「代山」 地名考・
地名の由来を尋ねて、調べるのが好きなのです・・
その昔・・・
鷺山は、江戸時代ぐらいから鷺の生息地であった。
記録が残るのが江戸時代からであり、それより昔のことは定かではないが、
恐らく周囲の環境が大いに変化したという痕跡もないことから、
かなりの昔から鷺がこの地に生息していたことが窺い知れる。
鷺山の両側は、見沼の沼、そして綾瀬川の氾濫原の河原と湿地帯とであり、
そこが豊富な餌場を提供しているのだ。
鷺は、川や水田などを餌場とし、魚や両生類、爬虫類、更には哺乳類や鳥類までも捕食する。
かなり旺盛な肉食の鳥で、稲刈り時には剥き出しになった稲田のカエルなどを狙ってる姿も珍しくない。
それに鷺山は、外敵から身を隠す豊かな森に恵まれている。
さて、鷺山の「さぎやま公園」口から、道は、「天久保坂」の坂を登り詰める。
ここからが、地図の地帯で、・・
埼玉の高校野球の強豪「浦和学院」の敷地がある。
埼玉の高校野球の強豪は、おそらく、ここを含めて、「春日部共栄」「花咲徳栄」などであるが、
今年の夏の甲子園優勝校の「花咲徳栄」などは、どちらかといえば「新参」に近い。
この「浦和学院」がある地区が「代山」で、隣が「寺山」といい、ここに「浦和東」という高校が存在する。
「浦和東」は、日本代表のゴールキーパー・川島永嗣の母校。
「代山」の特徴は、神社である。
脇付近を通る道路は、日光脇街道(日光御成街道)で、大門宿から岩槻宿の中間地点であり、
この街道に面して「正八幡神社」があり、北の方向に「厳島神社」が、
さらに北の隣接地の寺山地区に、「天満宮」と「足立神社」が鎮座している。
およそ「神社」というものは、崇めるにも管理維持するにも「氏子」が必要であり、
貧しければ、氏子を多くして護ものである。
あるいは、「別当」といって管理・維持する資産家が氏子替わりをする場合もある。
檀家の多い資産のある寺が「神社」の面倒を見る場合もあるが、
明治維新の時、廃仏毀釈の機運が起こり、旧弊の神社と寺院の関係は途絶えた。
「浦和学院」の学校紹介
---・学校法人明星学園浦和学院高等学校は野田鷺山の東で、その昔太田道潅の武将小久保縫殿助の居城跡(城山)の南に当たる由緒深いところ、浦和市代山172番地(現さいたま市)に開校。・---とあります。
判物・書状から探る太田資正
---・の中にある文書からの比定のようですが、年代を精査すると多少荒っぽい結論のようです。つまり、太田道灌は1432年生まれ、大田資正は1522年生まれで道灌の曾孫に当たります。小久保縫殿助は大田資正の家臣で記載されており、小久保家が大田家の道灌以来の家臣だったかどうかは定かではありません。
浦和学院という高校は、湿地帯を埋めて造成し、また下方の幾つかのグラウンドは、沼地を埋めて作ったようです。
グラウンドの脇に鎮座する「厳島神社」は、もともと沼地に鳥居を持ち、北鬼門に位置していたので、北の護りの意味があったのでしょうか。現在の「厳島神社」は多少ずらして移動したようです。
「正八幡神社」は、城郭の門跡に当たるのではないかと思います。
岩付城(=岩槻城)の大田家は、源氏流の家系だったようです。八幡社は、それゆえかも知れません。
つまり、太田道灌(=法名)は、源朝臣大田左衛門少尉資長が公式名称とか。
湿地帯と沼地(浦和学園校舎とグラウンド)の南側は、小高い丘陵になっており、ここが城跡と思われます。
ここの丘陵を指して、城山(=代山)と呼び,
湿地帯と沼地は久保(窪)であり、坂の上部の方角であったので天久保の名が付いたのではないかと・・、
そして、この地を領有していた領主が「小久保」??
沼に隣接する北側も、小高い丘陵であり、ここに天神社<浦和市寺山1112(寺山字本村)>
寺山の地名は、かつてそこに極楽寺という伽藍があったことにちなむ---この辺りは太田氏の領地であったため、極楽寺は天正18年(1590)の岩槻城の落城の際、兵火のために灰燼に帰し、-----寺山の鎮守である当社は、岩槻落城後の村の開発に伴い、江戸時代の初期に創建されたものと推測される。---(「埼玉の神社」より)
・どうも、この書き方だと「極楽寺」は「小久保家」のゆかりより「大田家」ゆかりのといえそうか。
足立神社
---・無格社足立神社(寺山)。埼玉県武蔵国北足立郡野田村大字寺山字本村。無格社足立神社。一祭神猿田彦命。・---
こちらは、詳らかならず・でも案外安らぐ。