ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

大和田・鷲神社

2017-12-30 21:55:15 | 神社・仏閣

大和田・鷲神社

大和田・鷲神社は「おおとり・神社」と読む
◇:鷲神社:さいたま市見沼区大和田町2-462

どうやら、浅学ゆえに「わし・神社」と思い込んでいたが違うらしい。
正しくは「おおとり・神社」とよむらしい。
あまた、人口急増の著しい地区は、新参は読みやすい方に読んで、「わし・神社」が定着しているのかもしれないが、本来とは違うのでは・・。
この例は、近在の「猿花キャンプ場」の「猿花」の言葉の変遷でも見て来た。

参考:猿花 ☚(クイックしてください)


文献を漁ると、久古は「おおとり=鷲」は白鳥(鶴を含めて)を指していたというが、
   いつの間にか「おおとり」が「鷲」という鳥類種目の意味に変わったようで、       
       鷲神社が祀るのはもとより「白鳥」のことである。                      

---- 伝承・伝説 ・古事記/日本書記の記述をもとにした伝承
  ・鷲神社は日本武尊をお祀りした神社です。現在は「おとりさま」として一般にも親しまれ崇敬を集めており、また十一月の例祭も現在は「酉の市」として広く知られています。 ---天照大御神が天之岩戸にお隠れになり、天宇受売命が、岩戸の前で舞われた折、弦という楽器を司った神様がおられ、天手力男命が天之岩戸をお開きになった時、その弦の先に鷲がとまったので、神様達は世を明るくする瑞象を現した鳥だとお喜びに---「稲穂を持つ鷲」のレリーフ---この鷲のレリーフは「鷲が稲穂を持って飛来し、そこから日本の稲作は始まった-とする伝説」に因むものと思われ---なお、この伝説は出雲系の天穂日命とその子、天夷鳥命(、別名・天鳥舟命、武夷鳥命=鷲大明神)に拘わるもの---伊雑宮の御料田: 三重県志摩市磯部町上之郷:皇大神宮(伊勢の内宮)の別宮伊雑宮の御料田は、「真名鶴の穂落とし(鶴が稲穂を銜えてきたとの)伝説」に因んで日本の稲の発祥地とされています。---真名鶴の穂落とし伝説

-----日本武尊の白鳥伝説---この日本武尊の霊魂ともいえる大白鳥は、大和にいったん降りたもののすぐに飛び立って日本の各地に現れ、飛来地で稲作が始まった、との伝承も多く残っています。--- 一般に白鳥の飛来地は肥沃な湖沼地など低湿地で稲作に適した地形が多く、早くから水田耕作が行われている地でもあります
-----

近年、鷲宮町の「鷲宮神社」は、神社の持つ宗教性からではなく、
   「らす・きた」というアニメで有名になり、
       アニメの聖地になっているという。


       
・ここの「鷲神社」は、鷲宮町・鷲宮神社から勧請された、とあり。
・まだ、見沼が”御沼”とよばれていて、水を蓄えた沼であった頃の話である。
・”御沼”の浅瀬には、越冬の”白鳥”が来ていた、と想像できるが、確証と思っているわけではない。

 

この見沼縁には、もう一つの「鷲神社」があるが、創建はほぼ同じ理由であろうが、確かめる術はない。
◇:鷲神社:さいたま市緑区南部領辻2914


◇:酉の市のこと
この「おおとり:大鳥/鷲/鷲宮:神社」を起因とするものに「酉の市」がある。
・発祥は、関東の人口集積の多い、「おおとり:鷲神社」の参詣道で始まった。
・時期は、五穀の収穫が終わって豊穣を祝う・新嘗祭の後 ・・
・余剰の五穀と生活必需品の物品交換から始まった。・・・「市」の原型・成立である。
「酉の市」は、この後まず各地の「鷲神社」へ波及し、
・次に、「鷲神社」の参詣道の限定を緩めて拡大し、人の集まる大きな神社・参道や仏閣・境内に拡散・・

