ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

:10-1:会田、会田宿、あるいは「会田御厨」?

2025-01-12 13:51:44 | ひとりごと

10:むかしの「松本」?


:10-1:会田、会田宿、あるいは「会田御厨」?


・松本から北方、会田という所がある。街道筋は、古い町並みが残る。
・・1955年4月1日 - 嶺間4箇村と呼ばれた錦部村・中川村・五常村・会田村が合併して発足。
・・2005年4月1日 - 松本市に編入。同日四賀村廃止。

保福寺峠


長野県松本市と上田市の境にある、松本盆地と上田盆地を隔てる峠。律令時代の東山道が通る、重要な交通ポイントであった。 なお、近隣の地籍である保福寺は「ほふくじ」と読むが、峠の名前は「ほうふくじとうげ」であり、誤って「ほふくじとうげ」と読まれることが多い。
峠の南東側の小丘には、「ウォルター ウェストン 日本アルプス絶賛の地」の石碑がある。


 

 つまり・・飛騨山脈を「北アルプス」と命名した「言われ」の場所なのだ。
お陰で、「アルプス」的でない(と私は思っている)南アルプスと中央アルプスが、相対的位置関係の理由で、名付られてしまった。赤石山脈と木曽山脈は、隆起型で、つまり左右から圧力がかかり、山谷山谷山と皴のように凸凹し、赤石山脈、谷(川:小渋川と三峰川)伊那山脈、天竜川、木曽山脈と連続するわけで・・・山脈は、大概急峻でもなく、深くて長い山林を頂上付近で抜けると、つまり森林限界を越すと、お花畑と雷鳥に出くわすわけで・・・この森林限界の標高は、美ヶ原や霧ヶ峰や菅平と比べて極めて高いわけで、「赤石山は巍巍として」とは、到底思えない。さすがに頂上付近は、風雪で、岩肌の様だが・・山脈は、南北に連なるが、北端に、糸魚川−静岡構造線断層帯が、直角に遮るように走る。断層帯は、仁科三湖、諏訪湖、富士川と連続して、山脈の北端近辺の山容風景を険しく変容させる。「鳳凰三山」だ。この山は、若干岩肌が激しい。


 
さて、この山脈と構造線断層帯が交わる付近の特色は、古代地層を「露頭」するという。花崗岩地層は、積年の酸性雨と劣化で、ひび割れ・雨の浸透、氷結により割れ目の拡大、劣化を繰り返し、川が山肌を削っていく。「釜無川」はそのいい例で、削り取られた砂岩が川底を厚くして、洪水氾濫が起きやすい地域に変えていく。「白洲松原」は、花崗岩の石英部分が白浜を形成する。
露頭が多い」ということは、信玄の「金山」がこの地に集中しているということと無関係ではなさそうだと判断する。
そういえば、「安部川もち」の語源となった「砂金」もあながち「うそ」でもなさそうな気がする。源流は、この山脈の北端・・・.


 さて、題材が、「会田・保福寺」から離れて、「アルプス」の逸れたので戻す。「アルプス」は、まあ・私の感性の話なので、他人が「南アルプス」というのを拒否するつもりもないが・・
少し話がそれたので、もとへ・
保福寺川は、断層沿って流れる。断層は、古代の地層を「露頭」する。この古代の地層から、「シガマッコウクジラの化石」の骨が発見される。

 

会田、会田宿、あるいは「会田御厨」?

