青梅・塩船観音寺・古刹
銅葺の屋根の護摩堂です・・比較的新しい・
銅葺のさびは緑青(ろくしょう)ですから、色が自然に溶け込みます・
この屋根の寺院は、江戸時代からと聞きます。
上:山門 下:阿弥陀堂 ??
茅葺の仏閣です。情緒あり・ 桃山時代?! 火災にも会わずに残存!
本堂も茅葺 --- 密教らしい雰囲気が残っています・
○ すり鉢の 重ねつつじに 観世音 ・・庄
塩船観音寺:真言宗:東京都青梅市塩船194
青梅・塩船観音寺・古刹
銅葺の屋根の護摩堂です・・比較的新しい・
銅葺のさびは緑青(ろくしょう)ですから、色が自然に溶け込みます・
この屋根の寺院は、江戸時代からと聞きます。
上:山門 下:阿弥陀堂 ??
茅葺の仏閣です。情緒あり・ 桃山時代?! 火災にも会わずに残存!
本堂も茅葺 --- 密教らしい雰囲気が残っています・
○ すり鉢の 重ねつつじに 観世音 ・・庄
塩船観音寺:真言宗:東京都青梅市塩船194
○ 懸崖が 涅槃のつつじ 弘誓舟(ぐぜいふね) ・・庄
青梅・塩船観音寺・つつじ
背景がすり鉢状の谷あい・・です・
もともとは、この地に、まばらに野生していた”つつじ”、、
間隙に、隣接から植え直して、手入れした・・と聞きます・
何株あるのか!見渡すかぎり・・・
”つつじ”のかなたの頂に、観世音が・・
春を探しに ・10 神社の藤
神社の藤
神池の藤棚・・
・・・ 神池は瑞籬 ・・・と覚えたり・
・神池は(かみいけ)であり、稀に(こういけ)と読む。
・- (しん/じん・いけ)ではない
・瑞牆は(みずがき)と読み、水の垣根を意味する。
- - ”ふじ”は三分咲きと聞いたが、どうして、! 満開に近い・
さて、ここは ・・
越谷・久伊豆神社 です
大変・立派な社格を誇ります・
参詣した日も、・結婚式や稚児祝の人がチラホラ・・
久伊豆神社に”藤”が多いのは、・・神主に”藤原”出自が多いのかも知れない。
・--- なーんて、根拠がない推測 ・・!?
・久伊豆神社があるところ、、・騎西党の勢力下とか??
・「騎西」はともかく、「私市」を(きさい)とだれが読めるの???
春を探しに ・9 はなみずき・通り
はなみずき・通り
ここの歩道の木漏れ日はやさしいのです。
道は、コンクリートでもアスファルトでもなく、土でできています。
白と薄紅と交互に、日差しを少しだけ遮ります。
岩槻は、「太田道灌」のつくった街? ・4 平林寺付近・
平林寺付近・
古い街には寺が多い・・
武蔵野(埼玉)・でいえば、古い街は川越や岩槻を指すのだろう。現代にいたって、町の規模は、大宮や浦和や川口や所沢や越谷などが人口増を繰り返しているが、ここいらのところは規模の小さい宿場町や農村風景だったところがほとんどであった。
寺を作るのを開基というのだそうだが、一般の住宅と違ってそこそこの金がかかるのは想像するに容易である。とすれば、寺を建立するに足る資産家の存在が前提とされるわけで、中世から以前とすれば豪族が考えられる。武力と資力を蓄えた権力者は、領主様であるわけで、この権力者が歴代存在した場所に「寺」が多いという構造になり、それが川越(河越)であったり岩槻であったりしたわけである。
寺というものの風景を覗くと、一部の古刹と呼ばれる寺は、寺の敷地内に卵型の墓は有するが墓地がない・・いわゆる祈願寺。その他の寺は広大な墓地を有する「菩提寺」に分かれる。
岩槻には、道灌の血流の太田家の菩提寺の寺の他、江戸幕府時代の若手有能幕僚の知行地としての岩槻藩が度々赴任地として繰り返されたため、その大名たちの菩提寺も多い。いわゆる歴史の長い城下町の特色である。さらに、岩槻市外に及ぶと、岩槻大田氏の有力家臣団(家老など)の在地に有力家臣団が菩提寺を建立しており、併せて、寺院の数が多い・・・
