4月29日
龍穏寺の後、黒山三滝を見る
落差10mの男滝と落差5mの女滝
天狗滝と男滝・女滝 越辺川源流部の三滝川
それなりの、見応えはある、がしかし・・・
残念だが、サポートする観光施設がみすぼらしい、汚い。
アクセスの車の駐車場が高いし、案内も不備で・・・どうも負のスパイラルで観光客は減り、更に不採算から、劣化する。
せめて駐車場を整備し無料化して、再アピールしたらどうか。
グリーンラインなど自然の資産が多いのに、もったいない。
4月29日 晴れ、明日の天気予報は雨らしい
七重八重 花は咲けども やまぶきの みのひとつだに 無きぞかなしき
やまぶきの季節
少し時がたてば、この歌の逸話の雨期になる。やまぶきが雨に似合う花だと思うようになったのは、その逸話を知ってからのような気がする。
・・・
ある時雨に降られた道灌は、山里のみすぼらしい民家に雨宿った。出てきた女性は何も言わず、和歌を書いて差し出した、という。その和歌こそが、七重八重・・で始まるやまぶきの和歌で、雨をしのぐ蓑が無いことを、やまぶきの実に例えたのだという。
そして今日、太田道灌に縁があるという龍穏寺にやってきたと言うわけだ。
龍穏寺(りゅうおんじ)
埼玉県入間郡越生町龍ケ谷452
さて、やまぶきだが、付近に自生は少しあるが乏しく、むしろ山藤の方が目立つ。
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龍穏寺近くのこの場所は、やまぶきの逸話の里とは違う気がする。
太田道灌の墓は、分骨されてこの龍穏寺に、父の太田道真とともに眠っている。
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周りは数本のつつじが艶をきそっている。
太田道灌とはいったいどんな人物か、
教科書に載っていた人物像を思い出してみると、まず武蔵野に生まれ、文武両道に優れ、上杉家の家臣として、戦いにも強く、幾つかの城を築き、その城は川越城であったり今皇居の江戸城であったりする。彼の要点は関東管領上杉家の家老と江戸城築城の祖としてであろう。
だが、受験勉強の要点記憶の弊害とでも言おうか、道灌の人物像が少しも浮かんでこない。中高の歴史授業の時、人物の逸話や戦記物の物語でも差し挟んでくれていれば、彼の血や肉を感じられるのだが、道灌だけの事ではないが、いつもそう思う。
少し深掘りして、自分で調べる。
太田道灌は出生してすぐ寺の預けられた。その寺の名が龍穏寺だという。壮年になった時還俗して、上杉家関東管領の家臣になった。時の関東管領の名は上杉持朝 (初代川越城主)だという。そしてたぶん優秀だったのだろう、文武に優れた道灌は、管領家の家宰になった。家宰は家老とほぼ同じ意味だが、たとえば副社長より取締役副社長にちかく、実権は管領と同じくらいあったようだ。そして、太田道灌は生越氏の系譜にあり、生越氏は武蔵七党の児玉氏の一族であった。武蔵七党は歴史書に存在は確認されているが、室町期以降には歴史書から消えた・・消えたかどうかは、私の不勉強からかもしれないが。この頃関東を支配した上杉管領に、調略されたか、敗れたか、すすんでか、家臣団として組み込まれたのではないか、と思っている。太田道灌がいい例の証拠かもしれない。
さて、道灌の生きた時代は、享徳の乱、応仁の乱と続く時代で、上杉家と古河公方は、関東の豪族を二分して争っていた。その中で公方方に、伊勢原で謀殺されて生涯を閉じるわけだが、彼の人格は意外と人間くさく、実務の働きや能力に対し主家の評価が低いことに不平を顕していることが書が散見されるらしい。
それはそうとして、興味が湧くのが武家と寺との関係である。
他でもいくつかの例があるが、太田道灌家と龍穏寺の例を見る時、幼くして危うい時の寺への出家と、年老いて家督を譲った後の出家は、寺がシェルターとして機能していたのではないかと思う。武士は寺を経済的に保護し、寺は武士を危機の時隠匿する。また寺は武士の再生産装置としても機能していたのではないか。これを裏付ける例にいとまはない。相当の勇者が、武装を解き、頭を丸めて寺の入り経文を唱えれば、争う相手は矛先を緩めたのではないだろうか。この視点にたった書は今のところ見えてこない・・これも不勉強のせいでどこかに研究者がいるのかもしれないが。この武士と寺の暗黙のルールを打ち破ったのは織田信長だ。そして寺の僧侶の法衣の下の隠された刃を封じ込み、羊のように馴らしたのは家康であった。
どう見ても、どう読んでも、中世の寺と僧侶はかなり生臭い。ついでながら神社の方も同様に生臭い。
龍穏寺の経蔵の彫刻・・これはすばらしい!
