私たちは普段は家で料理を作って食事をしていますが、たまにレストランに行くことがあります。お客様がいらした時や、何か大きなイベントが終わったあとの「お疲れ様会」のような時に、自分たちで料理を作って後片付けをするということなしに、食事を頂きリフレッシュするという目的があります。歴史的に外食する文化は古代からあり様々な呼称はあるそうですが、「レストラン」という言葉は 18 世紀に、フランスのパリで店を出した人が看板に「胃を痛む者は誰でも私のもとに来なさい。元気にしてあげよう」と記し、スープ、鶏肉、ゆで卵などをお客に出したのが始まりだそうで、ラテン語の「レストラーレ」(以前の状態に戻す、回復する)が語源だそうです。どこかで聞いたことがあるフレーズ。さすがキリスト教文化の歴史が長いヨーロッパならでわですが、下記のイエス・キリストの言葉「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」をもじったとされるそうです*1。
外食であれお家ご飯であれ、食事を共にするということは喜びであり、食事をとることで心身ともに回復されます。しかし、現代は自然なままの食物を食べることが難しくなっている、つまり遺伝子組み換えをされた小麦、成長ホルモンを投与された鶏肉、大量の農薬つき果物・穀物と保存料つきの食糧が多く市場で出回り、また産地の偽造など、食の安心が危ぶまれ、それらが体内に蓄積されて健康に害を与えているでしょう。食べて「回復」どころか、健康を損なう可能性があります。利益を追求し、自然のサイクルを損なって、結局それが人間自身に帰ってくることを考えますと、これだけ進歩した科学技術と知恵をもってして、利益追求でなく自然にそった生活と経済の流れを可能にする方法を研究開発できないものかと常に思います。
イエス様は、わたしたちが心身ともに疲れ、負のスパイラルにはまって疲弊してしまう弱さ、また他者のことより自分の利益を追求してしまう罪深さをご存じです。そこで「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と招いて下さっています。イエス様の所へ行くとは、イエス様を通して提供される神様の救いを信じることです。これを信じるにはまず「自分はなぜ疲れているのか?その結果どうなっているのか?」と自分自身に問うとよいでしょう。そして、神様からのメッセージが記される聖書を読んでいると、こんなに疲れ、虚しく、死んだら終わりの希望がもてない人生を送っているのは、自分が神様から離れていたからだと気が付くのではないでしょうか。もともと神様は人間を愛するために創られ、自然と調和した極めてよい状態に造られたと聖書に記されています*2。そして、人間がその神様から離れてしまうことを、聖書では「罪」と言います。神なしで自分で生きられるという高ぶり、その罪を自覚した時、それに対する救いがあるのか?と求めるなら、さらに聖書の言葉を読むと答えが示されます。「だれでも、求めるものは受け、探す者は見つけ、門をたたく者には、開かれる。」*3 とイエス様の言葉のとおりに聖霊の働きで信仰に導かれるからです。
神様がわたしたちの罪を赦し、新しい命と希望を与えてくださるために御子イエス・キリストを地上に送ってくださりました。イエス様は私たちのすべての罪を負って代わりに十字架につけられて罰せられ、そのおかげですべての人の罪が赦されて、もとの状態、神様と共に信頼していられる平和な状態に回復:リストーレするようにしてくださったのです。そして、イエス様ご自身が3日後に死からよみがえられて、天に戻られたことで、キリストの救いを信じる者も死で終わるのではなく、永遠の命を与えられることが聖書に記されています。多くの疲れている人々、希望が持てない状態に悩む人々が、一時的なその場しのぎの回復ではなく、キリストを信じて休みを得、さらに魂の平安を得られる、つまり真の回復が与えられるよう祈り続けたいと願います。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」 マタイによる福音書11章28-30節
*1「アレテイアー釈義と黙想 ヤコブの手紙 ペトロの手紙1,2 ヨハネの手紙1,2,3 ユダの手紙 ヨハネの黙示録」、日本キリスト教団出版局、2002年、184ページ引用
*2 創世記1章31節
*3 ルカによる福音書11章10節