・時期も、新嘗祭の縛りを外れ、収穫の終わった年内に広まった。

・扱うアイテムも、「熊手」に加えて様々な露天商を伴った。
・・ 大宮・氷川神社などの「大湯祭・十日市」なども本来の歳時に「酉の市」が加わった形です。

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越冬!白鳥・  50羽越え -越辺川・川島白鳥飛来地・

2017-12-27 02:58:28 | 草・木・花 風に吹かれて


越冬!白鳥・  50羽越え -越辺川・川島白鳥飛来地・

鴨と仲良く!


羽を広げたり!

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長島家の”稲荷神社”

2017-12-24 02:10:01 | 神社・仏閣

長島家の”稲荷神社”

この神社の由緒には、


 -----
・「伊勢・長島の一向一揆」で織田軍に攻め落とされた長島家と郎党の三家が落ちた先・ここで、絆で創建した神社だそうである。

・信長の伊勢・長島の一向一揆だから、1566年のこと。逃避行は、はじめ「足利」後「岩槻・慈恩寺」、そして領内の当地に帰農したようである。
・神社の主祭神は「倉稲魂命」とあり、稲荷社である。つまるところ、「稲」の精霊であり、伊勢神宮と通じるところ・
・長島家は、この地の「世襲名主」になり、「大長島」と呼ばれた。
・江戸期には、この神社は「郷社」となり郷村の氏子を抱えた(明治期は村社)。
 -----
名は、「稲荷神社」または、地名をとり「新堤神社」という。
    --- さいたま市見沼区大字新堤109
    

    

大長島・分家、  ---長島家

たまたま、そこのご主人が農作業していた。
少し、立ち話をして下さった。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ・本家筋の「大長島」は、没落して、今は痕跡を残していない。
 ・かつては、少し高台に大屋敷があり掘割もあったが、今は住宅に変わっている。
 ・長島家及び郎党・松本家、柳沢家は伊勢・長島が出自であるが、信長に追われた。
 ・伊勢・長島家は織田に反目したが、特に浄土真宗の宗派とは聞いていない。
 ・織田から隠れたとき、岩槻・慈恩寺の僧侶となって過ごしたようだ。
 ・家系図はあるは、「源氏流」である。
 ・伊勢及び一向宗との繋がりを示す資料は、寺に預けたが、消失したか、残っていない。
 ・などなど・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
深堀出来れば、面白そうだが無理かもしれない、と思った。


◇たわごと・・など

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

長島はどこ?のこと
・木曽・長良・揖斐の三川に囲まれたデルタ地帯にある長島。
・桑名の地籍。尾張のとなり・。願証寺という本願寺系のお寺があり。

「長島一向一揆」で気が付いたこと・
・それまでは、信長の一向一揆に対しては、その残虐性ばかりの印象でした。

ですが・
・弟・織田信与が先に一向一揆側に自害に追い込まれたこと。
・信長が先に攻めたわけでないこと(一向一揆側が先制して織田軍を攻撃した)。
・信長は、この弟・>織田 信与(=信與とも)を信頼していた。--・ので憎悪が増幅・
・あの虐殺に至るには、「前振り」で憎悪が高まっていたという経緯があったのですね。

「長島・一向一揆」への信長の3回にわたる侵攻で、
・一次、二次とも一向一揆側が優勢だったんですね!
・三次は、信長側の残虐性が強調されているのですが、信長側の被害もすさまじいものだったのですね!