「会田御厨」


・厨・・調理をする場所」新見
・御厨・・神饌を調進する場所のこと:神の台所
   ・・伊勢神宮の「食物」等を調達する荘園を意味する場合が多い
・「会田御厨」会田盆地に存在した伊勢神宮の荘園。中心に、伊勢神宮系の神社「神明社」が存在する。伊勢神宮系の神社・神明社は「農耕の神を祀る。


歴史


古代の筑摩郡錦服郷の地にあたる。鎌倉時代の嘉暦4年(1329年)の「諏訪上社頭役注文」が初出で、通常は伊勢神宮の神領が諏訪大社の祭礼に勤仕することはないが、会田御厨では信濃国の諸荘と同様、地頭の海野信濃守入道が頭役を務めている。また『神鳳鈔』には「会田御厨70町」とあり、鎮守の会田御厨神明宮もこの時期に創建されたとされる。
戦国時代には武田氏の支配の下、青柳頼長の所領となっており、永禄9年(1566年)の『諏訪社上社造営再興次第』には「会田御厨五ケ条」として刈谷原、明科、塔原、会田、多沢(田沢)の5か村が挙げられている。天正7年(15年)の『上諏訪造営清書帳』では「会田之郷」として造営役500貫文を負担している。同9年(1581年)には内宮御師の宇治久家が訪問(『信濃国道者之御祓くばり日記』)、武田氏滅亡後の同10年(1582)年には、頼長によって伊勢神宮に寄進された.

 


・・
村の西端に伊勢神宮内宮御厨の会田神明宮が鎮座している。この地は古代の錦服にしごり郷、中世の会田郷、近世の会田宿のあった所で、松本藩領会田組の中心地である。
会田御厨の成立は鎌倉時代初期とみられるが、「神鳳鈔」に「内宮、麻績御厨八ケ条、内宮、会田御厨七十町」とあるところから麻績おみ御厨の後の成立とみられ、鎌倉時代の初期に小県ちいさがた郡の海野氏が地頭としてはいってからと思われる。「神鳳鈔」記載例や、両者が内宮の神官荒木田家の所領となっていることなどから、麻績御厨とは深いかかわりをもっていたと考えられる。
荘園」なので、伊勢神宮への「奉納・貢物」が何かと興味がわきます。


「神鳳鈔」(=伊勢神宮の御厨のことを記載した記録帳)に、麻績御厨のことの記載があり、『神鳳鈔』には「麻績御厨八ケ条」とあり、本家の内宮への神貢(供祭上分料)として、「鮭150隻、同児1桶、搗栗1斗、干棗1斗」等を納入し、領家の内宮禰宜荒木田元雅には口入料として、「六丈布60端、四丈布16疋、鮭30隻、同児1桶」を負担していたことがわかる。」とあります。


恐らく、麻績御厨と会田御厨は、近在で、犀川右岸も同じであり、禰宜・荒木田氏も同じであることから、量(規模)こそ違えども、上記同様の神貢(供祭上分料)が想像できます。


つまり、室町時代以前には、犀川に「鮭」が上ってきており、麻績川や会田川・保福寺川では鮭の捕獲が一般的であっただろうということです。


旧地名や、残存の地名の錦織」とか錦部」をみたり、麻績」の謂れを考えると、この地方は,麻の栽培が盛んであり、麻布の機織りの帰化人がいた可能性があります。
それにしても、どうやって、伊勢神宮まで運んだのでしょうか・・・興味があります。

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「松本」学、あるいは「松本」考:9 :9-3:「武田」が「信長」に敗れたとき・・

2024-09-17 19:47:35 | ひとりごと

「松本」学、あるいは「松本」考:9


9:何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか?

:9-3:「武田」が「信長」に敗れたとき・

井深氏・・

『信濃守護小笠原氏と共に武田氏に抵抗していた二木氏.井深氏らが小笠原氏の逃亡後になってから赦免を願い出た際に大日方氏が仲介をして功績を認められている。

上の文章は、松本市の公式な見解の記述であるのだが・・・
なんか変である。


普通、戦に負けて降参すると、領土を保全されて安堵され、「先方衆」として勝者の軍に配されるのが、戦国時代の一般的な習いである。なのに、以後に「井深氏=(後丁氏)」の名前は当時の府中から消えているのだ。

