第2公園梅林・・
今年も・・「陶器市」開催・・中
「梅まつり」同時開催・・
混じって・・蝋梅が・
金子兜太 逝く・・Condolences
哀悼の意・(Condolences)
金子兜太 埼玉県出身の俳人。海程」創刊、主宰。小林一茶、種田山頭火の研究家。98歳。
五年ほど前のこと、妻の病明けに秩父・札所を廻ったことがあった。秩父・札所は、全部で三十四か所、その最後を締めくくる「三十四番」が水詮寺という寺であった。三十四番全てを廻りきると、満願成就ということで「満願の湯」という温泉宿も近くにはあった。滝(秩父華厳の滝)も、近くにあった記憶がある。
水詮寺境内にあった句碑が強烈だった。
画:
○ 曼殊沙華 どれも腹出し 秩父の子 --兜太
・野性的で、生命力に溢れる、土着的な逞しさ、-- そして妙に明るい・
以前から、名前と業績だけは知識として知っていたが、以来ファンになった。
・「水潜寺 水くぐりの岩戸が・ 札所三十四番 ・・・秩父巡礼」2013-09-16
その他:
○ 谷の鯉 もみあう夜の 歓喜かな -- 兜太
・「氷川神社の鯉!?」2016-02-22
・多少エロティックで、生命力がほとばしって、--- これもいい・
広徳寺:大御堂・
「平家物語」弓流(その3) ・・・ 水尾谷(みをのやの)十郎(じふらう)は、御方の馬(むま)の陰に逃げ入つて、息継ぎ居ゐたり。敵(かたき)は追うても来ず。その後兜の錏(しころ)をば、薙刀(なぎなた)の先に貫き、高く...
◇:水尾谷十郎は、頼朝に仕えた「鎌倉武士」であるらしい。頼朝が、蜂起した際に。(平良文流)河越氏とともにいち早く頼朝の許へ駆けつけた関東武士の一人・
水尾谷は、「水尾屋」とも、十郎は「四郎」ともいう書もあるが、名は「広徳(光徳)」ともいう。
◆:尾谷は、近くを流れる「越辺川」(あるいは吉野川)の流域ではなかろうかと仮設する。もっと下流域に、古尾谷という地籍名が残り、後に古谷と変わったという。
・もしや、と思い、「越辺川」のことを古に「尾辺川」と書いたかも?と思い、あるいは「水尾谷」のことを「水越谷」と書いたかも、と尋ねてみたのだが・・むなしき結果を見るに至る。
◇:広徳寺:大御堂は、この「水尾谷十郎広徳」の住居跡ではないかと比定されている。広徳の名を借りて「広徳寺」・
◇:案内板・
◆:かぜ凪て 寺屋根のさぎ 羽やすめ・
大御堂・・
於:比企郡川島町表76
松山城・跡
承前 ・--- 川島・道祖土氏
吉見百穴というのがある。大陸の墓の様式だそうだが、だとすれば、この地方の古代は渡来人の郷ということになる。
その百穴への引き込みの道路の反対側が険しい懸崖になっており、岩室観音堂があり、「観音像」が安置されている。この岩室観音堂の背景地が松山城跡になっている。
岩室観音堂から松山城跡地に行くことは出来るようだが、かなり難儀のようなので、舗装の坂道を観音堂を裏手に回り込んで入って、松山城跡へ上る。
入り口付近にある「案内板」
武蔵国中原の要衝・・
・松山城の築城は、扇谷上杉氏の部将・上田氏・
・当初は、下総国古河の古河公方と上野国の山内上杉氏に対する鼎立抗争の前線拠点・
・その後、膨張する小田原・北条氏に対する拠点となった。河越城が北条氏綱によって攻め落とされ、さらに松山城も攻撃を受けたが、城主・難波田憲重らが撃退し、松山城は上杉朝定の居城となったが、やがて小田原北条に敗れる。その後も小田原北条の軍門に下るを潔しとしない大田資正らが、上杉謙信の力を借りて、松山城を奪還する・・その後も・・・
川島・道祖土氏
承前・(・道祖土神明社)
