夏山に足駄を拝む首途かな 芭蕉
句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「夏山に足駄を拝む首途(かどで)かな」。元禄二年。『奥の細道』にある句である。「修験光明寺と云ふ有り。そこにまぬかれて行者堂を拝す」と書きこの句を『おくのほそ道』に載せている。
華女 『おくのほそ道』のどこで詠んでいる句なのかしら。
句郎 黒羽の館代浄坊寺何がしの方に訪れて、とあるから「黒羽」で詠んだ句なまじゃないのかな。
華女 栃木県大田原市黒羽でいいのかしら。
句郎 芭蕉さんのお陰で大田原の観光名所になっているよ。
華女 『おくのほそ道』途上の芭蕉宿泊地は今やその地の観光名所になっているのね。
句郎 芭蕉はたくさんの財産を今の世に残したということなのかな。
華女 『おくのほそ道』はそれだけ今を生きる人々に読まれ続けているということなのかもしれないわね。
句郎 なにしろ高校の国語の授業で学ぶんだからね。
華女 文化遺産は同時に観光資源ということなのよね。
句郎 この観光資源としてのこの句を観光してみたいと思うんだ。
華女 俳句は季語を詠む文芸だと日文科の先生から教わったような記憶があるけれどもこの句は季語「夏山」を詠んでいないわね。「首途」を詠んでいるのよね。
句郎 この句の発案は曾良の『俳諧書留』にある句のようだ。「黒羽光明寺行者堂」と前詞を置き、「夏山や首途を拝む高あしだ」とあるから、芭蕉は季語「夏山」を詠んでいるが推敲した結果、『おくのほそ道』には、「首途」の気持ちを詠んた。
華女 芭蕉の句は文学になっているということなのね。
句郎 そう、文学は人間を表現するものだからね。
華女 「足駄」とは、草履のようなものなのかしら。
句郎 「足駄」とは、高下駄のようだよ。
華女 朴歯のようなものが足駄なの。
句郎 修験道の祖だと言われている役行者、役小角(えんのおづの)は高下駄、足駄を履いて険しい山道を駆け抜け、修行したという伝説があるんだ。
華女 そういえば、昔の板前さんは一本歯の下駄を履いていたわ。私、昔、実際一本歯の下駄を履いて働いている板前さんを見たことがあるわ。
句郎 長靴を履いて働く板前さんより、一本歯の高い下駄を履いて働く板前さんの方が恰好がいいかもしれないな。
華女 長靴じゃ水虫に苦しめられるんじゃないのかしら。
句郎 私が高校生だったころ、通学に朴歯を履いて通ってくる人がいたのを覚えているよ。昔の旧制中学生は朴歯を履いていたらしいからね。
華女 私も見たことがあるわ。
句郎 芭蕉は関東平野のすそ野、夏山が間近に見えるところまで来てあらためて陸奥平泉に行く決意をしたんじゃないのかな。
華女 義経最期の地、平泉へ行きたいという思いを心にちかったということなのね。
句郎 旅の基本は足だからね。夏山を旅する安全を祈願し、思いが実現することを願ったんだろう。
華女 役行者が履いたと伝えられている足駄を拝み、旅立ったということね。