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七重八重 花は咲けども やまぶきの みのひとつだに 無きぞかなしき
やまぶきの季節
少し時がたてば、この歌の逸話の雨期になる。やまぶきが雨に似合う花だと思うようになったのは、その逸話を知ってからのような気がする。
・・・
ある時雨に降られた道灌は、山里のみすぼらしい民家に雨宿った。出てきた女性は何も言わず、和歌を書いて差し出した、という。その和歌こそが、七重八重・・で始まるやまぶきの和歌で、雨をしのぐ蓑が無いことを、やまぶきの実に例えたのだという。
そして今日、太田道灌に縁があるという龍穏寺にやってきたと言うわけだ。
龍穏寺(りゅうおんじ)
埼玉県入間郡越生町龍ケ谷452
さて、やまぶきだが、付近に自生は少しあるが乏しく、むしろ山藤の方が目立つ。
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龍穏寺近くのこの場所は、やまぶきの逸話の里とは違う気がする。
太田道灌の墓は、分骨されてこの龍穏寺に、父の太田道真とともに眠っている。
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周りは数本のつつじが艶をきそっている。
太田道灌とはいったいどんな人物か、
教科書に載っていた人物像を思い出してみると、まず武蔵野に生まれ、文武両道に優れ、上杉家の家臣として、戦いにも強く、幾つかの城を築き、その城は川越城であったり今皇居の江戸城であったりする。彼の要点は関東管領上杉家の家老と江戸城築城の祖としてであろう。
だが、受験勉強の要点記憶の弊害とでも言おうか、道灌の人物像が少しも浮かんでこない。中高の歴史授業の時、人物の逸話や戦記物の物語でも差し挟んでくれていれば、彼の血や肉を感じられるのだが、道灌だけの事ではないが、いつもそう思う。
少し深掘りして、自分で調べる。
太田道灌は出生してすぐ寺の預けられた。その寺の名が龍穏寺だという。壮年になった時還俗して、上杉家関東管領の家臣になった。時の関東管領の名は上杉持朝 (初代川越城主)だという。そしてたぶん優秀だったのだろう、文武に優れた道灌は、管領家の家宰になった。家宰は家老とほぼ同じ意味だが、たとえば副社長より取締役副社長にちかく、実権は管領と同じくらいあったようだ。そして、太田道灌は生越氏の系譜にあり、生越氏は武蔵七党の児玉氏の一族であった。武蔵七党は歴史書に存在は確認されているが、室町期以降には歴史書から消えた・・消えたかどうかは、私の不勉強からかもしれないが。この頃関東を支配した上杉管領に、調略されたか、敗れたか、すすんでか、家臣団として組み込まれたのではないか、と思っている。太田道灌がいい例の証拠かもしれない。
さて、道灌の生きた時代は、享徳の乱、応仁の乱と続く時代で、上杉家と古河公方は、関東の豪族を二分して争っていた。その中で公方方に、伊勢原で謀殺されて生涯を閉じるわけだが、彼の人格は意外と人間くさく、実務の働きや能力に対し主家の評価が低いことに不平を顕していることが書が散見されるらしい。
それはそうとして、興味が湧くのが武家と寺との関係である。
他でもいくつかの例があるが、太田道灌家と龍穏寺の例を見る時、幼くして危うい時の寺への出家と、年老いて家督を譲った後の出家は、寺がシェルターとして機能していたのではないかと思う。武士は寺を経済的に保護し、寺は武士を危機の時隠匿する。また寺は武士の再生産装置としても機能していたのではないか。これを裏付ける例にいとまはない。相当の勇者が、武装を解き、頭を丸めて寺の入り経文を唱えれば、争う相手は矛先を緩めたのではないだろうか。この視点にたった書は今のところ見えてこない・・これも不勉強のせいでどこかに研究者がいるのかもしれないが。この武士と寺の暗黙のルールを打ち破ったのは織田信長だ。そして寺の僧侶の法衣の下の隠された刃を封じ込み、羊のように馴らしたのは家康であった。
どう見ても、どう読んでも、中世の寺と僧侶はかなり生臭い。ついでながら神社の方も同様に生臭い。
龍穏寺の経蔵の彫刻・・これはすばらしい!
