聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

旧約聖書の学び 創世記9章 虹の契約

2024-12-19 21:51:23 | 日記

(益子教会 毎週木曜10時半「聖書に親しむ会」で、旧約聖書を創世記から順に学んでいます。その概要を掲載しています)

 洪水後、神様はノアだけでなく、ノアの子供たち(セム、ハム、ヤフェト)にも新しい時代における神様の祝福を語られました。神様は新たに、ノアの家族と一緒に箱舟に載った生き物に、産み、増え、地上に広がるようにと言われました。しかし、創造の時の人間と動物、生き物との関係が以前のようではなくなってしまいました。人間は他の生物を支配せよ(管理せよ)というのは同じですが、生き物は人間の前におののく、つまり人間を恐れるように変わります。そして、以前は人間も生き物も草食だったのですが、肉食が許されます。なぜ、神様がこの時点で人に、3節「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい」として与えたのかはわかりません。しかし、神様はひとつだけ条件をつけました。血を含んだ肉を食べないこと。血は命だからと。これは、神様が後に与えた律法で、動物の犠牲を捧げる時も、動物の血は水のように注ぎださねばならないと規定されています(申命記12:16,24 15:23)。神様はたんにイスラエルの民へ律法での祭儀的な規定として血抜きをするように言われたのでなく、これは全ての人への神様の命令であります。なぜ血を食べてはいけないのでしょうか。血が、神様が創られた命を表すからとされます。つまり、自分の食糧のために生き物の命を犠牲にするとき、その動物は神様のものであり、その命を犠牲としていることを忘れてはならないのです。そのしるしとして、命を表す血は食べてはならないのです。

なぜ人の命が大切なのか。あるTVのドラマで、高校生が検事に「なぜ人を殺してはいけないのか?」と質問し、答えにつまった検事は「一緒に考えましょう」と高校生に言ったシーンがありました。おそらく検事は刑法に殺人の規定があることは説明できても、例えば「人を殺してはいけないというが、戦争では人を殺してよいのか?」に対しての時代や国、究極的には人によって多様な考えがあるので、「一緒に考えよう」と言ったのでしょう。しかし、「命を奪ってはならないこと」の理由は人が考えて決めることではないと、聖書は明確に記しています。5-6節「あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。…人は神様にかたどって造られたからだ。」とあるように、すべての命は神様が創造して作ったもので、神様のものであり、特に人は神様にかたどって造られているからそれを損なってはならないのです。神様の所有の人の命を奪うことは、神様に対する犯罪、神様に対して賠償責任を問われるのです。イエス様は「互いに愛しあいなさい」という命令を弟子たちに言われました。それは、神様が造られた人間であるから、造られたもの同士相手を尊重し、相手から奪わず、相手を傷つけず、平和に互いに生きること、それが神様の求めている人間関係であると言えます。神様抜きで考えた人権、尊厳は国連憲章でいくら定めても、異なった命に対する考え方、慣習、歴史を持つ人々にとってはそれに同意できない部分もあるでしょうし、自分たちが良いと思うことを続けるのではないでしょうか。

12節からは、ノアと神様は契約を結ばれることが記されています。その契約とは、8章21節にも記されていることをさらに詳しく、「2度と洪水で肉なるものを滅ぼすことはしない」という内容で、雲の中の虹(「弓」の意味)をそのしるしとされました。神様は虹を見て契約を思い起こすと言われました。このノアとの契約は神様の一方的な恵みの保証として置かれていて、契約における人間側の義務が記されていません。人間がどうであれ、神様はこの契約を守って下さる方です。

そして、18節からはその後のノアと子どもたちの話が記されています。ノアは農夫(土の人という意味)でぶどう作りを初めて始めたようです。ぶどう、ぶどう酒、ブドウ園、ぶどうの木は、聖書では非常によく出てくる表現で、祝福を意味している箇所が多く(ミカ書4:4 ホセア書ア2:17)、イエス様は譬えで「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」(ヨハネによる福音書15章5節)と言われました。ノアがぶどうの栽培を始め、ぶどうの実が発酵してぶどう酒となり、ノアはそれを初めて飲んだと思われます。ノアがぶどう酒を飲んで酔ってしまい裸で倒れてしまった事と、子どもたちのとった態度を聞いて、父親であるノアが祝福と呪いのことばを3人に言ったことが記されています。信仰の人ノアの発言が記されているのがこの箇所だけであるのも興味深く、子が親を尊敬すべきであること、十戒の「父と母を敬え」が思い出されます。人類は3人の息子たちからさまざまな人種が分かれていくことが10-11章の系図に記されていますが、その中で注目されるところはセムの子孫がアブラハムへつながることです。このセムからダビデ王、そしてイエス・キリストというメシアの系図につながります。


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