『新編武蔵風土記稿』には、次のような説明がある。---・
---・岩槻城の城主・大田氏の家臣に「道祖土氏」があり、道祖土氏が住居したゆえの地名であろう。---・場所は、むかしは三室の一部であり、今では道祖土の一部は「大東」という地名に変換しているようだ。---・「按ずるに比企郡上八ツ林村の農民治部右衛門は道祖土を氏とせり。其の祖先道祖土土佐守は、岩槻の城主太田美濃守に仕へしと云へり。これを見れば此所より岩槻は程近きところなれば、若しくは此の人など爰に住せし事ありて、それにより起こりし村名なるも知るべからず。」---・
時代背景を見てみよう。
「岩槻の城主太田美濃守」とあるが、太田資正のことと記録に残る。太田資正は1522年に生まれ、通称は太田源五郎。太田美濃守、太田民部大輔、晩年は太田三楽斎道誉と号す。太田道灌の孫にあたる。
太田資正の頃、小田原北条が膨張して、河越を拠点とする「扇谷上杉」を脅かし始めている。伊勢原で、道灌が北条に謀殺されていることを考えると、軋轢はもっと前ということのようであるが・大田家は、「扇谷上杉」の「家宰」の家筋であり、もとは横浜(都築郷太田庄)の守護代の家柄であったらしい。「家宰」を翻訳すると「家老」という意味が出てくるが、関東管領という職務を前提にすると、知行地の実務代行者の意味を加えて、家老よりも広い意味だろうと思う。
河越城の戦歴は、
1:)天文6年(1537):扇谷上杉,北条氏綱によって負ける:北条の持ち城
2:)天文14年(1545):関東管領上杉憲政が河越城を包囲。:膠着
3:)天文15年(1546):北条氏康、夜襲:奇襲で北条勝利
図:養竹院:太田道灌の陣屋跡:川島町
・川島町史によれば、岩付・大田氏は、道灌の時代には、江戸から川島へ移リ住、後に岩付に移ったとしています。痕跡を辿れば信憑性があるようです。
扇谷上杉を主君持つ大田美濃守は、戦いに敗れたが、小田原北条の軍門に下ることを潔しとしなかったらしい。
この、小田原北条への反抗の豪族は、大田美濃、寿能城の潮田氏、富士見・南畑の難波田氏等であった。反攻の拠点を松山城と定めて、それまでは仲間だった松山城の上田氏を追って城をとり、拠点とした。
この時、大田美濃の家臣だった道祖土氏は、川島郷の居を移して松山城の大田美濃や難波田氏を支えた。
以後、道祖土氏は、川島・八林の住人となり、大田美濃が破れて片野へ逃避するも同行せず、その地の豪農になったという。
図:道祖土家地図:川島町・八林郷付近
図:善福寺:道祖土家菩提寺
図:道祖土家文書跡:/図:道祖土家文書
道祖土家文書は、埼玉文書館に寄贈・管理されています
道祖土氏は、馬上1・鐘打ち1・旗持1というから、かなり小さい家臣団の一人だったと推測される。戦争となれば、扶持無しの近在の小作・雑兵が5~15人が集団化する軍団だろう。雑兵は、一旗組なので不利と見れば離散する。道祖土氏は、三室から移住することによって、大豪農になったようだ。
それよりも貴重なのは、道祖土家には、主君・大田家からの指示書や軍役の招集状や功績に対する感(謝)状などがかなり残されており、当時の中級武士の生態などを鮮明に明らかにしてくれる古文書の類が残されているようだ。
・難波田氏 ・武蔵七党の金子党の系譜、岩付・大田氏の縁戚(寿能城の潮田と義兄弟?)大田美濃とともに松山城を守り後北条(小田原北条)と対抗。
・上田氏 ・東秩父の日蓮宗浄蓮寺が菩提寺。松山城主を追われて浄蓮寺に隠棲します。この地は、武蔵7党の丹党の大河原氏館跡と推測されており、上田氏も一族か?と・