「謎」を深堀してみると、「信府統記」という古書があり。ここに「赤沢氏」の記述がある。
信府統記・赤沢氏・『後ニ井深ノ城主後庁大蔵ヲ攻落シ、彼領地ヲ以テ是ヲ武田家ヘノ忠節トセリ』赤沢氏が伊深城を攻め落としたとの事。だから『赤沢ガ為ニ没落セリ』
とある。


『信府統記』(しんぷとうき)は、信濃国(長野県)松本藩主・水野忠幹の命によって、家臣で学究の武士であった鈴木重武と三井弘篤が著述・編纂され、1724年(享保9年)12月に完成した、同藩内および信濃国内の地理・歴史を記述した書籍(地誌)である。

この書の「記述」を確認すると、全般に「精緻」であり「客観的」であり、ほぼ信頼に耐えうるものとしてみることができる。ただし、松本・水野藩についてだけは多少疑いを持つことにしている。学究の武士であった鈴木重武と三井弘篤が清廉潔白な人であったことは、疑うべくもないので「フェイク」は無かったにしろ、不都合は書かなかったかもしれない、という疑念が多少残る。これが、古書に対する態度である。「信長公記」や「太閤記」や「東鑑」は、疑念の多いことが多々ある。


この、一見矛盾しているように思える二つの文章は、本当に矛盾しているのか?


武田信玄が信濃に進出し,天文 19 (1550) 年諸城を攻めるに及んで林城を捨て,村上義清と同盟して平瀬城に拠った。翌年,信玄が深志城に進出,平瀬城を落し,さらに長時方の中塔城,小岩岳城,苅屋城などを攻略したため,同 21年 12月,越後の上杉謙信のもとに逃れた。

上記の文章は、塩尻峠で「信玄」に敗北して以来の、「小笠原長時」を詳細している。つまり、「小笠原家臣団」すべてが、「塩尻峠の戦い」で敗れて、自落している訳ではないということ。長時に味方して、擁護した豪族は、平瀬城主:平瀬氏、中塔城:二木氏、など複数いたのだが、再度信玄が出陣すると聞き、支援していた村上氏が軍勢を引き上げるのに臨んで、落城を決意したと思われる。
1552年、中塔城:二木氏とともにあった「井深氏」は、「赦免を願い出た際に大日方氏が仲介をして功績を認められている」に繋がるわけで、時系列的解釈では、早々と自落した稲倉城:赤沢氏に、手薄を好機とされて、侵略されたと解するのが合理的と思う。


以後の「井深氏」については、武田勝頼が信長に負けて新府(韮崎)を逃亡するとき、井深宅右衛門(重吉)に人質の身であった「保科正光」を保科陣まで救出した」という記録まで動静は不明である。
恐らくは、「大日方家」の家中として過ごし、武田家へも奉公したものと思う。

保科正俊・・


ここで何故槍弾正か?
武田氏の信濃先方衆(120騎持)。特に槍に優れた使い手であった。三弾正:高坂昌信「逃げ弾正」、真田幸綱「攻め弾正」、保科正俊「槍弾正」。高遠城城主


「保科正俊」の違う角度の見方・・「大日方氏」は正俊の娘婿、後に、孫の「保科正光」は真田昌綱の娘婿、さらに「川中島の戦い」で「真田昌綱」の窮地を救ったのが「保科正俊」という関係が見えてくる。ここには、信玄の先方衆同士の信頼関係が見えてくるのは私だけか?さらに、「保科正光」には息子がなく、養子を「大日方氏」から迎えていたが、将軍:家光の弟・正之を養子に迎えるという皮肉が起こった」という事実もある。


