轄の神社となった。あと何度か改装で手直しをされている。
この天神さまにお参りするには川越城の南大手門より入り、田郭門を通り、富士見櫓を左手に見、さらに天神門をくぐり、東に向かう小道を進み、三芳野神社に直進する細道をとおってお参りしなければならなかった。・・・また、一般の参詣客に紛れて密偵が城内に入り込むことをさけるため、帰りの参詣客は警護の者によって厳しく調べられた。そのことから「行きはよいよい、帰りは怖い……」と川越城内の子女の間で唄われるようになり、・・・それが城下に流れ、武士や僧侶、町人たちによって江戸へ運ばれ、やがて全国へ広まって行ったものである。
この ”通りゃんせ” のわらべうたの成立が、室町時代の太田道灌以前とすると、城がないので、この説は矛盾します。また、江戸時代前(1590)酒井忠勝は城と神社は敷地を分けていたので、江戸時代もこの説は成立しません。しかし、わらべうたの七つの祝いは江戸時代からはじまっている。とすれば・・・密偵が城内に入り込むことの警護の説は、矛盾だらけで成立しません。
川越城の改築は、酒井忠勝の時と知恵伊豆の松平信綱の時と江戸時代に二回ありました。本稿では状況から、酒井が城主の時としましたが、知恵伊豆の時の可能性も少しあります。
また、七つの祝いが、儀式として定着するのは、将軍綱吉野時代で、我が子徳松の三歳の髪置きの祝いを暦を選んでこの日に行ったことによって、以後、髪置き、袴着、帯解の祝いを十一月十五日にするように布令しました。・・帯解の祝いが、女の子の七つの祝いです。
そうすると・・・
七つの祝いで、大人になりかけた女の子が、人さらいにさらわれるのを、”こわい”からと注意し、警戒するようにと、祈りを込めながら歌に託したとする説は、かなり信憑性を帯びてきます。天神様にも警護を御願いしているのかも知れません。

歌にある参詣道・・いまでは細道ではないが・・・
『七歳までは神の子』・・・七五三の縁起
昔子供が成長してくると、髪形を整え、男児は雄々しさを示し、女児は大人びてみせるなど、いずれも命あやうい幼児期を通過して少年少女期に移ったことを意味します。これらは、子供の無事成長を神に感謝するだけでなく、この儀式を経ることによってようやく地域社会から一人前の人格と認められるきっかけとなっていたようです。つまりデビューです。今のように小学校の入学式などなく誕生日というものもない時代、氏神に詣でることによって氏子帖に記載され、世間に一人前の「子供」として認知される儀式として昔から盛んでした。
『七歳までは神の子』といわれ、生まれた子が生育する期間は霊界から人間界に入ってくる過程と考えられていました。乳幼児の死亡率が高く、七歳まで育たなかった子は霊界に戻すものとして本葬儀を行わなかったというほどです。また人別帳(戸籍簿)への届け出もだいたいこの年齢前後にされていました。したがって特に「この子の七つのお祝いに」は幼年期最後のもっとも大切な行事とされていました。
・・・・・お札を納めにまいります・・というのは、神社(氏神)の氏子帖に登録して貰う、名前を書いた ”お札”ということになります。
隣接する川越城本丸後
季節の花・・・さるすべり・・
川越城は別名「初雁城」と言われています。
三芳野は川越の昔の呼び名です。
・・・童謡ともわらべうたとも違うが、似て非なるものに唱歌があります・・猪瀬直樹著の『唱歌誕生』(文春文庫刊)。・・たぶん、猪瀬のこだわりの部分で、政治的発信とは違うものを感じます。・・ いい内容 に思えます・たぶん・・・。
住所:川越市郭町2-25-11