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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見沼の秋・ メタセコイヤの並木道・

2017-12-09 19:58:29 | 草・木・花 風に吹かれて

見沼の秋・

メタセコイヤの並木道・

曙杉:Metasequoia
-----  さいたま緑のトラスト運動 - 埼玉県
第1号地. 見沼田圃周辺斜面林. さいたま市緑区南部領辻.
第2号地. 狭山丘陵・雑魚入樹林地. 所沢市上山口. 「トトロの森」
第3号地. 武蔵嵐山渓谷周辺樹林地. 嵐山町鎌形. 「菅谷の館周辺」
第4号地. 飯能河原周辺河岸緑地. 飯能市矢颪.「飯能河原」.など-- 全14ヵ所
・首都に近い埼玉が、首都通勤の住宅地として、あるいは首都近郊工業集積として、土地開発のもとに自然が破壊されていったが、自然の残る景勝地を、開発から自然を残す-・さいたま緑のトラスト運動 ・-として始まった。埼玉でも、地域全体が山岳丘陵である秩父地方は、ほぼ全体が自然であることから、対象外・
-----
メタセコイヤの並木道・は、
この緑区南部領辻(上野田)から三室・宮本までの道路の、曙杉の並木道 
・・見沼田んぼのど真ん中の道路。

見沼大橋から見た 「メタセコイヤ」・



色ずく並木・

 

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水面に映った逆さ銀杏!

2017-12-05 19:55:48 | 草・木・花 風に吹かれて

水面に映った逆さ銀杏!

岩殿観音、観音堂前 ・・
器は、外置き香炉とよぶべきか?天水桶とよぶべきか?
観音堂の手前の香炉の水面に、銀杏は映えた!



映った「逆さ銀杏」である。

通称・岩殿観音、正式名称:正法寺(東松山市)。
---・鎌倉幕府・北条政子の守り本尊だという、説・。


      

正法寺の秋・銀杏の色付き・落ち葉・・



正法寺・紅葉

 



敷き詰められた銀杏絨毯は、疎ら・・
実は、2016年12月初頭・大雪のため、
   正法寺・大銀杏の枝は、大雪の雪の重さで折れた。
以後、積もる落ち葉の重ねが減った。

2017・12月 (今年)↓


2015年12月のブログより・
当時の銀杏落ち葉・ ↓

 

 

 

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毛呂神社 あり

2017-12-04 02:02:40 | 神社・仏閣

毛呂神社あり。

--- ・毛呂神社が記憶に残ったのは、先輩のブログからです。
神社前に、無人の野菜直売所があり、とにかく安いので記憶に残った。機会があればと、思っていた折、例年の「岩殿観音の大銀杏」の落葉の季節になり、足を延ばして見たわけである。

地籍:鳩山町熊井1742。・---


さて、毛呂神社なのだが・--
類例の名前の神社の覚えがあまりない。
田畑の農村風景の中の三差路の野菜直売所の向かいに、蹴上がり山林があり、鳥居の奥に参詣道が通じていた。

上ること約1Km、・・勾配がきついので息が切れるが、先に神社・社格が現れる。社格の脇が駐車場なのを見ると、どうやら鳥居を潜って、車でも上ることが出来そうである。社格の年代は、やや新しそうであり、舞台がある。このぐらいの規模の小さな神社で、能の舞台は珍しい、と思いきや、これも余り類を見ない「お囃子」の舞台のようである。




創建など詳しからず。
伝聞によれば、毛呂・臥龍山の出雲伊波比神社を勧請したとされる。別当は、西にすこし行ったところの西福寺らしい。西福寺の記録には、この神社は江戸時代2度の火災により建物・古文書は焼失、とあり、社格が新しいのは再建の故であろう。明治維新に近在の神社を併合したとあるので、熊井の村社でもあろう。
 ・--- ここの、かなりの部分は推測である。
神社の創建の歴史は、中世に関わる事例がかなり多い。毛呂神社の勧請元となった「出雲伊波比神社」は、平安期にこの地の統治に派遣された藤原流の傍流の家系で毛呂氏を名乗り、一族の護り氏神として神社を創建した。傍流としたのは、正流ならば春日神社だろうという、基準からであるが、。毛呂氏は、鎌倉期に「毛呂郷」一帯の地頭を務めた豪族で、頼朝の「御家人」であったことが古書の記載で確認できる。