「井深氏」は、「赦免を願い出た際に大日方氏が仲介をして功績を認められている」と前章で書いたが、大日方氏傘下になった「井深氏」は、当然ながら「大日方氏」と「保科氏」の関係を知るわけで、「井深宅右衛門(重吉)に人質の身であった「保科正光」を保科陣まで救出した」という経緯に至り、その後「保科正光」の側近となり、やがて会津:保科/松平藩の家老に至る道筋を見ることができる。
とにかく、「信濃府中」消滅の因に、「赤沢氏」が関わっていることは確認できたわけで・・


topix -----
この「井深氏」の末裔に連なる、「ソニー」創始者:井深大氏は、松本・岡田で、自らの出自に関して、スタッフを動員して調査を行った。その調査結果を、地元・岡田公民館で行ったようだが、「調査結果」は封印して、「社外秘」とした

何故だろう・・
私が考察した以外に、まだ何かがあるような気がする。・・・知りたい。

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「松本」学、あるいは「松本」考:9 :9-2:「信玄」の松本支配まで

2024-08-31 18:27:08 | ひとりごと

「松本」学、あるいは「松本」考:9


9:何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか?

:9-2:「信玄」の松本支配まで


信玄は、「塩嶺峠」で「小笠原」を破り、松本平を支配するに至った。支配する拠点は、小笠原家の陣屋のある「井川」でも「林城」でもなく、支城の一つであった「深志」城であった。


松本平は、盆地である。

三才山を発祥とする「女鳥羽川」は、まず「田川」と合流し、次いで、木曽を源流とする「奈良井川」と合流する。美ヶ原を源流とする「薄川」も「奈良井川」と落合する。その「奈良井川」は飛騨山系を下流とする「梓川」と合流して、「犀川」を名前を変え善光寺平へと繋ぎ、千曲川と合流して、「信濃川」という大河に名称が変わる。この奈良井川と梓川の合流地点は、昔は「深瀬」と呼ばれる湿地地帯であった。「深瀬」は、いつの間にか、なまりで「深志」と呼ばれるようになった。

「深瀬」は、島状な状態の台地を有し、この場所は「犬飼島」と呼ばれ、平安末期に、朝廷より「国衙」を仰せつかった「犬甘氏」が陣屋を作った。この「犬甘氏」(いぬかいし)は、「山家氏」(やまべし)と同様に、予備知識がなければ、到底正解に至らない「難読文字」の例である。


この府中に、建武の新制に、なびかぬ者として、北条得宗家の御身内とされる「諏訪神族」と北条得宗家の「「村上一族」を筆頭とする「御家人」衆があった。これらの反旗をなびかせる者たちの「鎮撫」に足利尊氏から「小笠原貞宗」が信濃守護として宛がわれたのである。


府中は、なびかぬ者たちの橋頭保であった。そこの相対的首位の豪族は、国衙でもあった「犬甘氏」であったが、従順に受け入れたようである。「小笠原貞宗」は、当初蟻ケ崎の脇の城山に「陣屋」を構え、三男で、名跡:継がせた坂西氏を深志支城に置いた。後に、自らを「井川」に移し、城山を「犬甘氏」に返したようだ。深志城は、水運の集結地で経済の要地なっていった。


こうして、「犬甘氏」と「井深氏」を自軍の中に取り込んで、わずかに機能する国府を残滓として、名ばかりの「府中」を存続させた。名ばかりの・・・というのは、この地方の治安の面は、確かに府中「小笠原家」だが、貞宗の後は、連続しての「守護職」を外されているのだ。ここに、「小笠原家」の三家抗争・内訌が潜んでいる。


このようにして、府中は、小笠原貞宗の武力をバックに、後丁氏の存在を、かすかな機能の証として、地名としての担保を得ていたのであったが、・・・


ついには、隣国の、巨大化する甲斐「武田」信玄に、小笠原長時が敗れ、府中を追放されたのであった。居城の林城を取り囲むような家臣の「山城」群は、ほとんどが戦わずして自落し、長時は、自分の城にたどり着くことも能わず追放されたのであった。


