聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

礼拝メッセージ「神は我々と共におられる」

2024-12-07 09:08:26 | 日記

聖書箇所   マタイによる福音書1章18-25節 

  本日アドベント第2主日は、マタイによる福音書一章からメッセージをさせていただきます。エル・グレコというスペインの画家がいます。彼の「受胎告知」の絵画は有名で、倉敷市の大原美術館に展示されています。その中で描かれるマリアの表情が驚きと喜びの両方を表していて、とても力強い絵画です。おそらくこの絵はルカによる福音書のマリアの応答をもとに描かれたのではないかと思います。なぜなら、マタイによる福音書のイエス様の降誕のストーリーではマリアは沈黙していて、マリアの様子が表されていないからです。マタイでは、マリアの聖霊による妊娠というショッキングな出来事にとまどい、悩んだ、いいなづけの、そして夫となるべく決意したヨセフについて記されています。マリアより妊娠を知らされて、どんなに彼は悩んだことでしょうか。ここでの「正しい人」という意味は律法を守る人ということであり、もし律法に従うと、ユダヤ社会での婚約は結婚と法的に同等の為、マリアを姦淫の罪で石打ちの刑に至らせてしまいます。ヨセフはマリアを愛していたのでそれは避けたかったのでしょう、ひそかに離縁をしようと決心したとあります。ヨセフがマリアを妊娠させておいて離婚したとし自分が負い目を負う可能性をとろうとしても、マリアはシングルマザーとして生きなければならないですし、いずれにしても解決策のない行き止まり状態にヨセフは苦悩したに違いないのです。

  そんな苦悩しているヨセフに、神様は夢でみ使いにより20節「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」と言われます。ヨセフは1章16節にあるようにダビデの家系ですが、ダビデの王家はユダ王国がバビロニア帝国により滅ぼされ人々がバビロンで捕囚となって以降、もはや王族ではなく、旧約聖書にも名前が記されていない一般市民へとつながっていることがマタイが記す系図によりわかります。それでも、ヨセフはダビデ家の家系であり、聖霊によって妊娠しているマリアを妻として迎えることで、イエス様は実子としてその家系に入れられました。なぜ、家系にこだわるのでしょうか。それは、旧約聖書でダビデの子孫からメシアがおこると預言されていたからであり、神様はその為にヨセフとマリア夫婦の子としてイエス様を生まれさせたのです。

イエスという名は当時よくある名前で、ヨシュアのギリシャ語です(ヘブル語だとイエシュア、「主は救う」の意)。イエス様は、その名の意味するとおり「自分の民を罪から救う」方で、キリストとはメシヤ(救世主)のギリシャ語ですからイエス・キリストは名前と称号の組み合わせです。ユダヤ人にとってメシア救世主はダビデの家系からでる、来るべき王をさしていて、このメシアを神が送り、ご自分の民イスラエルを回復させ、国家として独立させ神の民としての栄光を回復してくれるとユダヤ人は待望していたのです。しかし、1章21節が示すように、預言されている神様のご計画に基づくメシアは「罪から救う方」だとはっきり天使は告げています。それは、メシアは単なる政治的救世主ではないというメッセージです。そしてイエス様の公的生涯においても、ご自分が罪を赦す権威があるとされ(マタイ9章2節 中風の人の癒し)、ご自分が死ぬ目的は多くの人の「罪を赦すため」流される血である(マタイ26章28節)と最後の晩餐の時、ぶどう酒をとって説明されました。エペソの信徒へ手紙1章7節「わたしたちは、この御子の内にあって御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」とあるように、この主イエス様による罪の赦しは、神様の豊かな憐みと恵みによることをクリスマス以外の時期でもいつでも覚えて感謝したいと思います。そして、もはや、イスラエルだけが神の民ではなく、イエス・キリストを信じるすべての民がこの恵みを受けられるという福音です。

 1章23節「見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」はイザヤ書7章14節の預言の引用で、この預言がこのイエスの誕生で実現したとしてマタイは記しています。マタイによる福音書のスタイルは一貫して旧約聖書のメシアについての預言の箇所を引用し、それがイエス様において実現したことを述べています。マタイが指摘しているイエス様の来臨、誕生、生涯、死、復活に関しては300以上の旧約の預言が成就しているとされます。インマヌエルとは「神はわれわれと共におられる」という意味であり、これは名前というよりそのご性質や使命を表すと言えます。実際、イエス様が「インマヌエル」と呼ばれたことは聖書で記されていません。イエス様が昇天される前に「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20)と言われたように、イエス様はいつも共にいて下さる方であることをその名が示しています。「神が共におられる」ことは、旧約聖書で何度か神様が言われているメッセージでもあり、まずヤコブが2回(28:15エサウから逃げる時、46:4はエジプトへヨセフに会いに行く時)、それも人生の転換期の時、先が見えない危機的状況に独りで立ち向かわなければならない時に、神様より「わたしはあなたと共にいる。」と言われています。ヤコブの息子ヨセフも他の兄たちにエジプトに売られた時、神がともにいたから守られた(39:2.21)とあり、このように神様は共にいて導いてくださる方であることが記されています。ちなみに、このヨセフも夢で預言が示され、夢を説くことができます。

