「築山城」 黒山自然公園4
関八州物見山・画
築山城が黒山自然公園に含まれるかどうかは、微妙な位置で、よくわからない。都幾川と越生の境の、たぶん「大築山」というのだろう、--- にある山城である。ごく近くにある「大附ミカン園」の大附:苗字の農家も、もしやの可能性だが、昔あった「大築城」という山城の関係者であったかも知れない・可能性大。
こんな山奥の、かなり辺鄙な場所に、かなりの規模の「城郭」が認められるようである。
「大築城」への登坂は「2-way」。
・- ・麦原川の「アジサイ公園」前の「日吉神社」の脇道を上がるか、
・- ・都幾川町椚平にある鎌倉山荘の脇に「大木戸」という関門があり、ここからも上がれる。
画:「大木戸」&由来
さてこの由来を読むと、大凡の「築山城」の輪郭が浮かぶ上がる。地方豪族の一強であった「上田某」が、地方豪族であった「毛呂山氏」の与力(=援軍)を得て、築山城を拠点にして、これまた地方豪族であった「慈光寺」を攻略した、ということである。
この事実について、かって記事を書いた覚えがあった。
参照:坂東九番『都幾山:慈光寺』:2014-08-08 01:55:58 | 史跡: < クイックすると過去ブログへ飛びます。
----- 「慈光寺は、戦国時代に、高僧達の塔頭と修行僧達の学僧を合わせて七十五の坊を持っていたことで知られる。この多くの坊は、つまり僧兵の住居だが、彼等をもって、太田道灌や小田原北条の家臣・松山城主上田朝直と戦っている。その痕跡の上田朝直の出城の大築城跡は、堀割りを明確に残しているが、慈光寺を攻略するためという記録が残る。」-----
痕跡・・
これは「都幾山慈光寺実録」の記録だが、「寺伝では康正二年(1456)に太田道灌の軍勢に討ち入られたとある。その後、記録にはないが上田朝直(松山城主、扇谷上杉家の重臣であったが、後に後北条家の臣下となった。)によって、同じく66坊を抱えて栄華を誇った東松山の岩殿正法寺とともに焼き打ちにあった。この時(推定1546~1556)焼失した釈迦堂からは二層の焼土層と、室町時代の瓦が多数、出土されている。」
この二つの記録は、九十六世信海が記したとあります。記録した年は寛政12年(1800年)で、江戸時代後期にあたり、太田道灌の時代から300年あとの伝承戦記ということになり、細部は若干信憑性が欠けると思われます。さらに、それから100年あとの戦国期に、後北条家臣の「上田某」とも戦っている記録が以下の記述です・-- 「北條左京大夫氏康家臣上田能登守朝実松山に在城し当山坊中堂社不残焼亡し此時札所観音堂斗り残れり 云々」 --- 慈光寺焼討ちの伝承はこれらの記録以外にも寺によって伝えられております ...
「大築城」の性格の輪郭が明確になると、それに伴って「慈光寺」の性格も、輪郭がくっきりしてきます。60余とも70余とも数えられる僧房(=塔頭)はまさに兵舎さながらの様。そして、慈光寺寺院は、広大な山中を含めて巨大な難攻不落の砦。恐らくは、道灌の時代には、道灌と敵対する「長尾景春」系列であったのでしょう。そして上田朝直の時代は、小田原北条に対立する上杉方の系列陣営だったようで、年代とともに性格が異なるようですが、上田朝直に攻められて焼き討ち日された以降は、僧兵の確認ができていないので、兵力を伴わない一宗教集団に没落したと思われます。以後、江戸時代に家康の庇護を得て、伽藍等を再建して今日に至るわけで・・・。庇護のご朱印状発行は「関東郡代頭・伊奈熊蔵忠次」か、と思われます。
太田道灌時代の政治的背景描写・・
応仁の乱から少し経った頃・・関東の政治の中心・鎌倉も動乱に巻き込まれていった。その頃より少し前まで、関東の政治は、京都発信の政治とは区分けして、関東を司っていた「関東管領」は、独占的に山内上杉家、扇谷上杉家、犬懸上杉家の三家であったが、ほぼ山内上杉が抜きんでる形になり、そのうち犬懸が没落していった。扇谷上杉家は、山内上杉の別家的存在で、その頃は山内上杉をサポートしたらしい。長尾景春は、その山内上杉家の「家宰」の立場だったが、文明の内訌の反乱機運から、同族内的な下克上の戦いが起こった。これが「享徳の乱」に連続する「長尾景春の乱」である。一方で、上杉に父を殺された古河公方と上杉一族が入り乱れて内訌し、夫々を支持する関東豪族が入り乱れて戦う戦乱が当時の状況であった。太田道灌は、扇谷上杉の家宰であったが、山内上杉を援けて、あたかも山内上杉の家宰のように立ちまわって、敵対派を鎮めていった。慈光寺と道灌の戦いは、「慈光寺実録」に詳しいが、道灌戦記には「越生の戦い」とのみ簡易に記されている。長尾景春は、そのあと、秩父:日野城(=熊倉城)を最後に記録から消える。
都幾山慈光寺のこと・・
新田庄の古刹、長楽寺の開山:栄朝も慈光寺の塔頭だったという。長楽寺は、新田一族(徳川家を含めて)の菩提寺的存在。慈光寺の奥に、霊山院という臨済宗妙心寺派の寺があるが、この寺の開山の師が栄朝であり、新田氏との関係から、建武時代以降・南朝との関係が窺い知れる。天皇との関係は、使者を迎いれる勅使門をわざわざ造っていることが証。さらに慈光寺は、畠山重忠の係累が何度か僧院に入ったとの伝承もあり、畠山が、北条時政には滅ぼされた経緯から、前北条家とも関係は良くなかったと考えられる。
外秩父山系は、新田の痕跡が幾つか・・だからと言って外秩父が、「新田」の勢力下と断定するつもりはないが・・・
東秩父牧場から「粥仁田峠」経由で秩父側に抜けるルートが、江戸時代は、「秩父往還」のメインルートであったらしいが、ここのルート上に「榛名神社」があり、どうやら新田氏が勧請したらしい。
ここから北へ移動すると、外秩父の北端に位置する釜伏山と付近の眷属:狼の「釜山神社」、さらに下りていくと風布に至り、眷属:カエルの「姥姫神社」がある。
この二つの神社の歴代の宮司さんは、「岩松」さんという。出自は、新田庄の、新田一族(少し複雑)‥「岩松家」となれば、案外ここら一帯は上野(=群馬)との関係が深そうな気がする。高崎出身の「土屋文明」の碑が慈光寺にあるのは、そんな関係なのかなあ・・