・道祖土氏の系譜は、川島で生活しています。大田氏家臣・道祖土氏は、道祖土氏(代官・豪農)の陣屋は、跡地となっています。現在の道祖土氏宅は、昔の陣屋と違うので、慎みとして探索は不可としましょう。
道祖土神明社
神社分類で特にややこしいのは「神明」と「明神」の分類である。自身の出自の田舎に、一族の氏神様「おしめんさま」があり、神明神社を管理していたからだろう。「おしめんさま」の存在がなければ、「おしめんさま」が「神明社」のことであることも関心も持たずに過ごしたのだろうと思う。
「おしめんさま」の、間違いなく「お(御)・神明・さま」に他ならないからであり、「アマテラスオオミカミ=天照大神」のことを祀った神社だからである。
従って、明神よりやや神が具体的なのであり、狭義でもある。鳥居の形にも、違いが表れるが、まず内容の違いを理解することから始めた方がいい。
せっかくだから、分類を以下に示す。
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1:明神(みょうじん)―神社一般
2:神明(しんめい) ― 伊勢信仰系 ― 天照大神
3:天神(てんじん) ― 天神信仰系 ― 菅原道真
4:天王(てんのう) ― 祇園・八坂信仰系 ― 牛頭天王(スサノオノミコト)
5:山王(さんのう) ― 日枝・日吉神社系 ― 比叡山 ― 天台宗
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「道祖土神明社」というのがある。あまり大きくない・
・
道祖土神明社の道祖土は「さいど」と読む。たまたま、以前に学習していなければ、ほぼ正確に読むことは出来ない。難しい読み方である。
道祖土は、さいたま市緑区のうち・一時は「三室」の一部でもあったし、三室の隣村でもあった。
何故この地名が付いたのかは不詳であり、中世に、岩付城・大田氏の家臣に「道祖土氏」があり、この三室の「道祖土」に住んでいたのも事実である。
この場合、「道祖土」という土地名に住んだので「道祖土氏」と呼ばれたのか、「道祖土氏」という豪族がいて、たまたま住居を構えた土地を「道祖土」と呼ぶようになったのか・これも詳しからず・・
次回は、岩槻城・大田家臣の道祖土氏が、何故川島・八林にに移住したのかを探る?
大圓寺あたり・
東武野田線・七里駅近く(約200m)に大圓寺という寺はある。
案外威風堂々であるが・、建築は古くないようなので、改築されたのだろう。
さて、どんな由来の寺だろうか、と興味がわく。境内に「縁起由来」の碑が建っている。御影石に文字を彫りこんだ、かなり立派なもの・・これも最近のものと見ゆる。
内容は、以下による・
「縁起」によれば、正保年間(1644~)に災い(=火災)にあったのだろう。それで、詳しい記録は焼失したのだという。
開基が「太田資高」で、「陽光院殿」が目立つ建物だから、陽光院(=太田康資の室)の院所だったのだろう。
「大円寺古天明霰釜(市指定文化財工芸品)」という茶釜があるようだが、道灌の供養に参詣した人に、もてなしたもののようでもあるが、道灌は、伊勢原で謀殺されており、ここには慰霊のための「位牌」のみがあったのだろうか。
「鷲嶽山」とあるのは、七里駅周辺は、むかし「鷲神社」の神領で「鷲」という小字名で呼ばれた地名からであろうか?
どちらにしても、風渡野、門前、宮下などの郷村は、戦国期には、岩付・大田家の知行地・領土として存在していたらしい。
太田康資が、河越・扇谷上杉が小田原北条に敗戦した後の武将のようだから、彼の側室・陽光院は、小田原北条ゆかりの人と思える。
大田家が小田原北条に屈した後の物語上の寺なのであろう。