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4月28日 晴れ、微風
さいたま市大宮の慶応大学薬学部となり
見沼自然公園の池
見沼自然公園のハンカチの花
見沼自然公園。
ハンカチの木に花が咲いた。といっても少しだけ違う。
ハンカチのような白い花は、実は花をおおう白い葉っぱで、実際の花は、ハンカチ上部のつぶつぶ状の球体らしい。ハンカチを包葉とよぶらしい。
ハンカチの木は、比較的めずらしい部類だそうだが、ここには2本生えていて、望遠カメラの趣味人が3人撮影していた。
イギリスではハンカチの木を鳩の木(DoveTree)と言っているそうだが、どうも鳩には見えない。むしろ、日本の別名の幽霊の木の方が、薄明かりで見れば言い得ているかも。
隣接も、公園
さぎやま公園という。
見沼用水を挟んでの隣接で、こちらの公園では、池で釣り人が15人ぐらい糸を垂れていた。フナが釣れるらしい。そういえば、藤も咲いていたが、今は花の季節。
さいたま市大宮の慶応大学薬学部となり
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見沼自然公園。
ハンカチの木に花が咲いた。といっても少しだけ違う。
ハンカチのような白い花は、実は花をおおう白い葉っぱで、実際の花は、ハンカチ上部のつぶつぶ状の球体らしい。ハンカチを包葉とよぶらしい。
ハンカチの木は、比較的めずらしい部類だそうだが、ここには2本生えていて、望遠カメラの趣味人が3人撮影していた。
イギリスではハンカチの木を鳩の木(DoveTree)と言っているそうだが、どうも鳩には見えない。むしろ、日本の別名の幽霊の木の方が、薄明かりで見れば言い得ているかも。
隣接も、公園
さぎやま公園という。
見沼用水を挟んでの隣接で、こちらの公園では、池で釣り人が15人ぐらい糸を垂れていた。フナが釣れるらしい。そういえば、藤も咲いていたが、今は花の季節。
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ときどり・・・
時鳥・不如帰・杜鵑・・あるいは ほととぎす とも
中国の詩人に杜甫という人がいたことを思い出す。ただし漢詩は思い出せない。
信長と秀吉と家康の性格を時鳥を使って顕した人がいた。
この頃、漢文混じりの本を読む機会があって苦労している。
喫茶店での談話とも独白ともとって欲しい。
最近のアメリカナイズしたコーヒーは余り馴染めない。
1970年前後の大学生は、喫茶店は読書の場であり、ジャズやロックを聴く音楽室であり、冬は暖まり夏は涼み、仲間と話す応接間であった。あの時代の中に確実に僕はいた。
最近、また当時風の喫茶店がはやり始めた噂を聞いた。あの、香ばしい香りが懐かしい。
谷村新司は昔風の喫茶店を好むという。長野や松本には、そんな喫茶店がまだ数多く残っているという。ラジオでの話である。
「まりも」も「翁堂」もまだあるのだろうか。「アミ」は無くなったと聞いたが。
時鳥・不如帰・杜鵑・・あるいは ほととぎす とも
中国の詩人に杜甫という人がいたことを思い出す。ただし漢詩は思い出せない。
信長と秀吉と家康の性格を時鳥を使って顕した人がいた。
この頃、漢文混じりの本を読む機会があって苦労している。
喫茶店での談話とも独白ともとって欲しい。
最近のアメリカナイズしたコーヒーは余り馴染めない。
1970年前後の大学生は、喫茶店は読書の場であり、ジャズやロックを聴く音楽室であり、冬は暖まり夏は涼み、仲間と話す応接間であった。あの時代の中に確実に僕はいた。
最近、また当時風の喫茶店がはやり始めた噂を聞いた。あの、香ばしい香りが懐かしい。
谷村新司は昔風の喫茶店を好むという。長野や松本には、そんな喫茶店がまだ数多く残っているという。ラジオでの話である。
「まりも」も「翁堂」もまだあるのだろうか。「アミ」は無くなったと聞いたが。