平林寺付近・
岩槻:平林寺付近・地図
国道122号線は、3桁国道にもかかわらず車の通行量の多い国道として知られる。別名を”岩槻街道”と呼ばれる。この岩槻街道は、岩槻市街地に入るやいなや幹線R16号と交差する加倉辺りで大渋滞を引き起こす。渋滞解消のため、東北自動車道ルートに併設してバイパスを作ったが”岩槻インター”があったため変則になり、スムーズな交通量の流れになっていない失敗作パイパスとなった。この122号が、新道・バイパスと旧道に戻る地点が平林寺付近である。従って平林寺の地名はドライバーにとっては馴染み深い・。その平林寺だが、地名だけを残して岩槻には”平林寺”は既に存在しないのである。
岩槻:平林寺跡
江戸時代初期に、松平信綱が忍藩主になった。この秀才といわれる”知恵伊豆”の異名を持つ信綱の、松平家の菩提寺が平林寺なのである。岩槻の平林寺地籍が、その昔に忍藩の領域だったかどうかは不明である。
ではなぜに信綱が平林寺を菩提寺にしたか、であるが・・ここにはこんな事情が隠されている。松平信綱は、もともとは大河内久綱の長男・三十郎(幼名)と呼ばれた。幼いときからかなりの秀才で、幕閣に連なる出世には、格式の家に養子になるべきと長沢松平の養子になり、三代・家光の小姓になることから始まった。
ちなみに、大河内久綱は「伊奈忠次関東代官頭」の部下で、幕府直轄・寄居の代官でもある。当然、伊奈忠次の小室城の管理下・蓮田にも屋敷を構えていたらしく、幼少を蓮田で過ごした記録が残る。確とした記録は残っていないが、恐らく平林寺と大河内家は、その頃の繋がりだろう。
しかして松平信綱が、川越藩に入封されると、松平家の菩提寺として、新座・野火止に平林寺を移した。
現在に至って、平林寺の秋の紅葉は、京の寺に比しても劣らない、美しき庭園をつくっている。
平林寺の紅葉・
一説に
・・ 岩槻平林寺 ・・・ 永和元年、太田道灌の祖先である太田備州守は鎌倉円覚寺の住職を務めた石室善玖を招き渋江郷金重村(岩槻区平林寺)の地に金鳳山平林寺を建立・・・平林寺住職を勤めた泰翁宗安は足立郡原宿(上尾)、野本鎌倉方(東松山)、加倉(岩槻)の一部の代官職も勤め僧侶の立場で兵を ...とあるが、太田備州守は、苗字こそ太田であるが、時代検証の結果と大田家(道灌系統)から関係性を記録するものも出ないことから、無関係と思われる。
春を探しに ・8 御衣黄・・咲く
御衣黄・・咲く
花の色は移りにけりないたずらに・・
と思っていたら、「右近」が咲いた・
右近・緑色の桜である
・御衣黄とも呼ばれる
桜が、盛りを過ぎて色あせていくさまを、
平安・絶世の美女・小野小町が美貌が老いて廃れていくさまと被せて、
詠んだ和歌は、皮相で寂しいが・・・
みどりの桜は、地味で凛々しい・・
後日談:・・約1週間あと・・
花の色は、黄色に変わっています・ ---・
岩槻は、「太田道灌」のつくった街? ・3
寺院 龍門寺
まず、「龍門」・・??
・・中国:洛陽龍門石窟. 龍門石窟は河南省洛陽市から南に13kmの場所・
・--- 龍門石窟(りゅうもんせっくつ)と読む
・--- 龍門寺は、岩槻市街の東北、日光御成道に・・。宗派は曹洞宗に・
岩槻:龍門寺(りゅうもんじ)と呼ばれる。
この「龍門寺」は、「りょうもんじ」と呼ばせる寺もかなりあるように聞く・。
私の田舎にもあるが、こちらの宗派は、臨済宗妙心寺派である。
「読み方の違い」は宗派の違いに因るものなのか?
