聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

地には平和

2024-12-10 11:37:05 | 日記

 先日、韓国で戒厳令が出されましたが、折しも、日本でそれに相当しかねないと懸念される「緊急事態条項」を憲法に追加することに関連する講演が地域での勉強会として開催され、参加しました。非常にわかりやすい内容で、日本の国政を考える上で、根本的なこと、つまり国民の平和のために、そもそも平和とは何かという平和学の観点からも学ぶことができました。一人の方が「平和とは何ですか?」と先生に質問していました。「3つの暴力①直接的な暴力:戦争や暴力、②構造的暴力:弱者が強者に虐げられる経済的仕組み等、③文化的暴力:戦争等を正当化、犠牲は仕方ないとする思想 が合わさって平和の実現を妨げている。よって平和とはこの3つの暴力をなくし、お互いをケアする、助け合う、人権を尊重する社会が構築されている状態。」と答えておられました*1。

 人間のこれらの暴力を引き起こす原因は、欲であると私は思います。欲求自体が悪いという意味ではなく、人として生きる上で基本的欲求は満たされるべきであり、それが互いに尊重されるのが望ましいのですが、それを超えた「貪欲」が他者を害する悪につながるという意味です。多くの人は私を含めて自分がまず大切です。自分を大切にしようとすると、どうしても他者との利害関係が発生し、忙しくて他者のことまで手がまわらないのが現状だと思います。忙しいとは、心が亡ぶと書きますが、忙しくしていますと他者のことを気遣う余裕がなくなります。

 この平和の定義を聞いて、聖書の平和と非常に似ていると気がつきました。聖書で平和のことを「シャローム」(ヘブル語)と言います。聖書における平和とは、何かが欠如していない充足状態をさし、無事、安否、平安、健康、繁栄、安心、親和、和解など、人間の生のある領域にわたっての真の望ましい状態を意味する語で、単に精神的な平安状態のみではなく、社会的具体性を伴う福祉状態を総括する概念を指しているそうです*2。

 イエス様は「隣人を自分のように愛しなさい・」*3と教えられました。これが互いにできれば平和に繋がるのですが、机上での理想では平和は実現しません。実際、自分に余裕がない時、自分に敵対する人が目の前に置かれた時、初めて自分の力や意思で「出来ない」という限界に突き当たります。その時「人間だから仕方がない」と諦めるのではなく、どうしたらよいのでしょうか。そこで、私たちキリストを信じる者は神様に祈って助けを求めることができるのが、慰めであり、励ましです。神様を求めるきっかけは、自分で平和が作り出せない、自己中心的な自分を認め、私たち人間を創られた神様に助けを求めることからかもしれません。自分で頑張れる、自分の力(他者の力も)を信じているうちは、神の助けは必要ないからです。「私には神はいらない、神などいない!」という方には、真の神との平和がないと言えます。

 神の御子イエス様は、神に背を向け、神との間に平和がない人々との和解をもたらすために、つまり下記の「地には平和」をもたらすために神様がこの世にイエス様を送ってくださいました。イエス様を通して与えられる神様の愛と救いの現実そのものが、平和を指していることが聖書を読んでいるとわかってきます。例えば、イエス様が12年間出血が止まらない女性をいやした時*4、罪深い女性の罪を赦された時*5、彼女たちに「安心して行きなさい」と言われ、この「安心」と「平和」が同じ言葉(エイレーネ:ギリシャ語)なので、「平和のうちに行きなさい」とも訳せます。イエス様によって病が癒されるとその人に平和の心がもたらされ、イエス様が「あなたの罪は赦された」と赦しの宣言を与えるとその人に平和が与えられます。究極の平和は神様との平和をまず持つことであり、それがイエス様の十字架と復活の御業を通して成し遂げられました。この救いの御業を感謝し、キリストにある平和を与えられて、この困難な時代を生き、周りの人々にキリストの平和を伝えていくことが、私たちクリスチャンの使命です。それは簡単ではないです。出来ません!と叫びたくなることもあります。しかしイエス様ご自身が平和の源であり「安心して行きなさい」と言って、今も私たちを日々送り出して下さる、そのような大きな励ましと力が与えられることを信じ、地には平和がもたらされるようにと祈り続けたいと思います。

   すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。

      「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。 ルカによる福音書2章13-14節

(引用 新共同訳聖書)

*1 「緊急事態条項について考える」、宇都宮大学国際学部国際学科 清水 奈名子教授、2024年12月8日、於:益子町さやど公民館より

*2 『新聖書大辞典』p1199、キリスト教新聞社、1971年、引用

*3 マタイによる福音書22章39節

*4 マルコによる福音書5章34節

*5 ルカによる福音書7章50節


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