4月27日 夜明け前・・・朝まで生TVをみた、・・この番組は比較的好きだ。
知らないWEB用語が飛び交い、よく分からない部分もかなりある。時代が次のステージに向かっているのかもしれない。
気になる語彙が幾つかあった。安倍総理、麻生副総理、北朝鮮、尖閣問題、戦争責任、靖国神社参拝、などなど。政治問題についてコメントする勇気はない。
違った角度から二点。
靖国神社。・・・
もともと神社仏閣は余り好きでなかったが、妻が神社にある大木が好きで、アッシー君としてお供をするうちに知識を得、疑問な点は調べる様になり、少し分かるようになった。その知識からだと、靖国神社はどうも異例な存在である。
神社には、たぶん大きさから、神宮、大社、神社、宮などがあるようだが、祀ってあるご神体は様々であるらしい。それは、石であったり玉であったり、鏡や剣や木や山や、あげくに那智神社のように滝の例もあるという。数の多い氏神神社は、基本は田の神で祖先が同等に捉えられ、神明神社となった。神明神社と伊勢神宮と同じ系統であるらしい。地方では、呼び方が最初お神明さまといい、のちになまって、おしめんさま、あるいはおしめんさんになったという。これらの神々は大変仲が良く、八百万の神として、どうも反目はないようだ。先日アニメで有名になった鷲宮神社を訪ねた時も、本殿の脇には祠を小さくした色んな神社があった。神々の同居である。
思うに、神社とは、永年を耐えた自然の重みをご神体にし、その生命力を、時々の季節節目行事のとき、分かち貰うために存在し、ゆえに人生の節目に、例えば幼児期の宮参りや厄年の厄払いの時に参詣するのだろう。ある時千木(チギ)を見て天からのテレパシーの受信機なのでは、と思ったことがある。だがそんな霊的ものでなく、穀物の倉庫の穀倉の建築様式の応用だと知った。要は神社は、生きることを謳歌し繁栄を願うためのもので、よく神社はパワースポットだという意味が分かる気がする。ついでだが、社(建物)は参詣する場所であって、ご神体を祀ってあるところではない。この様に思うに至り、昔陰鬱な感じで好きでなかった神社は、今は特に嫌いでもない。神社は、ひとえに人間の「生きる」をサポートするところで、黄泉の世界を感じさせる様な世界観はない。ここが、寺と根本的に違うところのように思う。
しかるに、靖国神社は、他の神社と違って、寺のように戦死者の墓のような取り扱いで、本来と違い、どうも政治的なにおいがしてくる。
麻生副総理。・・・
この人の人柄は嫌いではないが、時々舌禍で問題を起こす人らしい。要は正直な人なのだろう。だが、政治の要職ともなると、この愛すべき人柄も看過出来なくなる時がありそうだ。
安倍総理を生み出した自民党総裁選挙の時、安倍さんの応援団の中心にいた麻生さんは、人気で若手のホープの石原伸晃さんを、まるで明智光秀のようだと評した。谷垣さんの直属の部下が、上司を押しのけての立候補を評した言葉であった。だが、これで流れが変わり、石原さんの人気が落ち、阿倍さんの優勢が決まった。実際はもっと複雑だったろうが、僕のみならず、の感想であろう。この一般論の感想の枠を出たコメントをするつもりはない。
だが、実際の明智光秀は麻生さんが思っている明智光秀像であったのだろうか。
その頃、織田信長は、伊勢長島の一向一揆衆と比叡山や高野山の僧兵を、世界でも類を見ないくらいの大量虐殺を行っていた。比叡山や高野山には多くの公家の子弟や戦国大名の子弟が、僧侶になっていたと言う事実が数多くある。室町中期あたりから嫡子相続が当たり前になり、家督の相続が出来なくなった公家や大名の次男三男などは僧侶になることを選択した例はかなり多い。信長の虐殺を見て、これはたまらんと思い、京都公家衆を中心に、戦国大名の中で一番近かった明智光秀に事態の打開を懇願した、というのが一番真実に近いのではないだろうか。その後明智が秀吉に敗れ、災いが及ぶのを恐れた京都公家衆は口を噤み、証拠を隠滅したので、一部の証左しか残らなかった。