「府中」の名実の喪失である。その後、多少期間、「府中」の呼び名が続いたとしても、それは悲しい残滓の記憶である。


当然ながら、「信玄」は、松本平(その時は、この名称はない)の経営の中心を「深志城」において、馬場長春に「縄張り」をまかせ、後に、松本平の経営を「工藤源左衛門尉」が引き継ぎ、後に、工藤は「内藤修理亮昌秀」と改名している。

深志城の「石垣」や「天守閣」は次の時代の産で、ここでは、度々水害を起こす河川の治水が主で、女鳥羽川、薄川、田川、奈良井川、梓川の治水に「甲州流」がもち入れられたという説があるが・・・確かではない。

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9:何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか? :9-1:府中消滅の因

2024-08-18 16:48:43 | ひとりごと

「松本」学、あるいは「松本」考:9


9:何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか?


:9-1:府中消滅の因


『仮説ですが、井深氏の祖先:井深勘解由左衛門は、国府の「文官」だった可能性が高く、井深氏の屋号が「後庁氏」だという説も可能性が高い。』-----


国府の役割は?-----奈良時代から平安時代に、令制国の国司が地方統治のための役所として拠点とした建物。国庁(政務・儀礼を行う政庁)。


時がたち、甲斐の信玄が、膨張政策を極めてくると、当然に府中・小笠原家と衝突するようになる。.


『天文14年(1545年)に晴信は高遠頼継・藤沢頼親の討伐を行うため伊那郡へ出兵し、高遠城を陥落させ、福与城の頼親を、龍ヶ崎城を陥落させる。武田勢は伊那を制圧すると、小笠原長時は村上義清や仁科盛能、藤沢頼親らと諏訪郡へ侵攻するが、塩尻峠で武田勢に敗退している(塩尻峠の戦い)。』
『林城の戦いは、武田晴信と小笠原長時の戦 ---天文17年(1548年)塩尻峠の戦いで小笠原軍に大勝した晴信は、天文19年(1550年)信濃国の松本平に侵攻。遂に長時の居城である林城の攻略に乗り出した。支城の犬甘城が落ちると、深志城、岡田城、桐原城、山家城の将兵は雪崩をうって逃亡。長時はこれを知ると、林城を捨て平瀬城に移り、その後信濃国の豪族村上義清を頼って落ち延びた。一連の戦いにより、晴信は筑摩郡を平定した。』


上記は、府中小笠原家・当主小笠原長時の、府中追放の過程であるが、追放の過程を、ことさら追うのが本意ではない。長時の居城・林城を、防衛線の如く取り囲む山城がいとも簡単に落ちたかが肝要である。それも、塩嶺峠の戦いの後、瞬く間の出来事であったようだ。しかして、長時は、居城・林城に戻ることできずに追放、落ちていった。
それは、防御線を構成する山城(林城の支城)の幾つかが「調略」により信玄の側のついたのではないか、と仮設される。


:保科正俊のこと


保科正俊の三代前・易正は、熊倉と関係があった、という説がある。熊倉は、生坂村の隣村である。春日神社の神官をしていた「熊倉」(藤原)家だそうである。また、生坂の大日方氏は、当時「武田」の側にあり、保科氏や真田素と同様に、武田軍の「先方衆」と呼ばれていた。大日向氏は、保科正俊の娘婿の関係、保科正光の妻は真田昌幸の娘という関係・・・
『信濃守護小笠原氏と共に武田氏に抵抗していた二木氏.井深氏らが小笠原氏の逃亡後になってから赦免を願い出た際に大日方氏が仲介をして功績を認められている。』

「調略」---

もし、「調略」があったとしたら、調略した方・保科正俊、された方・井深氏 ・・・大日向氏はそれに噛んでいた・・  なんて」仮設。

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何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか?

2024-08-04 17:58:14 | ひとりごと

「松本」学、あるいは「松本」考:9

9:何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか?


