寿能城跡 ・・・古跡訪問
寿能城跡・・・
・・・潮田出羽守資忠の墓
・・・寿能城跡碑
説明碑・・・【寿能城跡】・ここは寿能城本丸の跡と伝える。寿能城は潮田出羽守資忠の居城である。資忠は岩槻白鶴城主太田資正の第四子で、母方潮田家をつぎ永禄3年(1560)ここに築城、大宮・浦和・木崎寺を新領とした。城地は東西約872m、南北約436mあり、見沼、沼沢をめぐらした要害で、東方に突出した小高い所を出丸と呼び、今も寿能という小字名を残している。資忠は小田原の北条氏に属し天正18年(1590)長子資勝とともに小田原にろう城し奮戦したが、4月18日父子ともに討死し家臣北沢宮内等が守備した当城も同年6月豊臣勢の火※にかかって落城した。
墓石は資忠の没後50年の命日に6代の子孫潮田勘右衛門資方が、弟資教にしるさせたものである。
大正15年県史跡に指定されたが、太平洋戦争中に高射砲陣地として雑木林は開墾され、※また新市街を現出するに至り、その一部を市の小公園として永く保存することとなった。(※は判読不明箇所)
・・・「武州足立郡大宮壽能城主也其先 清和天皇九代後胤従三位右京太夫兼兵庫頭頼政十九世嫡流太田美濃守三樂齋資正第四男也 天正十八庚寅年四月十八日相州於小田原討死因滋家臣北澤宮内私於城地自営此塚也 子孫譲之至邸于今不失墓祭之禮焉■■資方初而■此塚實始祖思恩寵餘澤之深亦患無姓名之誌再命北澤某令造墓石永為不遷之廟矣・
元文三戌午年四月十八日謹造建之
資忠六世嫡 潮田勘右衛門源資方」・・・
寿能城規模・・・城地は東西約873メートル 南北約436メートルあり、見沼の沼沢をめぐらした要害で 東方に突出した小高い所を出丸と呼び 今も寿能という小字名を残している。
・・・寿能公園内・さいたま市大宮区寿能町2丁目
さて、こんなところが、寿能城の古跡の概容とされるところであるが、今一つ実感として分からない。城域の規模については、先の説明にあるところだが、面積から推定すると、ほぼ今に寿能町の全域ぐらいとなる。現在の風景から比定すると、大宮公園駅(東武線)や公園の公園口付近から大和田運動公園(野球場・プール)、大宮第2公園に接する辺りまでとし、思ったより広域で、寿能公園内の城跡からは思いもよらず、大きく想像を超えてしまう。
潮田氏の統治の規模は、以下の文から推定される。・・・『潮田家文書』によると、永禄3年12月30日、太田資正(岩槻城主)は「大宮・浦和の宿、木崎・領家方までこれを進められ候、恐々謹言」という判物を資忠に下している。これにより、資忠は大宮・浦和・木崎・領家の一帯を領することになり、寿能城を本拠として本家である太田家を支えた。・・・見沼を隔てた台地には、同じく永禄3年(1560年)伊達城(さいたま市見沼区大和田町)が太田家の家老である伊達与兵衛房実(ふさざね)によって築城されており、これら寿能城と伊達城は、岩付城の西方を守る支城網のひとつとして機能した。さらに南には、中丸城(さいたま市見沼区南中丸)、松野城(さいたま市見沼区御蔵)を築いて北条方に備えている。
また、大宮の水判土に、「城跡」としての「慈眼寺」が記されている。・・・「標高およそ12mの小高い場所に位置し、東・南・北の三方を水田で囲まれ、東方には鴨川が流れ、西側だけが台地続きで佐知川へと続いている。新編武蔵風土記稿に、この寺は元々城塁があった所だという記録があり、古くはここに武士の館跡があったことが伺われる。そしてここは、小田原北条に属した岩槻城太田氏の氏族、潮田氏の家臣の守る城だったという伝承が残されている。しかし、秀吉の小田原攻めの時、寿能城ともども水判土城も戦火で焼失し、資料はないが、寿能城落城と時を同じくして水判土城も焼け落ちているところを見るとこの説は正しいと思って良いのではないか。
前文の流れで、ときに「北条側に備える」と書き、ときに「小田原北条に属した」と書いて、少し混乱を招いたと思う。この整合性のために、この地の、立て軸(時間軸)の関係性を見て見たい。
まず、寿能城城主潮田資忠は、岩槻城城主の太田資正の四男で、親子関係の家臣である。太田資正の祖先にいる太田道灌は、扇谷上杉家の家宰(家老)で、太田家は扇谷上杉の勢力下に、一貫としていたといってよい。それが、川越夜戦で、小田原北条に、同盟を組んでいた山内上杉・古河公方・扇谷上杉は敗れ、山内上杉が本拠の上野平井に、公方は古河に、扇谷上杉は松山城に退去したのち、扇谷上杉は滅亡する。主君を失った太田資正は、山内上杉や佐竹氏と同盟しながら、小田原北条と対抗を続けていたようだ。太田資正の武将としての資質は、道灌と並び称されるほどの勇猛果敢な武将であったという評価がある。当然、四男の潮田資忠も行動を共にしていた。
公方と関東管領の関係・・・公方は、足利幕府から、関東の領国支配のため、京都から派遣された足利一族である。室町初期の時代、公方は鎌倉に派遣されて、鎌倉公方を名乗っていた。関東管領は、鎌倉公方の家宰(家老)の役目であった。だが、関東管領の任命権は、公方にはなく、幕府にあったのは不幸であった。力を付けた関東管領は、公方の命令を聞かなくなる。関東管領は初期の時代は二人制であった。やがて関東官僚の職は、山内上杉が専任で独占するようになる。この頃から小田原北条の力が鎌倉を凌ぐようになり、管領家、公方は鎌倉を追われるようになる。そして拠点を武蔵野、上野、古河に持ったと言われる。
鎌倉のあった上杉家は、鎌倉の地名を冠に、それぞれ宅間上杉、犬懸上杉、山内上杉、扇谷上杉とよばれた。この一族も、関東管領の座を巡って、激しい勢力争いをしたようだ。
・・・宅間上杉は勢力争いで没落し、やがて山内上杉に吸収されていく。犬懸上杉は、”上杉禅定の乱”で敗北し、関東の権力争いから遠ざかっていく。関東管領を一番多く輩出したのが山内上杉家で、後半小田原北条との長い対立から、最後は、越後の長尾氏を頼り、関東管領の職と家名を長尾景虎に譲り、隠棲することになる。ここに、上杉景虎・後の上杉謙信が誕生することとなる。扇谷上杉は、上杉家の庶流であるが、川越を拠点として、太田道灌などの力で勢力を拡大し、山内上杉と肩を並べるようになる。・・・
寿能城潮田家は、長く扇谷上杉のために小田原北条に抵抗していたが、主家を失ってついには、小田原北条の軍門に下り、秀吉の”小田原攻め”の時は、小田原に詰め、この戦火に散ったと言われています。・・・潮田の寿能城は、家臣が守っていたが、やがて落城する。この時は秀吉の”小田原攻め”の時と言われる。