歴史は常に勝者の歴史である。
知らないWEB用語が飛び交い、よく分からない部分もかなりある。時代が次のステージに向かっているのかもしれない。
気になる語彙が幾つかあった。安倍総理、麻生副総理、北朝鮮、尖閣問題、戦争責任、靖国神社参拝、などなど。政治問題についてコメントする勇気はない。
違った角度から二点。
靖国神社。・・・
もともと神社仏閣は余り好きでなかったが、妻が神社にある大木が好きで、アッシー君としてお供をするうちに知識を得、疑問な点は調べる様になり、少し分かるようになった。その知識からだと、靖国神社はどうも異例な存在である。
神社には、たぶん大きさから、神宮、大社、神社、宮などがあるようだが、祀ってあるご神体は様々であるらしい。それは、石であったり玉であったり、鏡や剣や木や山や、あげくに那智神社のように滝の例もあるという。数の多い氏神神社は、基本は田の神で祖先が同等に捉えられ、神明神社となった。神明神社と伊勢神宮と同じ系統であるらしい。地方では、呼び方が最初お神明さまといい、のちになまって、おしめんさま、あるいはおしめんさんになったという。これらの神々は大変仲が良く、八百万の神として、どうも反目はないようだ。先日アニメで有名になった鷲宮神社を訪ねた時も、本殿の脇には祠を小さくした色んな神社があった。神々の同居である。
思うに、神社とは、永年を耐えた自然の重みをご神体にし、その生命力を、時々の季節節目行事のとき、分かち貰うために存在し、ゆえに人生の節目に、例えば幼児期の宮参りや厄年の厄払いの時に参詣するのだろう。ある時千木(チギ)を見て天からのテレパシーの受信機なのでは、と思ったことがある。だがそんな霊的ものでなく、穀物の倉庫の穀倉の建築様式の応用だと知った。要は神社は、生きることを謳歌し繁栄を願うためのもので、よく神社はパワースポットだという意味が分かる気がする。ついでだが、社(建物)は参詣する場所であって、ご神体を祀ってあるところではない。この様に思うに至り、昔陰鬱な感じで好きでなかった神社は、今は特に嫌いでもない。神社は、ひとえに人間の「生きる」をサポートするところで、黄泉の世界を感じさせる様な世界観はない。ここが、寺と根本的に違うところのように思う。
しかるに、靖国神社は、他の神社と違って、寺のように戦死者の墓のような取り扱いで、本来と違い、どうも政治的なにおいがしてくる。
麻生副総理。・・・
この人の人柄は嫌いではないが、時々舌禍で問題を起こす人らしい。要は正直な人なのだろう。だが、政治の要職ともなると、この愛すべき人柄も看過出来なくなる時がありそうだ。
安倍総理を生み出した自民党総裁選挙の時、安倍さんの応援団の中心にいた麻生さんは、人気で若手のホープの石原伸晃さんを、まるで明智光秀のようだと評した。谷垣さんの直属の部下が、上司を押しのけての立候補を評した言葉であった。だが、これで流れが変わり、石原さんの人気が落ち、阿倍さんの優勢が決まった。実際はもっと複雑だったろうが、僕のみならず、の感想であろう。この一般論の感想の枠を出たコメントをするつもりはない。
だが、実際の明智光秀は麻生さんが思っている明智光秀像であったのだろうか。
その頃、織田信長は、伊勢長島の一向一揆衆と比叡山や高野山の僧兵を、世界でも類を見ないくらいの大量虐殺を行っていた。比叡山や高野山には多くの公家の子弟や戦国大名の子弟が、僧侶になっていたと言う事実が数多くある。室町中期あたりから嫡子相続が当たり前になり、家督の相続が出来なくなった公家や大名の次男三男などは僧侶になることを選択した例はかなり多い。信長の虐殺を見て、これはたまらんと思い、京都公家衆を中心に、戦国大名の中で一番近かった明智光秀に事態の打開を懇願した、というのが一番真実に近いのではないだろうか。その後明智が秀吉に敗れ、災いが及ぶのを恐れた京都公家衆は口を噤み、証拠を隠滅したので、一部の証左しか残らなかった。
歴史は常に勝者の歴史である。