松本に関わったものは、「何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか?」と疑問に思うことが多い。殊更に、「長野市」と対抗意識が強いわけでもなく、不満不平があるという訳でもないのだが・・・ 人口の規模」、歴史的背景」、県内のほぼ中央という地理的条件」など、「県庁所在地」たるに足る条件をそろえているように思えるのだが・・・なぜなのだろうか?


疑問である。
歴史を振り返ってみよう・・・


『1871年(明治4年)、廃藩置県により松本藩は松本県になった。その後、松本を県庁所在地とする筑摩県が成立。1876年(明治9年)には、筑摩県庁の焼失により、長野県に編入された。』
なんか、成行ですね。


歴史は繰り返すというか!、過去にはこんなことがありました。
-----、松本が「府中」と呼ばれていたころ、国府は女鳥羽川沿いにありました。今の「サッカー場」と「総社」の間辺り・・・ところが洪水で、国府は水没してしまいます。時期は、鎌倉期初期とされています。その時、緊急避難ということで、善光寺脇に、「後丁」として「国府」を避難させました。長野市に、後丁(後町)という町が今でも残っています。
ただし、善光寺後丁(後町)を国府として、無理やり機能させたのは、大塔合戦(大文字一揆)の前の短期間だったとされています。それ以前も以後にも「機能」の実績がありません。


大塔合戦 -----


『大塔合戦とは、応永7年に信濃守護小笠原長秀が、村上氏・井上氏・高梨氏・仁科氏ら有力国人領主及び、それらと結んだ中小国人領主の連合軍と善光寺平南部で争った合戦。守護側が大敗し、以後も信濃国は中小の有力国人領主たちが割拠する時代が続くことになる』
『室町時代初期に信濃国で起きた大塔合戦に井深氏の名が登場する。守護小笠原氏の一族で侍大将として善光寺に入り、現在の長野市後町(後庁ー御庁)において、もっぱら政務に携わった井深勘解由左衛門で後庁氏の名もある。』


鎌倉初期、緊急避難した「後丁」は、府中へ戻っています。「井深後丁」です。


松本にあった県庁は、また戻ってくる日があるのでしょうか?


仮説ですが、井深氏の祖先:井深勘解由左衛門は、国府の「文官」だった可能性が高く、井深氏の屋号が「後庁氏」だという説も可能性が高い。

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ひとりごと・・

2024-08-03 10:20:27 | ひとりごと

「松本」学、あるいは「松本」考:8

8 再開に向かって 

 

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HAPPY NEW YEAR

2019-01-01 04:08:15 | ひとりごと

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「・・・奈緒」と・小平物語

2018-05-28 19:17:20 | ひとりごと

「・・・奈緒」と・小平物語


小平奈緒は、旬な話題の人・・「オリンピックのゴールドメダリスト・スピードスケート選手」。
何故あんなに強いのか!・なぜあんなにストイックなのか!なぜ氷上の詩人と呼ばれているのか?などなど・・・は、興味はあるのだが、僕の関心の範疇から外して他に任せておこうと思っている。
しかし、とりわけて気になている「文武両道」の意識、、それも選択肢の一義の優先の強烈さを、何故かと問わずにはいられない。もちろん「文武」の武は旧来の武道の「武」ではなく、今日的な「スポーツ」という意味に置き換えて考えているのだが・・あるいは旧来の武道の魂を、脈々と受け継いでいたのかもしれぬ・・という旧家の伝統があったかも知れぬという・・まさかの話である。


「小平物語」という古書がある。
この本は、信玄が甲斐の国を膨張し、信野の諏訪や伊那に攻め入った初期の頃の、信濃の豪族・小平氏の戦記物語である。信玄の戦争の真実は、甲陽軍鑑などの筋が信濃側の反証があってこそ担保されるもので、「小平物語」はその第一義であるという。

「小平物語」には、一族の起源と経緯・戦記が描かれている。

---- そもそも、我らが先祖は当国 (信濃国)佐久郡の住人 望月城主 左衛門尉信永 と申すなり。同国 平賀四郎義信 末孫なり。
祖父は信永三男 源三郎信正。道三、是なり。末流の小平を相続す。
それ以前より数代、諏訪に居住す。-----