 ダビデの子孫であるヨセフがイエス様の救いの御業において、神様から人としてイエス様の父親役を任されたように、私たち一人一人も様々な形で、小さいことかもしれませんが神様の御業において共に働かせて頂く協力者として招かれていることを、本日の箇所は現代に生きる私たちへ励ましていると思います。ヨセフは、神様を信じて神様の御告げに従いました。それは、簡単なことではなかったと察します。神様の救いの業に参加させられたマリアとヨセフは、ベツレヘムまでの旅が守られ、イエス様を無事に産むことができ、ヘロデ王の魔の手からエジプトへ逃避して、ガリラヤに戻るという、幾つもの危険な旅を乗り越えられました。この体験は、二人にとって神様がともにいてくださったことの実体験だったと言えます。ヨセフもそうだったように、神様の御業に関わること、つまり神様から示された道に従って歩もうとすると、いつも喜びや楽しみの道ではなく、苦しみ、痛み、困難が伴うことのほうが多いかもしれません。それでも、神様の約束を信じて従おうとし、乗り越えられる力が与えられると信じ続けられるのは、イエス様の約束「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20)という、信仰の確証によると思います。

 神様を信じるとは、神に従うことです。「いえいえ、神様、聖書にはそう書いてありますが、わたしはこれをたくないです。」と、神様の愛の戒めから離れ、自分がしたいことをするという態度を続けていますと、自分の中に二人の主人を持つような葛藤がおこります。するとさまざまな喜びは一時的で、結局自分のために生きている、もしくは人のために生きていかねばならない重荷と虚しさに行き詰ってしまうでしょう。また、教会内において、「私は教会へ行かないで、独りで神様を礼拝しお祈りします。一人で信じているので十分です。」という人がいたらどうでしょうか。神様は人を一人で生きるように造られませんでした、それでアダムにエバを創って傍につれてきたように、神様は人間を他者と関わる社会的な存在として、互いに愛し合うように人間を創られたことが、創世記の初めを読んでいてもわかるでしょう。

 ヨハネの第一の手紙1章7節に「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」と記されています。イエス様の十字架で流された血により、御父とイエス様を信じる者との関係を正しい状態に回復させられるのです。正しい状態に回復されることは、信仰によって義と認められることと言います。神様との関係の回復、和解がもたらされ、それがベースで人同士の関係の回復へとつながっていきます。ヨハネの手紙は特に、兄弟愛についての教えを記し、私たちがキリストの贖いによって罪が赦され、新しい命が与えられたものは、暗闇から光へと移され、光の中を歩む者となると記しています。イエス様が新しい戒めとして与えた「わたしがたあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」をただ聞くだけでは、その意味を知ることができないと思います。愛しにくい兄弟姉妹が目の前に置かれた時、私たちが出来ると思っていたことが出来ないと直面させられるでしょう。その時、自分は神様の憐みと恵による罪の赦しを受け、感謝してそれで終わるわけでなく、神様に従う気があるかが問われるのではないでしょうか。

 私はクリスチャンホームで育ち、神様の存在は信じていましたが、30歳になるまで神様の救いの恵みがよくわからず、よって神様に従うということが窮屈に強制的に感じ、教会でも苦手な人は避けていましたし、自分を棚にあげて他者を裁いていました。ですから教会の兄弟姉妹の方々はどれほど私に忍耐して接してくれたか、その時は気が付かなかったのです。しかし、神様の憐みと恵によりイエス様の十字架の贖いがはっきりとわかり、悔い改めて信仰の道に戻していただいて以来、今まで教会の皆さんが私に忍耐をし、愛して下さったことを感謝することが出来ました。そして、今度は自分が愛する側になろう、忍耐する側になろうと、信仰が成長させられるのにずいぶん時間がかかったものです。主のために生きるとは、神様を信じ神様に自発的に従うことだとの確信が私の中で聖霊により与えられ、たとえ、不完全ではあっても、徐々に内側が変えられていっているのは神様の恵みによります。もちろん、罪は犯しますし、失敗はたくさんしますが、そのつど悔い改めに聖霊が導き、神様に赦され、立ち直らせていただけるという恵みのサイクルの中に生きることができるのは幸いです。

 私たちは、神様が自分の人生において、どのようにヨセフのように神様のみ業の協力者として用いて下さるかはわかりません。分かることは、まずは神の家族である兄弟姉妹をキリストの愛で愛そうとすることが、神の御心にそった協力であり、それに従えるよう必要な助けを求めて祈っていきましょう。私たちをとりまく状況に様々なことがおこっても、心折れることがあっても、このインマヌエル「神がわたしたちと共におられる」で励まされます。神様がわたしたちを憐れみの心をもって、罪を赦してくださるために主イエス様をこの世に送ってくださり、その救いの御業により自分が今生かされていることを覚え、救い主イエス様の誕生を喜びつつ、この降誕節の日々を歩んでいきたいと願います。


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