岩槻:龍門寺
・・・ 岩槻城主太田氏に仕えた佐枝(斉田)若狭守秀成の居館跡。土塁が龍門寺墓地の傍に残る ・・・後に、秀吉の「小田原攻め」の際、小田原方の岩槻城を秀吉方の前田や真田などがここを橋頭保にして攻めたといわれています。
大岡 忠光は、江戸時代中期の大名・・
---・ 第9代将軍・家重の近侍。不明瞭な家重の言葉を唯一理解できたため信頼があつく、側近として異例の出世。上総勝浦藩1万石の大名⇒若年寄⇒側用人・従四位下⇒武蔵岩槻藩主。以後幕末まで八代の大岡家・岩槻藩主。
岩槻は、「太田道灌」のつくった街? ・2
寺院 淨国寺
1587年(天正15年)岩槻城主太田氏房の開基、清巌の開山により創建されたという。早い時期から浄土宗の檀林が置かれ、江戸時代には浄土宗の触頭であった。
淨国寺の山門に、大きく「栴檀林(=せんだんりん)」の文字が浮かびあがる。
栴檀とは、成長の大きな「香木」のことで学僧に見立て、複数を林に例えた。つまり・・「漢学の学問所」を意味する大学なのだ。
太田氏房・・どうもこの人は、太田道灌の子孫ではなく、大田家の系統の氏資が戦死した後、戦勝した小田原北条の氏房が娘婿に入り、名跡を継いだという次第のようである。
・・・・ 氏房/北条 氏房は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。後北条氏の家臣。北条氏政の子。武蔵岩付城主。永禄8年(1565年)、北条氏政の子として誕生。生母は武田信玄の娘の黄梅院で、北条氏直の同母弟にあたる。 岩付城主・太田氏資が永禄10年(1567)に戦死したため、その娘を娶って太田氏の家督を継ぎ、太田氏房と ...
淨国寺:本堂
由緒・・
淨国寺:墓標・・
当然ながら・開基の太田氏房の菩提寺であります。
更に、江戸初期に岩槻藩藩主になった「阿部家」の墓もあります。
阿部家:墓標
春を探しに ・7 ソメイヨシノ後・ 桜
八重桜
種類分からず さくら・
it's groovy
白紅梅じゃないよ!桜だと珍しいね!
八重桜が咲くと、・・・
季節は花盛り・・・
つつじ、小手毬、大手毬、,山吹、芝ざくら、、とかとか・・
岩槻は、「太田道灌」のつくった街? ・1 寺院 芳林寺
・1 寺院 芳林寺
・・・芳林寺:岩槻区本町1-7-10
・--- どうやら、太田道灌は岩槻に住んだことはないらしい。道灌から三代か四代後に道灌子孫が東松山か川島あたりから岩槻に移り、城を築いたのが説としては合理的のように読める。太田資高がその人らしい・・。
・芳林寺・開基のおり、伊勢原で謀殺された道灌の「遺骨?や遺髪」を譲り受けて、生越の龍穏寺とこの芳林寺に分けて供養したといわれる。
・庭内に、・・二体の銅像・・
甲冑姿の騎馬上の道灌・・
狩りの姿の道灌・・
・・・ 伝承によると ・
・・・・岩槻城は室町時代に古河公方足利成氏の執事扇谷(上杉家)持朝の命を受け、長禄元年(1457)太田道真、道灌父子が築城したと伝えられる。
・・・この説には疑問が残る
・・・・道灌死後何代か後、太田資家(岩槻城主)が伊勢原に行き、道灌の遺骨や遺髪をもらい受け、それらは埼玉県越生町の龍穏寺とここ芳林寺に分けられて丁重に葬られ、今日まで供養されている。
江戸時代、岩槻は日光東照宮参詣の最初の宿泊地でございました。
つまり、江戸まで1日かからないぐらいの近距離、
・・ということで、有能な若手の幕僚の知行地に認定されていたようです。
そのため、初めて大名になった人も多く、岩槻藩が出発点になった例が多いようです。
この、近在は若手幕僚の知行地、という仕組みを作ったのは、本多正信と天海和尚だと言われています。
有能な若手幕僚は、最初小大名でも、有能ゆえに大大名に転付していくものも多く、
そのため岩槻藩は、藩主の回転が異様に早かったといわれています。
写真は、太田道灌と大田家の墓ですが、芳林寺は、家康が江戸城に入ってから家康家臣の高力清長が藩主となり、菩提寺を芳林寺に定めました。従って高力清長の墓もあります。