◇:信濃・甲斐源氏の平賀氏は、信濃佐久地方の有力な豪族であった。佐久地方は、平安期に有力な「牧」(=官製牧場)をいくつも抱えていた。平賀氏は、その有力な「牧」の牧監を足掛かりに、佐久に勢力を築いていたらしい。この平賀氏の武力の証としては、頼朝葬儀の時、「源氏門葉として御家人筆頭の座」にあったことが吾妻鑑に記されており、また北条時政に潰されたが、頼朝後の幕府の政権の座に名乗りを上げたことも、状況証拠として当時を詳らかにしそうである。少なくとも頼朝挙兵から承久の乱までの間は、武田・小笠原はもとより関東武家の筆頭の力を誇示していたのではないかと、・・資料は示している。
◇:平賀氏の没落の切っ掛けは、「頼朝の後釜を狙ったこと」とその後の「承久の乱」のとき、京都・朝廷側に与力して、結局負けたことが原因となった。承久の乱の後、小笠原が、その戦功褒賞で平賀を追い出して、小笠原長清の子息・伴野氏と大井氏を佐久に入れて、平賀氏の勢力を削いでいったとみてよい。
◇:小平氏は、・・「望月城主 左衛門尉信永 」であることが「小平物語」に記されている。そして、小平信永の祖父が、平賀信正であるという。ちなみに、佐久・望月は全国最優秀の牧場であったことが古書の各書から明かされている。

◇:望月を追われて落ちた先は・諏訪地方とあるが・「小平物語」の中に、南大塩:山浦とある。ここは、現在茅野市の地籍で、諏訪中央病院近くの山寄の場所で豊平とも言い、小平姓が集積しているところをみると一族であろうと推測するが、証があるわけでもなく、違うのかもしれないが、ここは深く調べることはしない。この小平一族の一部が、伊那・箕輪の小河内にも移り住み、そもそもののこの「小平物語」を記した。

「・・・奈緒」の出身地は、どうやら茅野市南大塩らしい。そして選んだ高校は伊那にあるという。
選んだ高校も、選んだ大学も、スポーツが盛んだということもなく、スケート部すらないという、スケート選手にとって最悪の環境のところで、敢て最悪を選んだのではなくて、「文武」の文を優先した意識がどこから来たものか、多少興味をそそられて、・・・あるいは出自の環境が影響あるのかもと思って調べてみたが・・あえてこれ以上の深堀は差し控える。

 

 

後記:40年の間隙があっても、学び舎を共にしたかもしれない、と根拠のない仲間意識があって・愛おしく

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アイコス。参上!

2016-11-19 16:38:29 | ひとりごと

 

  アイコス。参上

”煙の出ないたばこ”の謳い文句だが、全然煙が出ないわけではない。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
IQOSは、
 ・たばこ葉を燃やさずに過熱する次世代のたばこ。
 ・火を使わないから、灰が出ない。
 ・たばこの煙のニオイもない

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
ヘビースモーカーの自分がIQOSに切り替えた。
 ・切り替える際に、「たばこの風味があるのだろうか?」の懸念があった。
 ・物足りなさが感じられれば、切り替えはうまくいかない。
 ・そんな懸念は、ギリギリ・クリヤー。
  ・・・「たばこの風味はある」-・つまり、たばこの喫煙の満足感は、ギリギリ残るのである。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  

街中では、「喫煙者」に冷たい。
  家族からは”嫌われ者”。
    喫煙の場所と時間を限定され、まるで”煙の放浪者”・・・
      この”煙の放浪者”に対して、政府は、罰金の如く「たばこ代」を吊上げていく ・・・
        俺らは、犯罪者なのか。ただの「たばこの嗜好家」にすぎないのに ・・・曰く、不条理