鎌倉道の保安・
苦林、今宿、笛吹峠、大蔵、菅谷は、鎌倉上道のルートであったという。熊井は、今宿と笛吹峠の間・--


この点線の部分は、どうやら確定のルートではなく、推定のルートのようで、歴史的な証左が少ない部分のようで、大きくズレてはいないが、小さくズレている可能性がある。苦林から今宿を通て笛吹峠までの間の比定が不安定のようです。
鎌倉時代、街道の保安は、御家人の大きな任務であったようです。大蔵と菅谷は、有名な畠山重忠が、鎌倉上道を管理したようですが、その手前の毛呂郷は毛呂一族の領地だったようで、当然毛呂郷を通過する鎌倉道の保全は毛呂氏の任務と考えられます。記録の残る古書の類が散逸しているとすれば、他の毛呂氏の文化・遺物を見つけ出して、推測する以外ありません。


八坂神社・考
仏閣は、汎用性が広すぎて証左するには向きませんが、神社は、一族の性格を表す場合があります。例えば、源氏は、鉄産族に関わる「戦いの神様」の八幡神社を守り神にしている例が多いと聞きます。藤原氏の場合は、「素戔嗚尊(=スサノウ)」を祭神にしている八坂神社です。素戔嗚尊(=スサノウ)はイザナミが別名とも、牛頭天王が別名とも言われています。これで、今宿の八坂神社と毛呂の出雲伊波比神社、八坂神社と熊井の毛呂神社は繋がりました。今宿や熊井辺りまで、毛呂一族の支配下の可能性が高いということです。

毛呂神社は、毛呂本郷の毛呂氏の拠点(今は長栄寺)から約8Kmです。
八坂神社は、祇園の護りの牛頭に関係があり、また仏教の祇園に関係が深いとされていて・・
「---・ 祇園商社の鐘の声 ・---」お囃子は、そんなのと関係があるのか、あるいは、・・と、後半は憶測を交えています。

 

もちろん、本来の目的の、 ・・・ 無人「野菜直売所」で野菜も手に入れました。
・白菜 ¥120 ・大根 ¥100 ・里芋 ¥100 なり
---・近くのスーパーで、白菜1/4 ¥130を見ましたので、1玉¥500ぐらいか!大根は1本¥150 里芋はよくわかりませんが、直売所の野菜は安かったのではないかと ・---

 

参考文献・

--- ・比企郡鳩山町熊井(平凡社日本歴史地名大系『埼玉県の地名』591頁)
  
越辺川支流鳩川の流域に位置し、--- (江戸時代)田園簿によれば田高401石余・畑高239石余で幕府領。
元禄郷帳では高663石余。国立資料館元禄郷帳では旗本内藤領。他に万願寺領がある。
「風土記稿」成立時には旗本三家と幕府領の相給。文化文政期の家数80。
天明年間創業と伝える熊井焼は幕末から明治にかけて盛んとなり、徳利・土瓶・灯火器・壺などの日用品を中心に生産された。明治期には土管・瓦生産に移行し、昭和30年代まで続けられた。(---・これが地場産業か?)また同じく「郡村誌」に特産物として木炭3850俵がみえ、近隣への木炭供給地であった。
鎮守は黒石明神社、産土神は毛呂明神社。ほかに慶安2年(1649)朱印地高7石を与えられた山王社などを祀る。
西福寺(真言宗智山派)は山王社の別当で、開山の尭栄は慶長年間(1596~1615)に没したという。
西福寺)地内を古鎌倉街が道通る(この部分のみ角川日本地名大辞典11埼玉県338頁)。
---郷士熊井太郎が---熊井城址と称される館跡(年代不詳)があり、土塁の一部が残る。
また領主であった内藤氏が延宝7年(1679)に築いた陣屋跡があった。-----

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