日本刺繍の師を探すのは、難航しました。その当時、『針の舟』(今はありません)という会を主宰なさっていた栗田敬子先生に電話で問い合わせを致しましたら、「こちらも、教材稽古です」と、おっしゃっり乍ら、相談にのって下さり、「鎌倉の秋山先生の所なら…」と、教えて下さいました。
早速、鎌倉の秋山光男先生の所に連絡をして、見学に伺いました。秋山先生の日本刺繍の色合いは、春宮の考えていた物でした。すぐに、稽古に伺うお約束をしました。
紅会、同じ年度に入った方が、「膝が痛くて…」等と話されていると、師から、「いいお水がありますから、お分けしましょう」と言われているのを聞き、『水で膝の痛みがとれる訳がない…あやしい』と(今は、若い世代に交代しているので不明です)、次々商法とあやしい水等には、関わりたくなくて、逃げました。秋山先生の所に伺うようになり、その話をしましたら、「あそこは、宗教入っているから…」と、あっさり言われました。宗教が悪いのではなく、人につけ込む商法が悪いのです。逃げるが勝ちです。
秋山光男先生は、戦前の皇室御用の日本刺繍屋で、小僧から修業して、戦争に行き、針1本で、鎌倉小町にビルを建てたような方です。その子息の博美先生と、お二人で鎌倉教室週3日とカルチャー3ヶ所で教えていらっしゃいました。
紅会で購入した帯地が、勿体ないから…それを仕上げてしまいなさい…と言われて、稽古がはじまりました。布地の台張りすら口頭と板書でしか習わず、自分たちで張っていましたので、布地の織を見て張る…と言われてもわからず、針の持ち方も1年間の自己流を直されるのは、指がつりそうでした。
稽古歴の長い高弟さん方が、先生に伺いたい事を聞かれて、帰ってしまわれた後、博美先生に殆ど一対一のような指導を受けました。日本刺繍は、右手は台の上、左手は台の下、右手の針を下の左手で受けて、上に上げ、右手で受けるの繰り返しです。針に通してある刺繍糸を微妙に操るのです。言葉では、表現出来ません。今なら、セクハラと言われそうですが、二人羽織のような状態で、針と糸の扱い方を教えていただきました。
刺繍糸に縒りをかけるのですが、これも、なかなか上手くなれませんでした。光男先生は、「糸縒りは、小僧の仕事だった。糸縒り3年」とおっしゃっていました。小僧仕事で、毎日縒って3年では、素人が難儀するのは仕方ない事です。日本刺繍も、昔は、男性の仕事、職人仕事でした。和裁もそうです。大変な分野に手を出してしまいました。