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  


IQOS:アイコス

   ・外形

  ・チャージャー

  ・ホルダー

  ・・ホルダーをチャージャーで充電して使う・

 ・アイコスたばこのことを「ヒートスティック」といいます。

  ・・>ヒートスティックをホルダーに差し込んで,
  過熱ボタンを押して、ヒートスティックを過熱します。
  ・・>すると、多少ニコチンを含んだ水蒸気が発生するようです。
  ・・>これが、たばこの風味。
 
 ・確かに灰は出ません。
 ・確かに煙は出ません(水蒸気)。
 ・確かにタールはありません。
 ・・ニコチンはごく少量のようです。
 ・・匂いは、かすかに残りますが、気にならない程度(家族談)。
 
 ・時々神経がとがっている時など、連続で2,3本続けて灰にすることがあったが、、、
  IQOSだと、一々充電が必要なので、チェーンスモークはなくなった。 かなりグー!

*セブンイレブンで予約して、待つこと1っヶ月 ・・・ようやく届きました。

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永六輔さんが亡くなりました

2016-07-17 23:50:39 | ひとりごと

永六輔さんが亡くなりました

こちらが一方的に知っているだけで面識があるわけではありません。
友人のツイッターで、永さんのことが書かれていました。ちょっと紹介 ・・・
 ・・・ 「永六輔さんが亡くなった。永家は三河から家康について江戸に出てきたお家だそうで、徳川びいきでした。徳川昭武の記念館の準備で夢中だった頃、羽田空港で突然声をかけさせていただいたら、しばらくして戸定歴史館を訪ねてくださいました。」 ・・・
 * 戸定歴史館は、松戸にあります。徳川昭武は、最後の将軍・徳川慶喜の弟で最後の水戸藩主、戸定は水戸藩別邸、戸定歴史館は大名屋敷を再現したものです。
 
甲高い声で物腰は柔らかいが、戦争を嫌悪することを体臭として発散していた人でした。
江戸文化や古き物への愛着や憧憬が深く、その知識が豊富だったことも記憶しています。
今このブログにたびたび登場する神社のことは、かって自分は、神社の社叢の薄暗さや陰湿さが嫌いだったのですが、ある切っ掛けでたびたび訪れるようになり、その価値観を変えるのに、永さんの神社の知識に助けられた部分があると思っています。

足立神社があります。安達も安立も足達も阿達も同類です。かつて武蔵野に足立郡なるものがありました。その範囲は広大で、中心は武蔵一之宮です。武蔵一之宮は現・大宮氷川神社のことです。この足立郡の一帯に村社を建てる必要があったとき、氷川神社と祭神を同じくしながら、同名を憚って、郷名をつけた”足立神社”が各地にできました。ですから、旧名を異にしながら明治期に改名されたものが多い。その頃の足立郡の名残は、東京の足立区と足立神社だそうです。この知識は、永さんのラジオ放送からです。知れば、永さんは仏門の住職の息子であったそうです。

戦中の永さんの疎開先は、信州・小諸の三岡というところのようです・・・(小諸から小海綿に乗り換えて三岡駅からはリヤカーを借りて……。)。そこで幼年を過ごし、当時の上田中学(現・上田高校)の一年の時東京へ戻ったということです。
この、信州・佐久は、早稲田高校の同級生で仲間だった渥美清が、仕事の疲れたとき誰にも告げずに訪れていた第二の故郷だったそうです。
このきっかけは、永さんと渥美さんの二人だけのエピソードかもしれません。

後日訂正:
高校の同級生ではありませんでした。
永さんの高校生時代、「ラジオつくり」に熱中していたことがあり、入り浸っていた秋葉原で顔なじみになった違うグループの「ラジオつくり」の仲間、だったそうです。訂正します。

昭和を駆け抜けた骨っぽい人が、また逝ってしまいました。
今日は、「水原ひろしの”黒い花びら”」でも聞きましょうか。

  

 

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